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無情にも、規則正しく明日はやって来る。
喉が渇いている。毛布の中は想像以上に蒸し暑く、首元には汗をかいている。あまり爽やかな目覚めではなかった。
毛布を抜け出し、埃だらけのフローリングの上にへたり込んだ。隣にあったはずの布団は綺麗に畳まれて部屋の隅に置かれており、その横で、スーツ姿の朱音が髪を結っている。
「おっ、起きた」
朱音は俺を見て、小さく手を振った。
「昨日、ありがとね」
「何が?」
「布団」
思わず、俺は空咳を二、三回繰り返す。
「俺は毛布ですよ」
「別にこっちに入ってきても良かったのに」
俺が言葉を返す前に、彼女は髪を結い終え、そそくさと立ち上がる。
「今日は実家の方に帰るから、晩ご飯は自分で作りなよ。あと、別に大学でもレコード屋でも楽器屋でもどこでもいいから、今日も必ず外に出ること。オーケー?」
ここまで言われてしまうと、はい、分かりましたお母さんと返事をするしかない。俺は部屋を出て行く朱音を見送り、毛布の上に座り込む。
部屋は静まり返った。カーテンの隙間から差し込む朝の光は弱々しく、夜のうちにすっかり冷え込んだ部屋の空気は、当分暖まる気配を見せなかった。爪先が凍るように冷たく、俺は毛布を被り、苦し紛れに貧乏揺すりを繰り返す。俺の心の内に潜む、ろくでもない寂寥感が部屋の薄ら寒さに拍車をかけていることは明白で、この時、つくづく朱音という存在の偉大さを痛感するのである。
音が欲しい、なるべく賑やかな音が欲しいと、テレビのスイッチを入れ、朝のニュースを流す。どのかの局の女子アナウンサーの甲高い笑い声が部屋を余すこと無く駆け回り、俺は僅かながらの安らぎを得た。
「そうなんですよねえタチバナさん。ところで来週はハロウィンということですがあ、タチバナさんはハロウィンと言えば何を思い浮かべますか?」
画面の中で、タチバナと思われしき初老の司会者が口を開ける。
「最近の若い子は仮装パーティーとかするんでしょ? でも僕はやっぱりお菓子くれないとイタズラとか、後はカボチャくり抜いてお化け作ったりとかね」
「おっ、カボチャ! そうなんです、ハロウィンと言えばカボチャ、ジャック・オー・ランタンが凄く有名ですよねえ」
またカボチャか、俺は首を捻った。
「実はあのカボチャのお化けは、天国にも地獄にも行けずにこの世をさまよっているんだそうですよ、ご存知ですかタチバナさん」
「えっ、地獄から来たお化けじゃないんですか?」
「そうなんですタチバナさん、生きていた頃にい、死んでも地獄に落ちないように悪魔と取引をして、でも日頃の行いが悪過ぎるから天国にも行けなくて」
これ以上その話を聞く気にもなれず、スイッチを切り、大学へ行くことにした。
寝癖だらけの頭に濡れタオルを乱暴に擦り付けている間にも、「天国にも地獄にも行けない」という言葉だけが、頭の中で反復していた。昨日から今の今までに俺が見た幾多ものジャック・オー・ランタン達から、お前もまた天国や地獄に行けると思うな、と言い聞かせられているような気がして、仕方が無かった。
部室へ行くと、一年生、二年生の集団とは少し離れた席に、スーツ姿の廣川がいた。机の上に缶コーヒーと手帳を置き、椅子にもたれ、スマートフォンの画面を凝視している。俺が入って来たことにも、気付いていない様子だった。
「おい」
俺の声で、廣川がようやく振り向いた。
「またお前か」
「朱音さんがうるさいから来た」
俺がそう言うと、廣川は肩をすくめて笑い
「お前、あの人いないと多分マジで死んじまうぞ」
と吐き捨てる。まさか、と笑って返したが、ともすれば、本当に死んでしまうのではないだろうか、とも思った。
一人暮らしを始めてから今年で四年目になるが、未だに自炊ができず、週に三回から四回は、朱音に夕食を作ってもらっている状況だ。もし彼女が部屋に来なくなれば、俺は三食冷凍ピザだけを食べ、それに飽きたら牛丼を食べに行くような生活を延々と続けるだろう。これほど悲惨なことはそうそう無い。俺はまるで他人事であるかのように、朱音去りし後の未来予想図を漠然と考えた。
就活か、と聞くと、これから説明会だ、と廣川は応えた。会場が大学から歩いて十分足らずの位置にあり、そのついでに部室に顔を出した、と言う。
「介護業界なんだけどさ、なんか最近関西の方に老人ホーム建てまくってる。来週の学説にも来るし、そこそこ大手よ」
「お前、この前はずっとSEばっかり見てなかった?」
「SEは無理だ、全然引っかからない」
あまりにもあっけらかんとそれを言う廣川の姿に、思わず笑ってしまった。
「節操無いんだよ、だからお前落ちまくるんだよ、じゃない?」
「拘り過ぎりゃお前みたいになるだろ」
廣川が口を尖らせる。
「いや、俺もやり過ぎなところあったけど、でも」
彼の反撃に、思わずたじろいでしまった。
俺は解禁時からスーツを脱いだ夏半ばまで、バンドサークルの人間ならば音楽に纏わる仕事に就くべきだろう、という浅はかな拘りから、レコード会社一本に対象を絞って就職活動を行っていた。結果は言うまでも無い。廣川は、その醜態を指摘しているのだ。
「俺は行けると思ったんだよ、でも同じことを思ってる奴は東京だけで何百人もいたんだよな」
「自分の拘りに根拠の無い自信を持てるってのは、お前の凄いところだ」
廣川が言い、手元に置いてあった缶コーヒーをぐいと煽る。
「お前いつだったっけ、朱音さんに誕生日プレゼントだって自転車買って、俺って最高のセンスしてんだろって、俺に言ったじゃない。俺あの時、こいつ天才だなって思ったもんね」
「何の天才だよ」
「だからあれだよ、自分の拘りに無駄に自信を持てる天才」
ただの皮肉なのか、それとも本心からそう言われているのだろうか、俺に構わず、廣川は矢継ぎ早に言葉を繰り出してくる。
「でも、これだって拘って、そのまま突き通したとして、必ずうまく行くって保証は無いじゃない。現に、うまく行ってないよな?」
「そりゃもう、うまく行ってないどころじゃないな」
癪だったが、そう言わざるを得なかった。
「そういうことだよ」
「どういうことだよ」
「お前は拘りが過ぎちゃってダメ、俺は拘り無く手当たり次第に受けまくってダメ、拘りを程々に持ってる奴が一番強い」
俺が返す言葉に戸惑っているうちに、廣川は缶コーヒーの残りを飲み干し
「ロックスターになりてえな」
そう言い残すと、そそくさと部室を出て行った。廊下の向こうへと遠ざかって行くスーツ姿を見て、俺はまた一歩、世界が歪な前進を始めたなと思った。
日が暮れ終わる頃に、アパートに帰った。
灯りを点け、冷たく固いフローリングの上に身を投げ出す。寝転がりながら、今日の夕食をどうしようか、と考える。もう何週間も前に実家から送られてきたレトルトカレーを消費するか、それとも近所のコンビニで簡単な惣菜を買い、冷蔵庫に入れっぱなしのご飯と一緒に食べようか、あれこれと考えた挙句、俺は部屋を出て、牛丼屋へ行くことにした。
レトルトカレーがとんでもないゲテモノである可能性も無いとは言い切れない。その点牛丼には外れが無い。よほどのことが無ければ大した不快感を覚えること無く、簡潔に食事を済ませることができる。わざわざ外出する手間を考慮したとしても、今の俺には大変相応しい食事だった。結局のところ、今の俺にとって飯というものは、単なる生命維持ツールでしかないのだ。
街灯が薄く光る商店街を歩いていると、向こう側の八百屋に目が留まった。濃い深緑色を帯びたカボチャが、店先に並んでいる。蛍光灯に照らされ、ワックスで磨き上げたかのように、鈍く渋みのある光沢を放つ。
その艶めきに俺はつい見惚れてしまい、店先の方へと足を取られてしまっていた。顔を上げたところで、店の奥に座っていた主人と目が合ってしまい、ここで俺はしまった、と思った。
「いいカボチャでしょ。ハロウィンだからね、いいやつ仕入れてるよ」
主人が言う。俺は諦めた。
「凄いですね、こんなにいい色になるんですね」
「どれか持って行きなよ、安くするから。煮付けにでもして食べちゃいな」
「煮付けですか」
瞬間的に、昨日の煮付けを思い出す。そこで一つ、あることを閃いた。俺がここでカボチャを買い、朱音が来る日に前もって煮付けを作っておき、彼女を驚かせる。感謝と慈愛に満ちたサプライズだ。悪くはないな、と考えた。
目につく中で最も艶めきが良いものを一つ手に取り、店主に渡す。
「じゃあ、四〇〇円ね。重いから、気を付けて持って帰んなさい」
野菜の相場に不案内な俺にとって、果たして四〇〇円という値段設定は本当に安いのだろうか相応なのだろうか、それとも足元を見られているのか、見当も付かなかったが、気が付けば俺は紙袋に包まれたカボチャを抱え、商店街を歩いていた。
一瞬のうちに牛丼一食分の金をカボチャに変えてしまったと、商店街の端で途方に暮れた。そのまま裏路地へと曲がり、アパートへと戻る。
カボチャを紙袋から取り出し、置き場所に迷った俺は、ひとまず電子レンジの上に、それを置いてみることにした。白と黒と灰色ばかりが目につく、モノクロームにまみれた部屋の中で、どこまでも吸い込まれるような深緑色のカボチャが一つ、電子レンジの上で、ただならぬ存在感を放ち始めた。
「いいぞ、貫録の緑だ。いぶし銀のグルーヴだ、ツェッペリンだ」
俺はカボチャにそう語りかけたが、言葉は返らない。
「これで俺もハロウィンだ」
そう呟くと、俺はそれだけで何故だか無性に満足してしまい、毛布の上に転がり、そのまま朝まで眠りこけてしまった。
それから、一週間が過ぎた。この七日間で気温は加速を付けて下がり、街路樹の葉が潤いを失って茶色く萎れ始め、たちまちに冬の足音が近付き始めた。俺は相変わらずスーツに袖を通すこともなく、圧倒的な存在感を以て電子レンジの上を陣取るカボチャを見て、時々「いひひ」と笑うなどして日々を過ごしていた。
「ずっとこんなところに置いて、傷まない? 早く食べちゃいなよ」
朝食で使った食器を洗いながら、朱音がカボチャを指差し、俺に言う。
「食えないんですよ、恐れ多くて」
「何それ」
彼女は目を細める。
「ほら、こうやって置いてあるとハロウィンだなって気がしませんか」
「ハロウィン?」
「俺もハロウィンに取り残されずに生きていけるんだって、気がするんですよね」
「前にも言った気がするけど、正樹って自分の気まぐれな思い付きって言うか、そういうのに妙に拘るよね」
仏頂面の朱音が、カボチャを人差し指で軽く突く。俺は、先週の廣川の言葉を思い出してしまった。
「それ、廣川にも大体同じこと言われましたよ」
「ほら、やっぱり同じこと皆思ってるってことでしょ?」
朱音は自分の髪を手で梳きながら、乾いた笑みを俺に向ける。
「そういう拘りが祟って就活もグダったんだから、もうちょっとそういうのを捨てる努力をしないと」
「はい」
「まだ学内説明会ってあるんでしょ? 定期的には」
「はい」
「いつ?」
尋問のようだ。とうとう観念する時がやって来たようだった。
「多分、今日とか明日とか」
恐る恐る朱音の方に目をやると、彼女は案の定、思いがけない言葉に目を丸くしている。
「何でそんな悠長に構えてられるの?」
「いや、別に悠長ってわけじゃないんですけど」
予想以上の剣幕にしどろもどろな俺をよそに、朱音はクローゼットの奥から俺の就活スーツを引っ掴み、俺の胸元へ、ハンガーごと乱暴に押し付けた。
「行ってきな、今日こそは」
「はい」
「絶対いい会社あるから、行くだけ行ってきな」
「はい」
「約束だからね!」
朱音はコートを羽織ると、いつものように素早く部屋を出て行った。
果たして独り取り残された俺は、皺無く整然とハンガーに吊るされたスーツを、呆然と眺めていた。今年の夏にクリーニングに出して以来、一度たりとも着ていない。
ここでスーツを再びクローゼットの奥にしまい、どこかへ遊びに行っても、そのまま寝ても良かった。ただ、さすればあの朱音も、とうとう俺に愛想を尽かすことは間違い無いだろう、と思った。二、三年もの長きにわたって朱音の恋人を務めてきた人間としての、一種の「カン」のようなものが、今日はいつにも増して機敏に働いていた。
「お前、あの人いないと多分マジで死んじまうぞ」
廣川の声が天から降って来る。俺は漸く覚悟を決め、スーツの裾に腕を通した。
俺が夏から痩せたからか、それとも背広が崩れて広がったのか、自分の採寸に合わせて作ったはずのスーツが、必要以上に大きく感じられた。久々に髪型をジェルで整え、ビジネスバッグを持った俺が、電車の窓に薄く反射している。
「俺はロックスターになる」
誰にも聞こえないように、ドアの向こうにうずくまりながら呟いた。
「俺は和製サーティーンズ・フロア・エレベーターズになる」
口に出しながら、我ながらつまらない冗談だと自嘲した。いたずらに歳を重ねた挙句、いつしか本心のつもりが冗談に成り下がってしまった台詞である。俺は、哀れだろう。
電車を降り、駅から大学へ至る学生街を歩いていると、道路の中央に規制標識が置かれていることに気が付いた。目を通すと、普段なら昼過ぎで終わる歩行者天国が、どうやら一日中続くらしい。
「『歩行者天国』ハロウィンパーティー(仮装祭)開催の為、午前一一時より終日(午後二四時迄)車両通行止め」
初耳である。去年も一昨年も、そのまた前の年も、このような行事が行われていた記憶が無かった。
周囲を見渡すと、「HALLOWEEN」と、赤文字のバックプリントが施されたパーカーを着た人間を、ちらほらと見受けられた。パーティーとやらを企画した団体のスタッフだろう。そしてその風貌や会話、何より全体の「なあなあ」とした雰囲気から察するに、学生団体、しかも我が大学の有志によるものだろう、俺は推測した。何れにせよ、俺には縁の無い代物だった。
黙々と足を進めていると、突然俺の右横から、何者かの左手が「ぬっ」と現れた。ぎょっとして視線を右方に移すと、赤いボディスーツに包まれた、ただならぬ格好をした男が一人立っており、俺に何かを話しかけ始めた。
「今日の五時過ぎからなんすけど、この通りでハロウィンパーティーするんすよ」
男は、チラシのようなものを左手に持っている。よく見ると、厚紙で作られたジャック・オー・ランタンの仮面だった。両目と口の部位が雑にくり抜かれており、左右の端それぞれに輪ゴムが取り付けられている。輪ゴムに両耳を引っ掛ける構造のようだ。
この男の格好、どこかで見たことがあると思ったら、もう何年も前に映画で観たアメコミのヒーロー「キャプテン・マーベル」そのものだった。ドン・キホーテ辺りで揃えたものだろう、ことのさら、俺とは遠い人種である。
「お兄さん仕事ですか、あっ、就活ですか」
マーベルはどうやら話している最中に俺の風貌から全てを察したのか、突然よそよそしくなった。特に「しゅうかつですか」という後半の七文字からは、ハロウィンが近付いているにも関わらず、未だに就活を続けている俺への多大なる侮蔑、そしてほんの少しばかりの同情、そしてそれに気付いてしまったことへの気まずさ、その他諸々、様々な負の感情がない交ぜになっていることが見受けられ、俺をますます腹立たせるのだった。
「就活ですね」
「あっ、すいません、大変で」
マーベルは頭をかき、しきりに頭を下げているが、俺はもう、何をされてもこの男を許す気にはなれなかった。
「就活なんでね、あんまりそういうのには行けそうにないですね」
「いや逆にっすよ、逆にこういうのでパーッとやって就活の励みにしてもらえれば」
考えておきますとだけ言い、その場を離れた。ジャック・オー・ランタンの仮面は、貰えるだけ貰ってはおいたが、使いどころが思い浮かばず、ビジネスバッグの奥深くに潜り込ませた。
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