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 翌日、俺は数日ぶりに寝床を抜け出し、大学へと向かった。特に用事は無かったが、このまま部屋の中で無駄な時間を浪費することに疲れを覚え始めていたし、日に日に蓄積される焦燥感も、幾ばくか和らぐ。

 学生棟の四階に現代特殊音楽研究会、通称「現音」の部室がある。映画サークル「二部映像技術協議会」と併用しており、一週間のうち月曜日と木曜日と金曜日の三日間だけ使用できる、ということになっている。ただここ数年、二英協は新入部員がまったく入らず、事実上の休部状態になっているらしい。

「だからもう一週間全部使っちゃっていいよ、どうせあいつら来ないし」

 とは、前部長、東山が言った言葉だ。このサークル以外に大学内でのまともな居場所を持ち合わせていなかった我々部員一同はここぞとばかりにその言葉に甘え、この数年間のうち、ほぼ毎日を部室の中で費やしてきたのだった。

 現代特殊音楽研究会とは言うが、その実態は、ただのコピーバンドサークルである。恐らく設立当初の数年間は、現代音楽に真摯に向き合うサークルだったのだ。四分と三三秒間全てが休符で埋め尽くされた楽譜の真意について、ああでもないこうでもないと何時間も論議を重ねるなり、「一八人の音楽家のための音楽」のLP盤を朝から晩まで垂れ流しては「これこそが音楽だ」と感慨に耽るなり、恐らく、そのような光景を拝むことができたのだと思う。

 しかし哀しいかな、現代音楽は如何せんポピュラーなものではなかった。そのうち部員の獲得に悩み始め、徐々に徐々にごくありふれたコピーバンドサークルへと、部の方針を変更せざるを得なかったのだろう。今では、無駄に厳めしいサークル名だけが名残として残っているだけだ。

 十月の木曜日、朝の十時、天井知らずの秋の空には遠く、厚く輪郭がぼやけた雲に、街は覆われていた。俺は学生棟の階段を上りながら、廣川と東山はいるだろうか、と考えていた。彼等は大学に隣接しているコンビニで働いており、毎週水曜日は二人共に夜勤のシフトを入れていた。翌日、木曜日の朝八時に夜勤が終わると、二人は部室に行き、廃棄棚からくすんできた弁当を食べ、昼過ぎまでの時間をダラダラと過ごした後、ようやく寝に帰る。だから、特別イレギュラーな何かが起こらない限りは、今日も彼等はそこにいるはずだった。

 部室のドアを開けると、案の定廣川と東山はいた。机の上にはいつものように弁当ではなく、チョコレートにビスケット、飴玉に煎餅、菓子の類が無造作に散りばめられていた。

「なんだこれ」

 俺は言ったが、東山はその問いには応えず、俺の顔を一瞥し

「四回の闇が揃った」

 と、卑屈に笑った。この男は、今年の春に留年が確定していた。

「うるせえ、闇はお前一人だけだ」

 廣川が東山に吐き捨て、俺を指差す。

「俺はこいつと一緒にロックスターになって二七歳で死ぬんだよ」

「この前も聞いたよ、それ」

「語学ミスってダブるようなお前みたいなろくでなしとは輝きが違う」

 冗談か真意かはともかくとして、廣川は俺が思っている以上に、ロックスターへの道に望みを掛けているようだった。

「お前それ、俺もお前もどっからも拾ってもらえなかったらの話だろ」

「拾われてねえからこんな話してんだろ」

 不毛な会話をよそに、机の上に転がっていた菓子のうちの一つを手に取った。カボチャのオバケ「ジャック・オー・ランタン」を象った砂糖菓子で、口に入れれば、思わず顔をしかめてしまうくらいに甘かった。

「甘い、砂糖菓子だ」

「これね、いっつも廃棄のところにあるはずの弁当が無かったから、しょうがねえからって代わりに貰ってきたやつ」

 東山が、先刻の質問を数分遅れで返してきた。

「こんなに沢山?」

「割れてるとかヒビ入ってるとか知らねえけど、こういうのって大体いっつも廃棄に入ってるのよ」

「しかもハロウィン前だから大量に入荷して、廃棄もやっぱり増える」

 廣川が続けざまに呟く。東山が近くにあった煎餅のフィルムを開け、噛み砕く。俺は廣川の言葉を聞き、ハロウィンなるイベントの存在を、約一年ぶりに思い出すのだった。そう言われると、そんなものがあったような気がするな、と。

「小売りは必死だよ、書き入れ時だからバイトにも無理強いだよ」

 ハロウィンが終わればクリスマス商戦だ、と東山がぼやき、大きく伸びをした。

 考えれば、クリスマスも遠い未来の話ではない。去年のクリスマス、俺は朱音に、古ぼけたトイカメラを贈った。近場にある、潰れかけの骨董屋で手に入れたものだが、それを渡された彼女の表情と言ったら、「ラレー」のあの日の顔と寸分違わぬものだった。だが俺は、その後彼女がしばらくの間、何処へ行くにもトイカメラを首にぶら下げていたことを知っており、その健気さに少しばかり心が痛むのだった。

 今年は何を贈ろうか。

「内定通知が一番のクリスマスプレゼントなんだけどね」

 朱音の白けた顔が目に浮かぶ。今の彼女ならば、言いかねない言葉だった。

「気が早いな、クリスマスなんて」

 俺は無性に急かされたような気分になり、慌ててそう言った。

「いつの間にか来るんだよ、まだ来ない来ないって思ってたら」

 廣川が独り言ちるように呟く。その言葉に、思い当たる節はありすぎる。


 俺も廣川も東山も何故か帰る気力が湧かず、部室に来た後輩達とまるで中身の無い会話を繰り返した後、日は暮れた。それでも帰路へと就くべき足取りは重く、大学通りの「てつやん」で飲もう、と俺は言った。てつやんはお通しが無く、何よりラガービールの大瓶が四五〇円という安さであるため、俺達のような貧乏学生は、自然とそこに吸い寄せられていくのだった。スモール・フェイセズやスペンサー・デイヴィス・グループといった、大昔のUKロックが絶えず流し続けていることも、俺達がてつやんを贔屓する理由の一つだった。

「なれるもんなら俺もモッズになりたかった」

 てつやんのテーブル席に片肘を付きながら、東山がぼやく。

「俺も三つ揃いのスーツの上にモッズコート着てミラーがゴテゴテ付いたスクーター乗って週末はパブで飲みながらバンドやって、また明日からペンチとスパナ持ってベントレーの修理しなきゃなんねえんだって愚痴りまくりたかった」

「お前、でもそれただの修理工だろ?」

 俺は言った。

「本業は修理工だよ」

「修理工よりは、まだこうやって大学生やってる方が良くない?」

「馬鹿かお前、留年した大学生はダセえんだ。この世で一番ダセえの、修理工やってるモッズのバンドマンの五百兆倍はダサいの」

 東山はこう捲し立てた後、ウェイターを呼びつけ、大瓶を二本頼んだ。

「お前もう結構行ってるぞ、七、八本」

 廣川が机の上の大瓶を指で数え、言う。

「お前らはこう、あれなんだよな、あれなんだよもう」

「あれ?」

「こうやってハロウィンが来てだよ、ああ学生最後のハロウィンが来てしまったとか、あと半年くらいで卒業式だなとか、なんかそういう感慨に浸ることができるんだからいいよな本当にな」

「ってのは?」

「俺は後一年あんの。親にボロクソ言われてダブった学費の分必死で働いてさ、そりゃもうこんな惨めな話ったらありゃしねえよ」

 東山が、グラスに残っていた泡だらけのビールを一息で飲み干す。

「お前らはさ、単位は足りてんだろ? 後はどっかに採用されれば三月まで気楽に暮らせんだからよ、ロックスターがどうのこうの言うんじゃねえって話よ」

「分かった分かった、お前のことは分かったお前のことは分かった分かった」

 廣川は、東山を宥めるように同じ言葉を繰り返す。それを見て俺は咄嗟に、これ以上東山が酒に口を付けないよう、大瓶を机の脇に隠した。

「置いてかれる身にもなってみろってよ、地獄だよ地獄」

 東山はそれから、言葉にならない言葉を二言三言呟いたかと思えば、そのまま机に突っ伏し、動かなくなった。俺は隠していた大瓶を再び机の上に置き、閉店まで、廣川と静かにそれを飲んだ。

「モッズになりたいもロックスターになりたいも大体同じだ」

 廣川が、鶏皮ポン酢をつまみながら言った。

「こいつ、ちゃんとダブることに負い目感じてたんだね」

「そりゃ金にしてもそうだけど、今年一年フイってのが決まっちゃったわけだし」

 東山は、起き上がる気配を一向に見せない。よもや既に目は覚めていて、二人の会話に聞き耳を立てていやしないかと俺は勘繰ったが、様子を見る限り、どうやら本当に寝入ってしまっているようだった。

「まあ、そいつの思うことはそいつにしか分からん」

 廣川が空になったグラスを眺め、やけにしみじみと呟いた。


 最終電車に乗り、アパートへの最寄り駅に着いた時点で、午前一時を回っていた。

 秋の夜長は、ボタンダウンとパーカーだけでやり過ごすには些か寒かった。暖を取ろうと駅向かいのスーパーに寄り、温かいお茶を買う。ふと天井へと目をやると、橙色のリースが丁寧に吊るされ、極端にデフォルメされたコウモリのイラストが、幾枚か貼り付けられている。壁にはジャック・オー・ランタンの切り絵、レジ横に設置されたディスプレイからはテレビコマーシャルが垂れ流され、きゃりーぱみゅぱみゅが

「ハロウィンパーティーハロウィンパーティーハロウィンパーティー」

 と連呼する。なるほど俺が気付いていないだけで、ハロウィンは確実にこちら側に迫っているようだった。

 部屋に帰ると、朱音が座椅子にもたれ、静かな寝息を立てていた。俺は彼女を起こさぬように足音を忍ばせ、その横を跨る。ふと机の上を見ると、丁寧にラップで包まれたご飯に味噌汁に魚のフライ、そして何かが入った小皿、その横にメモ書きが置かれていた。

「簡単に作っておきました。もうすぐハロウィンなので今日はカボチャの煮付けです、味わって食べましょう。今日も一日お疲れ様!」

 メモの隅にはジャック・オー・ランタンのイラストが添えられている。

「カボチャ」

 思わず声に出してしまった。

 なるべく物音を立てないようにして、遅い夕食を摂る。カボチャの煮付けは、柔らかく中まで味が染みていた。噛み締めれば噛み締めるほどに、舌の上で繊維がほどけていき、その全てを食べ終えた後は、何とも形容できない、奇妙な食感が口の中に広がっていた。嫌いではないなと思えた。

「これが毎日食えるんならハロウィンも悪くないな」

 俺は呟き、食器を洗いつつ、昨日から今日にかけての出来事を漫然と思い出していた。あまりにも非情な朱音の言葉、留年に追い込まれた東山の酒乱、迫り来るハロウィン、世界は幸不幸に関わらず、歪ながら常に前進を続けており、俺にとってはそれがまた腹立たしくもあり、哀しくもあった。

 疲れているな、と思った。足の爪先から頭のつむじの頂点に至るまで、全身から気力が抜けていくような気分だった。風呂に入る気にもなれず、このまま布団を敷いて寝てしまうことにしたが、座椅子にもたれかかった朱音を見て、何故だかどうしようもなく、申し訳無さが募った。

「起きろ起きろ、起きてください起きてください」

 座椅子を前後に小さく揺すり、朱音の頭を揺らす。しばらくすると彼女は小さな唸り声を上げ、薄く目を開いた。化粧を落とさずに寝入ったのだろう、アイシャドウが泪で、まだらにぼやけていた。

「遅かったね」

 朱音が、舌足らずな声で言う。

「そんなところで寝ないでください、布団敷いたから、ほら」

「うんん」

 朱音はゆっくりと立ち上がり、おぼつかない足取りで二、三歩、ようやく布団の上に辿り着いたかと思えば、膝から崩れ落ちるように倒れ込み、再び寝息を立て始めた。大学を卒業して半年が経ち、今ではすっかり社会人然とした佇まいの朱音だが、その寝顔はどこまでも無垢だった。

 ほんの少しだけ安堵を覚え、朱音が眠る布団の隣に毛布を敷き、それにくるまって寝ることにした。時計は午前二時丁度を指し、朱音の寝息と、どこかの換気扇の音だけが部屋に響いていた。

 俺は灯りを消し、何かの手違いで今日という日がもう一度繰り返されることを祈りながら、眠りに落ちる瞬間を待った。

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