ワンダリング・ジャックへ捧ぐ

中洲エスア

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 白く弾けるような閃光を脳裏の奥に覚え、おもむろに目を開ける。

 やけに鋭さを帯びた西日が、俺の首から上をじりじりと焦がし付けるかのように覆っていた。あまりの寝相の悪さに布団から転がり落ち、いつの間にか窓にもたれ掛かるようにして寝入っていたらしい。

 俺は強い喉の渇きを覚え、立ち上がり、水道水をグラスに注いだが、二、三口飲んだところで嫌な気分になり、すぐに捨てた。東京の水は年中通して妙に生温く、それでいてどこか黴臭い。

 何時間寝たのだろう、壁にかかっている時計を見ると、午後の四時と半分。最後に意識があったのは、昼食としていつかに買い貯めておいたカップ焼きそばを食べた時、それが正午を少し回ったところで、つまり、俺は四時間も惰眠を貪るがまま貪っていたことになる。

「まずいなあ」

 思わず独り言ちる。再び窓の際に突っ伏し、もう一度。

「まずいなあ」

 何がどのようにまずいのかを挙げるとすれば、きりが無かった。呆けたように窓の外を見る。

 アパートの正面玄関から伸びる細く長い裏路地は鄙びた商店街へと通じ、商店街の終点には大都市へと延びる大手私鉄の小駅がある。四階の端に位置する俺の部屋からはそれを余すことなく一望でき、さながら箱庭のようでもあった。

 この部屋を借りた理由は、眺望の良さが全てだった。西日の強さまでは流石に考えていなかったし、あの丸く肥えた不動産屋の担当者からも、それについての言及はまるでなされなかった。しかし俺は三年半、文句一つ言わずにこの部屋に住み続けている。

 西日が弱まり、街一帯が濃い橙色に染まり始めると、窓の外はたちまちにノスタルジックな光景へと様変わりする。真昼には静まり返っていた往来が徐々に帰路へと就くサラリーマンや学生で賑わい始め、俺はそれをぼんやりと眺めつつ、今日も部屋から一歩も出なかったことを思い出すのである。

「まずいなあ」

 俺は再び呟き、随分と長くなってしまった前髪の先を指で丸めた。最後に髪を切ったのも何ヶ月前だったか、あまりよく覚えていない。

 先程から繰り返しまずいまずいと繰り返しているのは、ある種の自己暗示でもあった。布団に入っては昼寝を繰り返しカップ焼きそばにお湯を注ぎゲームのスイッチを入れギターを弾き、こうして日々をなし崩し的に見送っていると、最早それが永遠であるかのように思えてしまう。そんな己へのせめてもの戒めでもあり、己以外の所謂正しき道を行く、不特定多数の同年代への静かなる懺悔でもあった。

 今夏、就職活動から脱落し、三ヶ月足らずが経つ。茹だるような暑さはとうに過ぎ、気が付けば、十月も半ばに差し掛かっていた。月日は着実に、それも思いの外かなりの速度で過ぎつつある。


 午後六時を過ぎ、窓の外に映る橙はじわじわと濃紺に蝕まれ、家並みに明かりが灯り始める。それを眺めていると、商店街から裏路地へと左折する一台の自転車が見えた。

 恐らく朱音だろう、と俺は思った。あの細いフレームは「ラレー」のクロスバイクに違いない、とも思った。

 いつだったかの彼女の誕生日に、俺が贈ったものだった。気まぐれに立ち寄った商店街沿いの小さな自転車屋で見つけた代物だが、薄く緑がかった群青のフレームに栗色のホイールを合わせた、上品でクラシカルな色合いに惹かれたのだ。

 駅前のスロット屋で勝ちに勝ちを重ね、あぶく銭を持って浮ついていたその日の俺は、七万某円という値段設定にも怯まず、一括で購入し、アパートにそれを持ち帰った。洋服やアクセサリーや時計ではない、ここであえて自転車を彼女の誕生日に贈るとは、なんという斬新かつ素晴らしい選択だろうか。思わず俺は部屋の中で一人、己惚れた。

 俺に呼びつけられ、やって来た朱音は、ワンルームを我が物顔で陣取るラレーを見て絶句した。妙にスケールの大きな贈り物に、相当面食らっていたようだった。

「なんでプレゼントにしようと思ったの、これ?」

「俺の変なセンスで選んだ服とかアクセサリーとか、要らないじゃないですか。まだ実用的なものの方がいい」

 俺の口ぶりに、彼女は少し憮然とした顔つきで言う。

「そんな決めつけなくても、正樹が選んだことに意味があるんだし」

「あえてそういうものに逃げないってのがカッコいいんですよ。ビーズの稲葉だって彼女には椅子を買ったし、俺は彼女に自転車を買った」

 朱音は、それでも納得していない様子だった。首を右斜め上に捻り

「凄く変なところで拘り見せるよね、正樹って」

 と、呟く。

「いいじゃないですか、俺が選んだんだから、いいでしょ?」

「まあ、そうなんだけど」

 その後も、彼女は訝しげな顔でラレーを長いこと眺めていたが、やがて顔をおもむろにほころばせ、フレームをそっと撫でながら

「でもありがとう、サイクリングとかしようかな」

 と、静かに呟いたのだった。

 ともかく、そのラレーに乗って朱音は俺が住むアパートにやって来た。だが、彼女が来たからと言って、特に何を用意する気にもなれなかった。慌てて布団を畳むわけでもなく、小奇麗な服に着替えるわけでもなく、ただ、彼女が駐輪場にラレーを停め、階段を上がる姿を窓越しに眺めているだけだった。

 やがてインターホンが鳴り、俺は言った。

「開いてますよ」

 静かにドアが開き、その向こうにカーキ色のトレンチコートに覆われた、スーツ姿の朱音の姿があった。彼女は俺より一歳年上で、今年度から隣町の小さな精密機械メーカーで、経理として働き始めていた。

 朱音はすぐに靴を脱ごうとはせず、しばらく玄関先から部屋の全景を見渡していたが、やがて何かに気付いたのだろう、唐突に眉をひそめた。何かがいけなかったのだろう、俺はその顔を見て考えた。足元に転がっている食べかけのカップ焼きそばか、或いは破れたカーテンをそのままにしているせいか。

「寝てたでしょ」

 朱音が抑揚の無い声で呟く。

「え?」

「布団バラバラだし、服も昨日の夜と変わらないし、今日ずっと寝てたでしょ」

 俺はゆっくり首を横に振り、布団の中に潜った。言い訳をする気力は無い。

 朱音は部屋に上がるや否や、布団を俺から無理矢理に引き離し、たちまち丁寧に畳み始めた。瞬く間に床の上に転がされた俺は、フローリングのどことなく湿り気が入り混じった冷たさに、少しだけ不快感を覚えた。

「じゃあ、今日も就活してない」

「そりゃもう」

 畳み終わった布団を丁寧に部屋の隅にまとめながら、朱音が小さくため息をつく。

 俺はこれ以上何も言いたくはなかった。とは言え、互いに無言のまま辛気臭い時間を過ごしたくもなく、床から起き上がり、壁に立てかけてあったギターを抱え、ザ・スタイル・カウンシルの「マイ・エヴァー・チェンジング・ムーズ」の一節を弾いた。

「ポール・ウェラーが来日するんですよ」

 朱音の反応は無い。

「何年ぶりかな、行くんですよ。来年の一月」

 朱音の反応は無い。

「めっちゃ楽しみでね、あれ見れたら死んでもいいなあって」

「別に死んでもいいけど、進路くらいはちゃんと決めてから死になよ」

 ようやく口に出した言葉は非情なものだった。彼女はそれきり何も言わず、コートをハンガーにかけ、キッチンに立つ。

 先月までの朱音は、ここまで辛辣な女ではなかった。真夏の灼熱に堪えかねてスーツを投げ出した俺に、少なくとも一定の理解は示していたはずだ。涼しくなったらまた始めればいい、ゆっくり自分にあった会社を探そうねと慰めてくれたはずなのだ。

「涼しくなってねえんだ、俺ん中じゃ」

 朱音に聞こえないよう、ギターを強くかき鳴らしながら呟いた。呟きながら、あの言葉をそろそろ真剣に考えなければならないな、と思った。就活が解禁された今年三月の頭、廣川と共に誓ったあの言葉が、いよいよ現実的な段階へと近付きつつあった。

 俺はギターを置き、キッチンに立つ朱音の後姿を見ながら言う。

「心配しないでくださいよ」

 朱音は、俺の方を振り返らない。

「心配じゃない、このまま行ったらどうなるんだろって不安だけ」

「いやいや大丈夫大丈夫、大丈夫大丈夫大丈夫、大丈夫」

 自分でも思うほど、やたら大げさに右手を振った。

「決めてるんです俺、もし一社も引っかからなかったら廣川と一緒にめっちゃサイケなロックバンド組んでロックスターになるんです、そんで二七歳にドラッグで死ぬ。だから全然大丈夫です」

 言いながら、何も大丈夫ではないなと、我ながら思った。ただ、例え破滅まっしぐらの道だろうが、どうにもならなかった場合の逃げ道を設定していることに対する安堵感は、ほんの一欠片ではあるが、無いわけではなかった。

「俺は計画性のある人間だから、もしどうにもならないとしてもちゃんと行き先を決めてるんです。周りにこんなんいませんよ、褒めてくれ」

「ごめん、意味分かんない」

 朱音がやはり振り返らずに呟き、後は包丁をまな板に一定のテンポで叩きつける音だけが聞こえた。

 勘違いはしないでいただきたい。何も、好きでこのような窮地に立たされているわけではない。勿論、部屋に閉じこもらずに外を死に物狂いで駆けずり回るべきであることは、百も承知だった。ただ、あまりにも猶予が少ないではないか。底知れずの大海原へ丸腰のまま放り出される覚悟、その覚悟を決める猶予が。

 その時が来たら流石に動くさ、しばらくは急かさずに、待っていてほしい。これは誰にも通用しない、俺が俺だけに宛てた言い訳である。

「ロックスターがダメだったら、朱音さんのヒモになるしかないですね」

 苦し紛れに、そう呼びかけた。朱音は呼びかけに応えず、作った肉炒めをフライパンごと机に置き、小さな炊飯ジャーから手際よくご飯をよそう。

「ヒモじゃダメですか、ダメならロックスターです」

 一定の間を置いて、朱音が応える。

「まあ、ロックスターなんかよりはまだ、ね」

 予想外の返答だった。

「マジすか」

「言うと思ったか」

 彼女はそう吐き捨てては俺の顔をまじまじと見つめ、すぐに目を逸らしたと思ったら、何度も舌打ちを繰り返した。俺は慌てて箸を引っ掴み、フライパンの上の肉炒めを口の中に放り込んだが、普段にも増して妙に塩辛いのは、恐らく気のせいではなかった。

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