暦の上では

眞壁 暁大

第1話

出羽守は困惑した。激怒するほどではないにせよ、気分を害した。

出羽守は「でわのかみ」などと呼ばれているが、実のところ町の車曳きにすぎぬ男である。

「それでは理屈が通らぬ」が口癖。

腕っぷしの強さがものを言いがちな車曳きの世間にあっては珍しい理屈屋だと、揶揄を込めてつけられた仇名である。


「それでは理屈が通らぬ」

出羽守は開口一番、そう言った。相手は大家である。出羽守の住む安普請の長屋をさいきん買い取った男だった。


「通らぬはずがないぞ、半次郎」

大家は薄笑いを浮かべていった。「今日は閏の29日。ちゃあんと月末ではないか」


「だから、それが理屈が通らぬのだ」半次郎こと出羽守は反駁した。


近頃、本当にこの手の輩が増えた。

八百八町の表裏、さらにその内外に至るまでが混乱に叩き落された戊辰内戦からようやく立ち直ったかと思えば、これだ。

四方八方から寄せ集まった半端な上京者の中には、怪しげな暦を賢らに振り回すものがある。

大家もそうした輩であったらしい。


「もう天保暦の時代じゃあるまいし。知らぬのか」と大家はなおも詰めるが

「存じておるからこそ、それでは理屈が合わぬ、と言っておる」と出羽守は本領発揮で動じない。

薄っぺらい茣蓙の上に胡坐を組んで大家の男を見上げた。大家は図体こそ無駄にでかいが、その身のこなしに雅がない。

サムライよりは百姓のそれに近いもっさりとした動作だと出羽守は思っている。


大家はそのもっさりとした動作で、土間の踏み台に座り込む。

車(人力車)の客が足蹴にするその踏み台に躊躇なしに座り込めるそのさまが田舎者だと、出羽守はあらためて大家を軽蔑する。


「世はグレゴリオの御世だぞ、半次郎」大家の言葉に出羽守はほんの少し、目を見開く。


「大家さん、アンタひょっとして鹿児島の出かい?」

「うむ。…それがどうした」

「いやはや、さもありなん」出羽守は破顔一笑。この男、多少は学がある、とすっかり態度を和らげた。


ゼニカネの扱いに慣れておらぬ田舎者ならばこそ、と出羽守は一人納得する。

どうやら大家、とんでもない思い違いをしているようだ。


「グレゴリオ。舶来の暦だね」出羽守は言う。

なんだ、という顔をして大家は答える。「知ってるんならわかるだろうに。今日がその閏の29日だ」


「その『閏の29日』って奴が違うんですよ」出羽守はすっかり口調まで変えてしまう。

「そういや去年の暮は大家さん、アンタ見かけなかったけれども、どうしてました?」


「暮は地元におった。ゆえに今3ヵ月分キッチリ家賃を払え、とそう言ってるのじゃないか」

出羽守の態度が急変したのに戸惑いながらも大家は答える。


「ああ、そりゃいけねえ」

出羽守はそそくさと立ち上がると、大家の傍をすり抜けて表戸に手をかける。

「大家さん、アンタそれじゃとてもこれからやっていけないよ。ちょっとついてきなさいな」



話を聞けば大家、江戸、つまり東京への滞在は今日を含めても一週間にも満たないらしい。

去年のうちに長屋を買ったはいいものの管理は元の持ち主に投げていて、年明けにも諸々の手続きは代理の者に任せっぱなし。

上京してようやくの初仕事が長屋の住人からの家賃の取立てで、その最初が北の角部屋の出羽守の部屋だったというわけ。

市中もろくに見廻っていないようで、ならば誤解も当然。


出羽守は大家を連れて世話になっている手配屋の門を叩いた。

すぐに顔を出したのは出羽守と同業の男。不機嫌な声を上げた。

「なんだ? 出羽守。今日は休みじゃなかったのか?」

「休みだけどよ。大家が家賃の取立てに来たんだ。今月のあがり、今から用立ててくれねえか」

「月末は明日だろうが。明日になりゃ言われんでも出す」


出羽守はそこで少し大家と距離を置いて、男に小声で囁く。

「あの御仁、薩摩芋なんだよ。頼む」

「ホントか。なるほどなぁ。ちょっと待ってろ」


そういうと男は屋内に戻り、すぐに銭束を持って出てきた。

「今月分に相違ないか確かめろ」と出羽守に投げ渡しながら言う。出羽守も慣れたもので重さからだいたい見当は付く。相違ない。

世話をかけた、とかるく頭を下げると手配屋を後にした。


その銭束から一本、家賃を受け取りながら不審げなのが大家である。歩きながら出羽守に尋ねる。

「今の男、月末は明日だと言っておったが…?」

「そうですよ。今月は小の月ですからね。御覧なさいよ」

出羽守はそう言ってとおりの左右に顎を振ってみせた。それに合わせてキョロキョロするがよく分かっていなさそうな大家に続けて言う。

「小の月の看板が出てるでしょう?」

「ああ…うむ、たしかに。しかしあれらは天保暦で使っておったものではないのか? やはり市中はまだ旧暦を使っておるのか」

「違いますよ。まあ、ついてきてください」


二人が向かった先は本屋だった。ここに一年の暦がある。

「なんじゃこれは?」大家が素っ頓狂な声を上げた。


「これが今の暦です。マルコ暦とも伊暦とも呼んでおりますがね」

「いやしかしこれは奇妙な。月が一二あるのは変わらぬが…日が三〇と三十一しかないではないか」

店主が持ち出した売り物の暦をしげしげ眺めながら、さらに叫ぶように大家は言った。びしり、と暦の二点を指さし叩きながら

「しかも見よ、この六月と十二月の末日を。曜日がないではないか! 店主、半次郎! お主ら、からかっておるのか」


出羽守と店主は顔を見合わせて吹き出す。

「旦那の言うグレゴリオ、というのは、これでっしゃろ?」

店主は洋字で書かれた暦を引っ張り出して広げてみせる。 出羽守の目から見れば、均整のない中途半端な暦だ。

月は二通りでは収まらず、多かったり少なかったり。

しかし大家の男は、これだこれだと安心したようにうなづいて

「そうそう、これこそが本物の暦よ。見よ、半次郎」と自慢げに胸を反らしたが、裏腹に店主は溜め息をつく。

「こんなん、あきまへんわ」



「何が拙いのだ、半次郎」

店主の溜め息を見とがめた大家が食ってかかろうとするのを止めた出羽守は、その後、大家を連れて通りの他の店をあちこち冷やかして回った。

どの店も掲げている暦は、大家の知る暦ではなかった。

大家の知る暦に一見似てはいるものの、大いに異なる暦。

さすがに大家も意気消沈している。


「大家さんの田舎じゃ通ったのかも知れませんがね。グレゴリオは商売に使うのには具合が悪いのですよ」出羽守は答えた。

「具合が悪い、とは?」大家は訊ねた。

「グレゴリオは三十日と三十一日、それに二十八日…今年なら二十九日ですか。三つも末日があるでしょう? あれがややこしい。

 そりゃあ天保暦だの旧暦を使ってた頃は、もっと面倒でしたがね。

 しかし伊暦を使ってしまうとこれが便利でして。今さらグレゴリオに替えるというのはバカバカしいのです」

「ば、バカバカしいなどと…! あれは本邦など及びもつかぬ、舶来の暦だぞ!」

色をなして反論する大家に、出羽守は悠然と応じた。

「大家さん。伊暦だって『マルコ暦』とも言う、立派な舶来の暦ですぜ」


 マルコ暦の導入は、出羽守や大家の生きる時代から四半世紀ほどさかのぼる。

 まだ将軍継嗣であった家定公が舶来の暦を取り寄せ、研究を命じたのがその嚆矢。

 黒船が来寇した二年後、将軍と成った家定公があらためて江戸市中での使用を命じたのが伊暦の普及の契機である。

 当初は天保暦に比べて使いにくいと不評であったが、市中への普及にあたって幕府が講じた一つの施策が奏功して一気に広まった。

 新政府では海外列強の推すグレゴリオ暦と伊暦でせめぎ合っているが、公式には伊暦こそが本邦標準暦という建前。

 それが浸透していないのは、倒幕雄藩の地域ではグレゴリオ暦の使用が広がっているのを見れば歴然としている。

 

大家と出羽守の衝突・誤解はそこから生じていた。

出羽守の話は続く。

「で、商人連中が言う四半期、こいつは舶来のモノの考え方らしいんですがね、これが伊暦だと91日で均一。

 いったん伊暦のこの単純さに慣れてしまうと、変えたくはないでしょう。

 大した手間じゃないとお思いかもしれませんがね、使いの小僧に月ごとに異なる末日だの四半期だのを教え込むのはなかなか辛抱が居るという話です」

何か言いたげだった大家も、そうした出羽守の説明を聞くうちに納得した様子であった。


「それで半次郎、貴様は『それでは理屈が合わぬ』と言っておったのだな。このような暦があるとは知らなんだわ」

大家はそう言って別れ際、出羽守に頭を下げた。

慌てたのは出羽守である、単細胞でガサツな田舎者とばかり思っていたが、どうしてなかなかの人物であると見直すと同時に、少しばかり良心が痛んだ。

「これで他の店子に催促して恥をかかずに済んだわ、礼を言うぞ半次郎。では」

本屋で購入した伊暦を脇に抱えて颯爽と去っていく大家の背中を見送りながら、出羽守は迷う。


教えたものか、どうか。


逡巡していたのはほんの一瞬だった。残された銭束の重さを思い返して、すぐに教えずにおこうと決めた。

貴重な銭だ。なるべくなら大事にしなければならない。

言われれば素直に払うつもりだが、大家が気付かなければその時はその時だ、と開き直る気分になっていた。

それにまだ、「水無月の無曜日(六月の閏日)」まで、あと4ヶ月もある。



無曜日を挟んでしまえば借金がチャラになる。


江戸の市中に伊暦が瞬く間に広がったのはこの施策による。

幕府が倒れてからはこの施策は形骸化しつつあるが、それでも債務を負うものが一度得た武器をそう容易く捨てるはずもない。

大晦日を迎える三十日までには取立てが大騒動になるし、六月の閏日もそれは同様だ。

上手くすれば四年分の債務を帳消しにできることもあるとあって、むしろ債権者も債務者もこの日を迎える前の方が必死かも知れない。


出羽守にとっては四年に一度の好機。大家から見れば四年に一度の危機。


出羽守は、大家がどうかこの危機に気づかずに六月を超えてほしいと願いながら、懐の銭束を握りしめた。

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