呪いの日
遠野朝里
水底のドーム
ほんの子供だった頃、近くの湖で溺れた。透明な水の底に半球形の人工物らしきものが見えたのが気になって仕方なく、後先考えずに深く深く潜ってしまったのだ。
気を失う直前、少しだけ見えたドーム。その表面では水面みたいにさまざまな色が揺らめいていて、まるで水の中に隠れているみたいだった。
浮かんできた俺を助けてくれた友達も、無謀を叱った家族も、誰も信じてくれなかった。だけどドームのことを諦め切れなくて、数年かけてその位置を特定した。
ドームは、湖の一番深いところにある。潜って調べることはできない。俺に風の魔法の才能があれば、大気を操って息ができる空気で頭を包み、水へ潜っていけたかもしれないが、あいにく俺は天才魔道士ではなかった。
だから、四年に一度の〝呪いの日〟を選んだ。
◆
吐息が冷気で白く染まる。〝呪いの日〟はとにかく寒い。昼に比べて夜は冷えるとかそういうレベルではなく、あらゆるものすべてが凍りつくほど寒いのだ。空から降り注ぐ氷の粒、白く覆われる地面。年中温かいあの湖でさえも、〝呪いの日〟だけは底まで凍る。
「でりゃあっ!」
オノを振り下ろすと、足元の氷にひびが入った。
綿のシャツを五枚重ね着してきたが、それでも寒くて凍えそうだ。すさまじい風が容赦なく吹き付け、視界が白く覆われる。それでも、無心で氷を掘り進めていく。すると少し体が火照ってきて、その熱のおかげでなんとか意識を保っていられた。
氷を湖底まで掘り、そこへ縄ばしごを降ろせば、ドームのそばまで行ける――俺の考えは甘かった。記憶よりも湖はずっと深く、オノを振るう自分の腕が保たない。
「だ、だめだ……」
空は暗い。まだ昼なのかもう夜なのかわからない。こんな疲れた体では、引き返す途中で倒れてしまうかもしれない。
足元の氷が突然音を立てて崩れだしたのは、まさに死を意識したその瞬間だった。俺が掘ったいびつな穴の先に、優に人ひとりが通れるような階段が現れたのだ。まるで、俺を湖底へと導くように。
果たして、氷の階段の先に、ドームはあった。揺らめく光を湛えた不思議な壁に、恐る恐る触れてみる。すると――
「う、うわっ!? なんだ!?」
壁は俺の腕を、肩を、全身を飲み込んでいく。必死に抵抗したが、ドームの壁はまるで水みたいで、掴むことも逆らうこともできなかった。
頭が壁の向こうへ抜けたとき、俺の目に信じがたいものが映った。
「このままじゃ、」
燃えさかる炎を思わせる髪の、女の子。
「きみ、凍死しちゃう」
壁をすり抜けて床へ落ちうずくまる俺に向かって、少女は手をかざした。彼女の白いロングワンピースの裾が少しだけ浮いたと思ったら、さっきまで感じていたとてつもない寒さが消えてなくなった。
「あ、あったかい……」
「防寒魔法、かけたから。しばらくは、暖かいよ」
「はあ~……すごい魔法使えるんだな」
少女は、その瞳の色も、燃えさかる炎だった。人々を温かく包む熱の精霊とでも言うべきか、存在そのものがまるで炎のようだ。清楚で整った顔立ちと豊かな髪の対比も美しく、凍えていた俺は一瞬で心を奪われた。
「きみ、半年ぶりのお客さん。私の仕事が終わるまでだけど、外のこと、聞かせてほしい」
ドームの中は、天井が高く、がらんどうなひとつの部屋だった。部屋の真ん中には透明な箱があり、箱を中心として無数のマナファイバーが放射状に伸びている。おそらくあの箱はなんらかの魔力を発生させる装置で、そこで発生した魔力をマナファイバーでどこかへ送っているのだろう。
「なあ、この箱は?」
本当は少女のことを聞きたかったが、俺は話題を逸らしてしまった。あまりにも神秘的であまりにも可愛い少女の正体を尋ねるのは、どうにも気が引けたのだ。
「あれは、エンジンの一種。私の魔力、国中に届ける装置」
「……どういうこと?」
少女は装置のそばに座り込み、俺の方を振り返ることなく話し始めた。
「私、生まれつき炎の力がすごく強いの。この国、冬しかなくて人が住めないから、私が暖めて、ずっと春にするの」
「……なあ、ふゆってなんだ?」
「寒くて、雪が降る季節」
「ゆき? きせつ?」
「雪は、空から降ってくる、白くて柔らかい氷」
「あれ、ゆきっていう名前なんだ。〝呪いの日〟にしか降らないやつ」
「……〝呪いの日〟って?」
「今日だよ。超寒くて、何もかも凍りつく日。四年に一度だけど、必ず来るんだ」
「四年に一度の、〝呪いの日〟……」
少女は立ち上がり、言った。
「私が目を覚ます日、〝呪いの日〟なのね」
「……え?」
「私、四年に一度だけ目を覚まして、エンジンの点検をするの。その日だけ、地上、冬になっちゃうのね」
「え? どういうことだ?」
「ここで私が眠っていれば、地上はいつも春。目を覚ますと、地上は冬。人間は生きていけない世界に逆戻り」
「……なあ、もしかして、ここにずっとひとりでいるのか?」
「そう」
「でも、半年前にもお客さんが来たんだろ?」
「半年前、正確には、お客さんじゃない。私をここに連れてきた国の魔道士たち。みんな帰っていって、それからは誰も」
「半年前にここへ来たのか?」
「そう」
「……あんたの前にも、ここには誰かがいたか?」
「ううん。この施設は私のために作られたもの」
おかしい。〝呪いの日〟は俺が生まれたときからある。周期は、四年に一度。だが少女は、半年前にここへ来たという。
「半年前って、いつだ?」
少女は地上のことを何も知らなかった。どんな歴史の教科書にも載っている、百年前の隣国との戦争のことも知らなかった。二百年前に見つかった先住生物の遺跡のことも、何もかも、知らなかった。
俺が家族や友達とのんきに過ごしている話をすると、少女は嬉しそうにはにかんだ。昔、ここの湖で溺れたときにドームを見つけて、いつか調べてみたいと思っていたこと、自分が立てた無謀な計画のことを話して、そこで気づいた。この少女は、俺の命の恩人ではないか。
「遅くなったけど、助けてくれてありがとう」
少女が目を丸くした。炎を宿す瞳が、キラキラと爆ぜている。
「嬉しい。お礼言われたの、初めて」
「え、えへ」
微笑んだ少女があまりにも可愛らしくて、変な笑いが漏れてしまった。心を許してくれている、ような気がする。少しだけならお近づきになれるかもしれない。
「なあ、あんたの名前は? 俺は、」
「待って」
「あ、はい」
「名乗らないでほしい。また会いたくなったら、困るから」
少女の目の奥が、しんと冷えた。
「人と話すの、楽しい。でも私、そろそろ、眠らないと。次に起きたとき、きみはきっと大人になってる。私は眠ってる間、歳を取らない。でもきみの時間は流れるでしょう」
「……半年前っていうのは、嘘?」
「嘘じゃない。私が起きてる時間で数えて、半年前。だから、地上ではきっと、半年……183×4年の時間が流れてる」
少女は四年に一度、一日しか目を覚まさない。彼女がここで半年間寝起きしたと感じているなら、4年が183回巡っていることになる。
「……732年間」
俺の言葉に、少女は困った顔をした。
「でも、寝ているから」
それはきっと、俺への慰めの言葉のつもりなのだろう。だが、眠っていても、生きているのだ。
「夢は見ないのか?」
俺の問いに少女はしばらく逡巡したが、目尻をさげて微笑みながらこう答えた。
「……夢に、きみ、出てくるかもしれないね」
その言葉で、俺は決めた。
「ごめん、俺、帰るよ。一週間したらまた来るから、その時に俺の名前を教える。でも、あんたの名前は教えてほしい」
「……」
「わがままで悪いけどさ、だめか?」
「……私の名前は、」
◆
氷の階段を上りきり、凍てついた湖のほとりまでたどり着くと、湖は普段のように穏やかな水面を取り戻した。大地を覆っていた雪は嘘のように解け、穏やかな日差しが雲を割って差し込んだ。
「……これが、春」
隣国は、俺たちが住む国の南にある。それなのに、俺たちの国よりずっと寒い。彼らが戦争を仕掛けてまで欲したのは、きっとこの〝春〟だ。俺たちはずっと、彼女に生かされていた。だけど、誰もそれを知らなかった。彼女は国じゅうの人々を生かしながら、死にかけた俺というたったひとりをもすくい上げる。そのことを、俺だけが知っている。
「待っててくれ。必ず別の方法を見つけ出す。あんたに太陽を見せてやる」
俺は家路を急いだ。二十八年後、ヘスタと笑って再会するために。
呪いの日 遠野朝里 @tohno_asari
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