喫茶店、footprints

月に手を伸ばす。触れないと知っていても、人は届かないものに手を伸ばしたくなる生き物だから、手を伸ばす。

 それが、私、新保真一が歌を歌う理由だった。

 

 と、テレビが僕自身のことを告げていた。ただ、ふらっと入った喫茶店で、そんな辱めを受けることになるとは思わなかった。

「あれ、あなた、新保真一でしょ」

 声をかけてきたのは、喫茶店の店員だった。女性で、ぱっと見た感じ、自分と同年代、30手前の美人と言った感じ。アルバイトするには歳だから、ここのマスターかもしれない。

「何で僕のことを」

 と、少ししらばっくれてみようとしたが、その返答が食い気味に答えられた。

「テレビでやってるドキュメンタリーと同じ顔だもの。そりゃ、分かるわ」

 モニターの中の僕がまだインタビューに答えていた。恥ずかしすぎるのでチャンネルを変えてほしい。だから仁菜はこの店を進めたのだろうか。否定する隙も見当たらず、肯定した。

 しばらく休養、といって、実家のある町に僕は帰ってきていた。仁菜には街に出る、といったものの行きたいところがあまり思いつかず、勧められた喫茶店に足が向いた。入ると喫茶店に似つかわしくないほど、余計なものは置かない、といった、シンプルな内装だった。カウンターに座ると、注文を取りに来たのは女性だった。この時間は一人で回しているのかもしれない。

「帰ってきたんですか」

 自分の出身地がこの街であることも把握されていた。自分を題材にしたドキュメンタリーが放映されているから、そこで知ってしまった可能性もある。そもそも、この街からもプッシュされてCDショップなんかは大きく宣伝されていたこともあったらしい。

「まあ、そうですね」

「お仕事ですか」

「いや、ちょっと羽を休めたいなと思って」

「それは、お疲れ様です。いい休養になるといいですね。注文のブレンドコーヒー、こちらに置きますね」

「どうも」

 出されたコーヒーに口をつける。少し濃いめで苦い。ミルクと砂糖を加える。

「話、いいですか」

 と、彼女の方から、話を振られた。空いてそうな店だとは思ったが、昼下がりに客が自分だけだった。経営が心配になる。それ以外に思うところはなく、拒否する理由もなかった。

「どうぞ」

「ごめんなさい、ちょっと、暇になっちゃって」

「空いてますものね」

 つい、不躾なことを言ってしまったと自分で反省する。ごめんなさい、と言ったら、「いえ、その通りだもの」との返事を受ける。少しいたたまれなくて、コーヒーに口をつけた。

「よかったら、ほかのものも頼みますか。話に付き合ってくれるなら、半額にしますよ」

 と彼女が言う。テレビで見た人だから、話がしてみたくて、そういうことを言っているのだろうか。半額にしてくれると言うので、お言葉に甘えることにし、チョコケーキを注文した。

 ケーキを運んできた。それと一緒に、彼女が飲む分のコーヒーも淹れてきたようだった。

「会う人に、いつもしてる質問があるんだけど、いいかな」

「いいですよ」

 答えるとは言ってないけど、と心の中で言う。

「人生をやり直せるなら、やり直したい地点とか、ある?」

 彼女の口調が変わった。敬語をやめた、というだけではなく、まるで知り合いに話しかけるような口調だった。もしかすると僕の知っている人なのかもしれない。ただ、思い当たらない。とりあえず僕は質問に答えることにした。

「それは、人には大なり小なりあるんじゃないかな」

「でも、あなたは、シンガーソングライターとして大成功してるじゃない。少なくとも、今のところは。それでも、やり直したいこと、あのとき、こうすればよかった、みたいなことって、あるのかな」

「それは、なくはないけど、その時に戻れたとして、僕にはどうしようもないこと、ですよ、きっと」

 僕にはその力はなかったのだから。

「じゃあ、奇跡が起こせるのなら。例えば、病気を治せる、記憶を取り戻せる、そういったことができるのなら、やり直したい」

 そういうことなら、いくつも、ある。この街なら、僕がもしもこうできたなら、という思いを抱えていることを知っている人がいても、おかしくはない。僕の故郷だから。彼女は僕のことに詳しいのだろうか。

「奇跡が起こせるなら、ですか。それなら、やり直してもいいかも、ですね」

「そうでしょうね」

 と、彼女は同意した。彼女はそれを知っているのだろうか。

「失礼ですけど、僕がこの街にいたときのことを知っている人ですか?」

「そうかもしれない」

 なぜか、曖昧な答えが返ってきた。知らなかったらそんなことを言うわけない。そう思って、彼女のことをよく見てみる。同年代らしく見え、だからこそ、学生時代の知り合いだろうかと、考える。そう思うと、見覚えがある気がする。彼女の作る雰囲気が、過去の彼女とは違うものになっているからだろうか、まだ、記憶の誰かと彼女が一致しない。 僕は、そのとき思い出した。いや、正確には、その存在を認識したのか。

「私、知ってますよ、あなたが誰で、どんな苦い思い出を抱えているか。全部でなくても、一部は」

「誰、ですか」

「私から教えるわけにはいかないでしょ。思い出してみたらいいんじゃない?」

 彼女がそう言ったからか、僕は過去を振り返る。とっかかりとして、僕のやり直したい過去。それなら、まずは僕の最初の恋の思い出だ。

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