月に手を伸ばすもの
浮立 つばめ
アウフタクト
お帰り、兄さん
「おかえり、兄さん」
駅のロータリーにいた女性が僕に向かって笑いかける。僕はそれに返事をする。
「仁菜、僕のこと『兄さん』なんて呼んでたっけ」
ただいま、と本当は言うつもりだったのだが、目の前にいる妹、新保仁菜のその発言に、違う言葉が口をつく。
「この年になって『お兄ちゃん』って言うのは恥ずかしかったの。分かるでしょ」
「わからなくはない」
「『兄さん』でダメなら、なんて呼べばいいの。『真一』?」
「呼び捨てはアレだ、仁菜にされるのは非常に違和感がある。いいじゃん、『お兄ちゃん』で」
「……」
「わかった、好きに呼んでいいから」
無言の圧力に屈してしまった。もう『お兄ちゃん』と呼んでもらえないのか、とがっかりする。まあ、確かにいまだに兄のことをそう呼ぶ人は、見かけない気がする。見かけないだけで、そう呼ぶ人もいるのではないかと思ってはいるのだが。
「相変わらずなんだから、兄さんは」
「そっちは、相変わらずってことはないけどな。年取ったな、お前」
「さすがにひどすぎる。女性に対して言う言葉じゃないよそれ」
「仁菜は僕の妹だからな。こういうことも言いたくなる」
「どういうことよ」
久しぶりに会ってもそういう軽口が簡単に言える相手だ、とはさすがに恥ずかしくて言えなかった。
「家に帰るでしょ」
「その前にちょっと街を歩いてみたい。久しぶりに」
「そう? なら、大きな荷物とか預かって、先に家の方に届けてあげようか」
「じゃあ、頼む」
いつの間に車なんか持つようになったのだろう。彼女の好きな色である赤色の小さめの普通車のトランクを彼女は開けた。
「ギターはどうする? 一緒に持ってく?」
「そうしてもらおうかな」
「これ、兄さんのトレードマークにしてると思ったのに、あっさり手放しちゃうんだね」
「休みに来たから」
「友達に会う予定とかあるの?」
「今のところはない」
「でもしばらくゆっくりするんだよね」
「そのつもり」
「今日はいつ頃戻る?」
「夕食前には」
「街に出るんだっけ?」
「そのつもりだけど」
「じゃあ、『footprints』って喫茶店がおすすめ」
「そんなのあったっけ」
「兄さんがいない間にできたんだよ。じゃあ、家で待ってるから」
「ん」
僕は、懐かしい街に繰り出した。
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