第401話 「血の精算②」
「ここまででいいよ」と私が告げると、棺を持ってくれた皆は、とても丁重にそれを下ろしてくれた。柔らかな絨毯の上、音もなく棺が乗る。
それから棺の運び手たちは、私に気遣わしい様子を見せつつも、城内の侍従の案内でその場を後にした。
例外は、近衛隊長殿だ。これは予想通りだ。何か一言、言わなければ気が済まないのだろう。それを悪くは思わなかったけど、彼の横には宰相がいて……私たち三人いずれも、どうにもやりにくそうな感じはあった。
しかし、この扉の先に待ち受けるものを考えると、こんな煮え切らない微妙な空気ですら、人の温もりを感じさせる
結局、私は素直に気持ちを言葉に乗せた。「ありがとう」と一言だけ言うと、二人は深々と頭を下げ、長い廊下を歩いていった。
一人になって、急に心細さを覚えた。寒い。
――いや……今は二人か。そんな、自嘲じみた声が、自分の中に響いた。
それでも、この棺にいる兄を勘定に入れても、やっぱり私は一人で父と向き合うことになるのだろうと思う。この場にいるのは、兄を殺して一人ぼっちになった私と、一人ぼっちのまま死んだ兄だけだ。一人ぼっちをいくら足し合わせても、つながりは生まれない。一人のままだ。
そして、私は大きく重厚な扉に向かい合った。長く続く壁は白い中、この扉は暗い色をしている。それは、落ち着きや風格よりも陰鬱さを思わせた。ただ重苦しいばかりの大きな扉は外界を隔て、時折申し訳程度に開く……父王のための、都合の良い殻のようなものでしかない。
私は扉をノックした。「王太子です」と名乗りを上げるも、向こうからの返事はない。
ふと、背の方にある窓に目をやった。夜明け早々の訪問だ。まだ、寝ているのだろうか?
いや……だとしたら馬鹿げた話だ。いずれの国民も、この夜だけは眠れないというのに。
その後も何度かノックをしたが、ついぞ反応はなかった。憤ろしさが胸にこみ上げる。父に対して幾度となく抱いたこの感情も、今が一番狂おしい。ちょうど、傍らで眠る兄が、この気持ちを後押ししているようだった。
私は、扉を開けた。内側には鍵がかかっていなかった。その必要もないからだろう。主の反応を待たずに開ける慮外者など、許されるはずもない。でも、私は構わなかった。無理に開けたことで、どんな誅罰を受けることになろうと。
開け放った扉の向こう、玉座には父がいた。寝ていないだけマシか、そんなことを思った。
しかし、その顔に生気は薄く、まるで
こんな早朝に私がやってきたことに対し、父は何の反応も返さない。思えば、まともに会話した経験すら希薄だ。私を肉親だと認識しているかどうかも怪しいものだ。
そんな父の、無関心な視線を浴びながら、私は棺を一人で背負った。軽めの物をと頼んではいたものの、やはり一人では重い。それでも、この玉座の間では、他の誰にも譲れない役目だと思った。
この家の問題に、他人を巻き込めない。
兄の棺を背負うと、負傷した両脚に激痛が走った。それをなんとかこらえ切り、棺をある程度運んでから、私は扉へ向かった。さすがに、ここを開けっ放しで話し合い――になればいいけど――をやるつもりはない。
重苦しい扉を閉め終え、玉座に向き直る。すると、父がどういうわけか玉座から立ち上がっていた。ゆったりとした足取りで棺の横へ歩いていく。
私は少し面食らった。予想外の反応だったからだ。でも、無反応でいられるよりは、ずっといいのかもしれない。
私も棺のそばへ歩いていった。そして、棺を挟んで対面する形になって、ようやく父が口を開いた。いくら過去をさかのぼっても記憶にない、本当に他人にしか感じられない声で。
「報告を」
「……はい。クリーガを主体とした、新政府と名乗る勢力との内戦が終結。それに前後して発生した、魔人の襲撃も終息し、クリーガの防衛に成功いたしました」
「……これは、クレストラか?」
「……はい」
「お前が、倒したのか?」
――この男は、人間なのだろうか? 魔人が化けているのではないか? 自ら察していてなお、肉親にそのようなことを聞けるものだろうか?
急に、この男と口を利くのが嫌になった。私は黙ってひざまずき、棺の蓋を外した。
中から現れたのは、兄の遺骸だ。もはや人間のそれではない。完全に、白い砂の塊と化している。
私が斬り落としたはずの右前腕は、傷が目立たないようにと、丁寧に整えてあった。人の心を持つ誰かが、手を尽くしてくれたのだろう。
そして……真っ白な兄の顔は、どこか安らいでいるように見えた。その有様が、私の心をかき乱す。自分の中にいくつもの人格が芽生えたかのように、憎悪と
しばらく静かに立ち尽くし、棺へと視線を向けた。すると、兄の体に一滴の雫が滴り落ちるのを見た。視線を上げると、父が涙を流していた。頭の中が真っ赤になる。
気がつけば、私は剣を鞘ごと持って振り上げていた。それを、衝動のままに振り下ろす。
私の行動に対し、父は素早く反応した。兄の亡骸に覆いかぶさる父の背を、私は鞘で強く
くぐもったうめき声の後、咽び泣くような声が続く。それが言いようのないくらいに耳障りで、癪に障って……私の頬に熱いものが伝った。
「どうして止めてくれないんだよ! どうして
手にした剣は、私が手にするまでは誰も傷つけたことがない、お飾りの宝剣だった。
それが、私の手に渡ると、兄に二度めの死を与え、今こうして父の背を打った。
私が生まれた時、母が死んだ。母が死んで、父はこもりがちになった。兄は魔人との戦いに血道を上げるようになった。そんな兄が死んで、父はますますどうしようもなくなった。
今日、私は兄を殺して、その上、私は父を打ち付けた。
どうにかなりそうだった。
「親になれないなら産ませるなよ!」
私は腹の底から叫んで、剣を投げ捨てた。床に落ちた衝撃で鞘から剣が抜け、地面を滑って止まる。
そして私は、ただ泣くばかりの父を尻目に、玉座の間を出た。
幸いにして、近くで待機して見守ろうという余計な気のきかせ方をする臣下は、一人もいなかった。玉座の間よりも、こうして誰もいない廊下の方が、ずっと気が楽だ――あの部屋の中でこそ、私は一番の孤独を味わってしまうだろうから。
黒い月の夜が明け、内戦が終結したばかりの今日が重要な日だというのは理解している。しかし、今の私が冷静に判断を下せるとは思わない。そんな無責任な自信は、私にはない。
だから、後事を託してある将軍たちに、今日のところは任せることにしていた。我ながら、少しばかり情けなさを覚えつつも、一日ぐらいは自分の部屋で静かにしたかった。頭を冷やしたかった。それぐらい、先程のことは大事だった。
ただ、一人で静かにというのは、実際には難しいかもしれない。何人かとすれ違いつつも、足早に自分の部屋へたどり着くと……やはり、アーチェが待っていてくれた。
「殿下! ご無事でなによりです」
「ありがとう」
彼女のことだから、おそらく昨夜は一睡もしていないのだろう。その前に昼寝ぐらいはしたかもしれないけど。
数ヶ月ぶりに自分の部屋に入る。そのことに対し、さほどの感慨はない。しかし、部屋に入ってアーチェの顔を見ると、帰ってきたという気が強くなる。どうも、
私は自分のベッドに身を預け、天井を見上げた。自分一人でゆっくりというのは、彼女がいる限りは叶わないだろう。だからといって、一人になりたいからと追い出すのは、少し気が引ける。
寝転がってから視線を横に向けると、彼女が恭しくもベッドの横に立っていた。何か話したそうではあるものの、切り出しづらい感じだ。
そこで私は、自分一人がベッドで寝転んでいることに、少し気恥ずかしさを覚えた。とはいえ、彼女も……というわけにもいかない。私は起き上がり、彼女を促してテーブルを囲むことにした。
そうして、数ヶ月前の日常に戻ると、彼女はややためらいがちに口を開いた。
「殿下、何かお辛いことがありましたら、その……私にお話いただければと」
「ありがとう。でも、大丈夫だから」
さっき、少し泣いてしまったのを悟られたかもしれない。しかし、彼女に悩みを打ち明けるのは避けたい。あまりにも、みっともないからだ。こんな、壊れた家庭のことを打ち明けるなんて。
そうやって彼女の厚意を遠慮した私だったけど、珍しく彼女は食い下がってきた。
「殿下は私にいつも優しくしてくださいますから、少しはお返しをさせていただければと」
「別に構わないんだけどね……優しさなんて、あげて減るものじゃないよ」
「ですが、少しはお返ししないと、私の方が溺れてしまいます」
妙な言い回しに、少し笑ってしまった。溺れさせるほど注いでるつもりはないけども。
私が笑うと彼女も笑った。自分一人先に笑ったのでは良くないと思っているのかもしれない。それぐらい、今日の私はちょっと……難しいと、彼女は感じているのかもしれない。
そのまま互いに口をつぐんだ。そうして彼女の顔を見ていて、一つ思い浮かんだことがある。
その昔、王族は勢力争いのため、貴族階級を作った。それが引き金になり、魔人が生まれ、太古の過ちを後世に伝えるためにアーチェが生まれた。そして、生まれた世を捨て、一人孤独に後の世で真実を伝えるという苦役を、彼女が課されたわけだ。
大昔の王族は、おおよそ人間の範疇に収まらない下郎ばかりだったのだろう。それに比べると、父と兄はまだマシに見える。父は無気力で無責任だけど、人を害したりはしない。兄は……使命感か何かで闘争に明け暮れ、結果として孤独に押しつぶされておかしくなったのだろう。もとから狂っていたのではないと思う。
そう考えると、忌まわしい血を引きながらも、太古の大罪人どもよりは、我が家の血族はまともになってきているはずだ。
だったら、私の代で、真人間に戻れる――合流できる――かもしれない。
ここまで考えて、少し笑ってしまった。なんというか、近衛の隊長殿が言い出しそうな思考法だ。
いきなり笑い出したことで、目の前の彼女には変に思われたようだ。それでも、私が前向きになったおかげか、柔らかな表情を向けてくれている。
「何か、良いことでも?」
「無いこともないかな。内緒だけどね」
悪びれもせず、そっけなく言うと、彼女は少し残念そうに笑った。
いつの日か、私が本当にまともな王様になれたら……その時は、今日のことを打ち明けてもいいかな。
――私は、父や兄と同じ血を引いていることが、厭わしくて仕方ない。いつか、ああなってしまうのだろうかという恐怖が、毎夜のように私の心に忍び寄ってくる。それに打ち勝ち、私を慕って支える皆に恥じない人間になりたい。
そして……きっと、アーチェは私の御代で生を終えることになるだろう。再び眠りにつかせる魔法も技術も、今の世にはない。それに、仮にそれが可能だとしても、私はそれを認めない。
だから、せめて彼女には、安らかな気持ちで最後を迎えてほしいと思う。いつ来るかわからない彼女の天寿まで、どうか幸せであってほしいと思う。
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