第211話 「迫りくる刻」

 投げ飛ばされたときの受け身がいい加減だったせいか、あるいは戻ってきたことへの感慨からか、俺は少しの間、仰向きになって呆けたまま動けないでいた。でも、見上げた空の異様な雰囲気と、まだ春を迎えたばかりの、夜の空気の冷たさが、意識を少しずつ引き戻していく。

 荒い吐息をなんとか落ち着けようとする、そんな音が聞こえる。その音が自分の口から発せられたものではないことに気づいて、俺は跳ね起きた。すぐそばでは、アイリスさんが仰向けになって倒れている。少し呆然とした感じの顔で。

 俺は彼女のもとに寄って腰を下ろし、手を取った。白い手袋は細かく刻まれたように傷つき、ところどころ赤く滲んでいる。「こんな無茶して……」そんな言葉が口をついて出た。すると、彼女は上半身を起こしてこちらを見つめてきた。整った真顔が、だんだん崩れていって……。

 気づけば、彼女に抱きつかれていた。あまりのことに、頭の中が真っ白になる。

 女の子に抱きつかれるのは、別にこれが初めてってわけじゃない。孤児院の子たちには何度も抱きつかれた。でも、あの子達はそうするのが仕事みたいなものだ。今のアイリスさんとはわけが違う。

 彼女に抱きしめられて、最初に認識できた感情は、当惑……だったと思う。それから、言いようのない感情が胸を締め上げた。喜びは、あまり感じない。きっと、ものすごく心配させてしまったんだろう。俺の意志で現世へ行ったわけじゃないけど、それでも罪悪感のようなものを覚えずにはいられなかった。こちらに帰るまでは、目の前の彼女とまた話をしたいと願っていた。でも、こんなに近くにいるのに、胸が一杯で言葉が出てこない。

 話す気配がないのは、彼女も同様だった。俺の胸元に顔をうずめるようにしていて、彼女の表情は読めない。その表情を見てみたいような、見ちゃいけないような。相反する気持ちがせめぎ合う。


 どれだけの間、そうやって固まっていたかはわからないけど、遠くから音がこちらに近づいているのに気づいて我に返った。誰かがこちらに歩いてきている。

 振り返って音の方に向くと、ほうきを手にしたシエラと、彼女の後ろにウィルさんが立っていた。俺と視線が合うなり、シエラはほうきを投げ出してこちらに駆けてきて、「ちゃんと帰るって言ったじゃない……」と震える声で言った。泣き出しそうな目で、こちらを睨みつけている。


「いや、ほら……こうしてちゃんと帰ったし……」

「そういうことを言ってるわけじゃない……」

「……ごめん」


 非を認めると、彼女も腰を下ろして俺に抱きついてきた。見えない顔からすすり泣く声が聞こえる。本当に、ものすごく心配させてしまっていたんだ。こうして帰っても、あの時ほうきを借り受けたときの約束は、破ってしまっているように思う。頭の中は申し訳無さで一杯になった。

 そういう思いからいたたまれなくなって、俺は彼女の頭から視線を上げた。すると、ちょっと離れたところでウィルさんが、困ったような笑みを浮かべている。


「僕も混ざろうか?」

「遠慮します」


 思わず苦笑いして答えたけど、彼の言葉が助け舟になってくれた。抱きついていた2人が俺を解放してくれて、体が少し軽くなる。2人とも少し恥ずかしいのか、頬を朱に染めていて、つられて俺も紅潮した。


「なんか、悪いね。邪魔したみたいで……」

「いえ、それは別に……」

「大仕事が済んだところで申し訳ないんだけど、まだ続きがありそうなんだ」


 そう言ってウィルさんは、左腕に付けた外連環エクスブレスを指差した。着信があるらしく、腕輪の一部が人型に青く光っている。それから彼は、俺達に一言断ってから通話を始めた。すると、少しずつ彼の顔が険しくなっていく。

 通話が終わると、彼は少しうつむき加減で長い溜息をついた後、俺達に向き直った。「どうも、奴がこちらに近づいているみたいだ」と彼は言う。奴が何を指すのかは、名前を出されるまでもなかった。

 敵が近づいている。でも、ウィルさんは一切の狼狽を見せず、落ち着き払っていた。まるで、こういう事態を想定していたみたいに。そして、それは俺も似たようなものだった。遅かれ早かれ、奴とは再戦することになるだろうと思っていた。先の戦闘の顛末を考えれば、奴にはもう、俺を始末するぐらいしかやることがないだろうから。

 傍らの2人に視線をやると、シエラはかなり不安げな表情だ。一方、アイリスさんは覚悟が決まったような表情をしているけど、かなり疲れているようにも見える。

「どうしますか?」と俺が尋ねると、ウィルさんは俺達3人を見回してから言った。


「連絡によれば、接敵まで20分あるかどうかってぐらいだ。逃げるのは難しいね」

「狙いは俺ですよね?」

「それは間違いないと思う。まぁ、奴には場所がわかるんだろうね。君の方は?」


 目を閉じて集中すると、ほんのかすかに白いマナの気配を感じた。これがきっとそうなんだろう。

 ウィルさんにうなずいて返答すると、彼は俺に同情するかのような苦笑いをした。それから、すぐに真剣な眼差しをアイリスさんに向ける。全員が静かにしていると、彼女の少し荒い息遣いだけが聞こえる。俺に向けて、ずっと目印を維持していたんだろう。それに、心労もあったのだろう。いつになく消耗している彼女の姿を見ると、胸が苦しくなった。


「シエラさん、アイリス嬢を連れて離脱を」

「いえ、私も……」

「ここまで十分お力添えいただきましたから、後はお任せください。それに、我々にも男の意地ってものはありますので」


 勝手に巻き込まれたけど、嘘は言ってない。俺にだって意地はあって、ここまで疲弊した彼女を巻き込みたくはない。ウィルさんの少し冗談交じりな言葉に、彼女は胸元をギュッと握っていてうつむいていたけど、やがてシエラに向かってうなずいた。すると、シエラは優しく微笑んでから、無言で飛行の準備を始めた。ハーネスをくくりつけて、アイリスさんを落とさないように。

 そうして準備が済むと、2人は俺達に励ましの言葉を残して飛び立った。


「申し訳ないね、勝手に話を進めてしまって」

「いえ、それはいいんですけど……ここで迎え撃つんですよね?」

「ああ。来るまで猶予はあるから、それまで色々伝えておこうか」


 そう言ってウィルさんは、今日王都の周りはどうなっているのか話し始めた。

 今日は黒い月の夜だ。今期は王都とその近辺を襲撃されたということもあって、また何かあるのではという憶測が飛び交っていた。そのため、目の森の”奪還”なども考慮して、過去に魔人の出現報告があった箇所へ重点的に戦力を回している。

 そんな中で、俺のお迎えに人を回せるかというと、そんなわけはない。たかだか冒険者1人のために、そこまで人員は割けない。俺のことを評価してくださる方もいるけど、あくまで個人としての評価だ。組織としてそこまで便宜を図れるわけじゃない。

 それに、俺が飛ばされたことは知られていても、どこに飛ばされたかとか、俺がこちらへ来る方法やこちら側でできることなどは、とてもじゃないけど周知できない。

 そういうわけで、俺のお迎えは最小限の人数でという話になったようだ。


 奴は俺の場所を感じ取れるのではないか。察知した場合に攻撃してくるのではないか。そういった懸念も、今回の態勢に影響しているようだ。冒険者1人の帰還のために、大勢差し向けて犠牲が出たのでは困る。

 それに、迎撃の人数が多すぎて、奴が尻込みしてしまってもよろしくない。というのも、先の戦闘の首謀者が生きている限り、例の襲撃の終結を宣言できないからだ。だから、少数精鋭で迎え撃って、犠牲を抑えつつ戦果を……そんな虫の良いことを、王都の政庁は考えている。


「……というわけで、君がうまく帰ってこれたら、君をエサにして僕が奴を始末するっていうのが今回の作戦だ」

「今の所、問題はありませんか?」

「おかげさまでね。一番危ないところをクリアしてくれたわけだから、後は任せて欲しい。君は自分の安全に専念してくれ」

「わかりました」

「……やけに落ち着いてるね。その方が助かるけど」

「こういう事態は想定していたというか……どうせ、あいつが来るだろうなって」


 というより、心のどこかでこういう状況を望んでいたのかもしれない。奴を倒して、因縁を断ち切りたい。たとえ、それが分不相応な願いだとしても、奴に立ち向かって勝ちたい。そういう思いは確かにある。

 そうして一人、戦意を新たにしていると、横から酒瓶を差し出された。350mlぐらいの大きさの瓶の中に、無色透明な液体が入っている。去年、戦場で酔っ払ったときのことが、脳裏を占めた。


「先に言っておくけど、ほとんど酔わないやつだから」

「それは助かります」

「僕も酒には弱くてさ」


 ウィルさんはそう言いながら、同じものをもう一本取り出し、俺は片方を受け取った。そして、2人で瓶どうしを軽く当てて乾杯し、ラッパ飲みでグビグビやる。

 アルコールっぽい感じは、確かにあまりない。それに、味もそんなに感じない。ほのかに甘さのある清涼感が喉を駆け抜けていって、それからじんわり体中が温まっていく。なんとなくだけど、力が充填された感じだ。

 そうやって瓶を一本空けたけど、まだまだ奴が着く気配はない。それまでの間、俺はウィルさんに色々尋ねることにした。


「奴は白いマナを使ってきたんですけど、どう思われますか?」

「体質か何かで、ある程度は自分の色を操れるんだろうね。たぶん、白が奴にとっての基本の色なんだろう」

「魔人は赤紫だけだと思っていたんですけど、そういうのもあるんですね」


すると、ウィルさんはかなり真剣な表情で黙り込み、ややあって口を開いた。


「白ってのは僕も初めてだけど、実は魔人は赤紫だけじゃないんだ」

「そうなんですか」

「……赤紫以外だと、赤と紫の存在は知られているね」


 瞬間、頭の中がグラッとしたような感覚に襲われた。酒のせいじゃない。ウィルさんは、少しだけ表情を緩めて、力なく笑いながら続けた。


「まぁ、魔人の中にも色々あるってことだね」

「奴らの側でも、赤や紫は高貴な色なんでしょうか」

「そのように考えられているよ。まぁ、人前にめったに出てこない分、格上に見られているのかもしれない。ほら、赤紫の連中が、あまりに品がないものだから」


 確かに、赤紫のマナの連中は、なんというか”やから”って感じの連中だ。そんな中で、白いマナの奴はどれぐらいの存在なんだろうか。誰とも違う地位を占めていそうな感じだけど。


「魔人の中でも、それなりの実力者なのだと思う。少なくとも、その他大勢としてくくられる存在ではないだろうね。名前はあるし、徳もあるようだ」

「名前と……徳、ですか」

「奴らの社会じゃ、名前を上から与えられて、やっと一人前らしい。それと、徳と称して力や性質を分け与えるというか……植え付ける儀式があるらしいんだ」

「奴らに、徳ですか」

「まぁ、僕らとは意味合いが違ってそうだけどね。奴らでは冷酷だの残忍だのを徳と呼んでいるらしい」


 つまるところ、悪徳を徳と称しているようだ。社会全体として歪んだメンタリティを持っているか、あるいは単に皮肉なのか。


「それで、奴の徳は?」

「それはわからない。高慢とか不遜当たりかと思うけど」


 口調こそ軽いものの、ウィルさんの表情は少し苦々しげだ。奴がいた頃のことを思い出しているように見える。

 それから彼は、深刻さの滲む顔になって言った。


「去年の秋までは、奴にいいようにしてやられていた。でも、今は違う。君が飛ばされた時のことは話に聞いているけど、ヤツなりに捨て身の断行だったものが、君の手でこうして覆されたわけだ」

「それで、大急ぎでこっちに向かってきていると」

「……今度こそ、本当の捨て身で来るかもしれない。前にそういう経験があるんだけど……命や体をマナに変えて向かってくるかもしれない。明日なんていらないとばかりに」


 前に奴と対峙したときは、なんとか攻撃をしのぐことはできたけど、それでもギリギリだったと思う。今回、それ以上の攻勢を仕掛けてくるとなると、生き残りを確信するだけの自信はなかった。

 でも、奴との再戦を期して、俺なりに特訓を続けてきた。それに、ウィルさんとの共同戦線だ。彼がどれだけ強いのかは知らないけど、心強さは感じる。出たとこ勝負だけど、気持ちの上で負けてられない。

 自分でも、驚くくらいに肝が座っているのがわかる。ウィルさんの言葉にもあまり動じなかった俺に、彼は少し驚いているようだった。

 それからいくらか経って、彼はちょっと困った感じの笑みを浮かべて話しかけてきた。


「変なことを聞くけど、時間の流れを遅く感じたこととかあるかな?」

「……ごくまれにあります。死にかけたり、何かこう、強力なマナの中にいたりしたときに」

「ああ、そうか。あるんだ……」


 すると彼は、目を閉じて顔を少し伏せた。何か考え事をしているようだ。そして彼は、またさっきみたいな笑顔で「ちょっといいかな」と言いつつ、右手でパパッと魔法陣を書いた。青色のその魔法陣は、複雑すぎて器も文も良くわからない。それに、俺が読み取ろうとする前に消されてしまって、結局何の魔法なのかわからずじまいだった。


「今の、なんです?」

「おまじないだよ。ヤバいときは、息を止めて精神を集中するように。そうすれば、なんとかなるから」


 何をされたのかはっきりしないけど、鷹揚な感じのウィルさんから、有無を言わさず言い含める感じの発言が出て、俺は思わずうなずいた。そんな俺に彼はにこやかな笑みを向けてくる。けど、魔法についての説明は結局なかった。


 それから……話が済んで静かに集中力を高めていると、急に気配を感じた。それも、急激に近づいてくる。

 直感的にそちらの方を向くと、赤紫の夜空に白い翼が輝いていた。

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