第109話 「闘技場の戦い②」
できあがった
空歩の極意は、空気を踏むこと。そして、心を地面に縛られないこと。常に足元に自分専用の道がある、そんな傲慢な確信を持ち続けることが大切だとエリーさんが教えてくれた。地面から足が離れる奇妙な感覚には、試験日まで気晴らしの時間に何度も繰り返したおかげで、いくらか慣れていた。
闘技場の内側の壁に沿って、まるで階段があるかのように――いや、俺にとっては確かに存在する――歩いていくと、観客席の縁の壁から俺の頭が出た。すると、うずくまりながらも様子をうかがっていた、身なりと恰幅の良い中年の男性と目が合い、「ヒィ!?」と喉を締め上げたような声を上げられた。
「失礼しました!」と謝りつつ、俺はもう少し高度を上げる。ビットに狙われている感じはない。狙われていたらそれはそれで、空を動き回りつつ陽動できるかと思っていたけど、あちらの注意を惹いていないのなら本題の偵察を片付けるだけだ。
さらに高度を上げると、高揚感よりも緊張感、緊迫感を強く覚えた。見晴らしの良いところから、闘技場の観客席全域に視線を巡らす。壁やイスなど、遮蔽になるものがないここからだと、どこにどれだけの要救助者がいるのか一目瞭然だった。
見回すと、うずくまってたり身を伏せたりしている方が、全員恐怖心からそうしているわけではなさそうだと気づいた。逃げ回るときに、他の誰かや闘技場の構造物にぶつかったと思われる方々が、負傷箇所を手で抑えながらなんとか物陰に隠れている。助けを呼ぼうにも、痛みに声を出せないのか、あるいは敵に狙われると思って声を上げられないんだろう。観客席に点在する逃げ遅れた方々からは、意外なほど声が聞こえないせいで、闘技場の空は奇妙な静けさに満ちていた。そして、ときおり地表から物音が聞こえる。
地面に目をやると、ビットからの射撃を
とりあえず、こちらはこちらで今やるべきことをやらないと。今度は登った階段を降りるわけだけど、降りるときは必然的に足元が見えるわけで、そこには何もなかった。ただ、両足に展開した魔法陣と自分の力を信用するしかない。どれだけ段を飛ばしても、常に確実に踏みつけられる。そう自分に言い聞かせて安心させ、恐怖心を振り切るように数段飛ばしで駆け下りる。
勢い余って地面についてからも駆け下りようとしてしまい、足に変な負荷がかかって一瞬青ざめたけど、なんとか傷めずに済んだようだ。地面を久しぶりに感じつつ、魔法庁の職員の方を捕まえて空中偵察の報告をする。懐から取り出したメモになぐり書きした職員さんは、「ありがとうございますっ!」と言って、上司のもとへ駆け出した。
報告が済んでからあたりを見回すと、回廊の地面に何人か寝かされていた。さっき助けた子は、どうも命に別条はないようで、今は目を開けて、涙ぐむ友達らしき誰かと会話している。他に倒れている方々は、さっき観客席から見たとき感じたことを裏付けるように、観客らしき方が多い。少し年配だったり、身なりの良い格好をされていたりで、あまり受験生に見えない方々だ。
倒れている方々の中に、受験生らしき人はほとんどいない。つまるところ、即戦力になる連中はほとんど無事なわけだけど、心情的にはとても万全とは言えなかった。心配そうに閣下の様子を見守る連中もいれば、観客と一緒に恐怖して震えている連中もいる。もちろん、職員の方と協力して救助に動く人や負傷者の手当に動く人もいる。
しかし……俺たちも戦わなきゃいけないんじゃないだろうか。閣下の方から金属同士のぶつかる音、ビットから放たれた矢が光盾や地面に当たる音が聞こえてくる。その音が届くたびに、トラウマになったのかビクッと反応する人がいた。恐怖心と無力感が、薄暗い回廊に重苦しく漂っている。なんとかして、この雰囲気を払い除けて閣下に加勢しないと、取り返しがつかないことになるんじゃないか?
どうにかして戦おう、そう考えていると、同じ思いに至ったと思われる人の声が聞こえた。さっき一発で意気投合した彼の声だ。
「このままじゃ、ラチが開かないぜ! いくら伯爵様でも、3対1は厳しいだろ! 俺たちが手助けしないと!」
みなに伝わるように、言葉を切りつつはっきりと大声で叫ぶ彼に、背の高い青年が歩み寄って言った。
「具体策はあるのか?」
「それをこれから考えようっていうんだ!」
「なるほど。それは賛成だが……」
それから、彼はもう少し近づいて、あまり全体には聞こえない程度に抑えた声で話しかける。
「俺達みたいな、少しでも戦意がある人間を1人でも失ったら、それこそ手詰まりだぞ」
気がつけば、彼ら2人の周りには目の光を失っていない――つまりあの2人や俺みたいな冒険者が集まっていて、いつの間にか一蓮托生の空気が出来上がっていた。
彼の主張はもっともで、誰か戦えなくなるだけで全体の戦意が完全に折れかねない。やぶれかぶれになったり、義憤にかられて底力を出したり、そういうのには期待できそうにない雰囲気だ。加勢に入ること自体が大胆極まりないだけに、慎重さも大事だ。
一方で、迷う時間は有限だ。外から響く戦闘音が、俺達の平常心を削って急き立てる。さっき女の子を守ったときみたいに思考加速できれば……そんな事を考えていると、周囲にいる諦めが悪い仲間の1人が俺の方を向いて声を上げた。「あれ、誰かと思ったら画伯じゃん」
その女の子が言う画伯ってのが誰かわからなかったけど、俺の方を向いているんだから俺のことなんだろうか? 周りの視線が俺に集まるのを感じながら、指で自分を指すと、彼女はうなずいた。そして記憶をたどると、画伯という呼び名が呼び水になり、彼女が誰なのか思い出せた。名前は知らないけど、確かこの闘技場で最初に似顔絵を書いてあげた子だ。それ以降も、何回か話した記憶がないでもない。
「あー……久しぶり、かな?」
「1ヶ月ぶりぐらいかな」
しかし、こうしてのほほんと旧交を温めている場合じゃない。すると彼女の方も、事態の深刻さは察しているのか、少し無表情っぽい微笑みから引き締まった顔つきになり、「画伯、なんかない?」と聞いてきた。
後から知ったことだけど、俺が似顔絵ブームの仕掛け人というか火元というのは割れていて、その関係で画伯なんてニックネームがついたらしい。それともう一つ、これも後から知ったことで、俺が黒い月の夜に色々やった件について、詳細は定かではないながら俺が何かしたというのは、ニックネームの尾ひれになって伝わっていたようだ。
そんな事情があってか、画伯と呼ばれた俺の方には、その場のみんなの視線が集中していた。別にニックネームのこと抜きにしても、さっき女の子助けたり、1人で空中偵察したりで注目を浴びる要素はいくらでもあった。
普段は悪目立ちしないようにと考えていた――まぁ、結局脇が甘くて不注意もある――わけだけど、今回ばかりはこの注目をうまく使えそうだ。俺が何かやり遂げれば、この場の士気を盛り上げて重苦しい空気を払いのけられるかもしれない。ただ、それには結局、何か策が必要だ。
何か俺にもできること、そう考えるとさっきの画伯という響きが、
「何するんだろ、コイツ」という期待と不安が入り交じる空気の中、俺は平たくなった服の背に魔法陣を書き込む。背に収まる程度の大きさに押さえたCランクの円に、継続型、可動型、追記型を合わせ、最後に視導術の文を書いた。周りの視線を感じつつ、指でクイッと持ち上げると服も無事に宙に浮いた。そして、念のため上着の胸ポケットに、お嬢様にマナを入れていただいた紫の
中央部へ続く通路の出口から顔を出し、誰も着ていない服に空中を走らせ戦地へ向かわせる。ビットに近づけても、これ見よがしに空で踊らせても、奴らの標的は相変わらず閣下のままだった。服に見向きもせず、閣下へ向けて射撃するのを目撃し、誰かがため息をついた。
「こっからが本番だから!」後ろに見向きもせずそう言って、俺は一度服を少し近づけ、刻んだ魔法陣にマナを注ぎ込む。追記型にマナをねじ込んで密度の高いマナの塊に変えてやれば、相手のターゲットを反らせるんじゃないか、そう考えての作戦だった。1つ懸念があるとすれば、それは追記型と視導術の相互作用だ。複製術で視導術を重ね合わせたときは、自分の身に危険が及ぶと感じるほどの負荷があった。今回の組み合わせも、強い魔法を作るものと考えるとどうなるかわからない。
それでも、尻込みしてる場合じゃないと覚悟を決め、今の力量限界ギリギリまで満員電車みたいにマナを押し込み、あらためて服を戦場へ飛ばした。飛ばすときの負荷や、飛ぶ速度に変わりはなかった。ただ違和感があったのは、動き始めの軽やかさと言うか、アシスト感だ。止まっていたところから一気に最高速へ移り変わるような、自分以外の誰かに手を貸してもらっている不思議な加速感が、あらかじめ追記型に注ぎ込んだマナによる効果なのかもしれない。
そして、ありったけのマナを凝集させた服は、ビットのお眼鏡にかなったのか、奴の矛先が微妙に揺れて不安定になった。こっちに完全に向けてやろうと、更に近づけ挑発するように踊り狂わせると、もはや完全に攻撃対象は変わり、閣下の方から俺の服に狙いを定めた。しかし、奴の先端にマナが収束する輝きが見えても、攻撃はされなかった。きちんと攻撃させないと作戦は成功じゃない。内心焦り始めたところに、俺達のリーダーが大声で言った。
「素早く動き回ってると射たないんじゃないか?」
「なるほど、頭いいな!」
「しっかりしてくれ、画伯」
「射たせたらすぐに動かして避けろよ! 囮がなくなったら作り直すのも大変だろ!?」
「よっしゃ見てろ!」
即席の戦友達とやりとりしつつ、敵の動きに注意をはらい俺は服の動きを止めた。
敵の藍色のマナの輝きが少し強くなったかと思うと、次の瞬間には矢が放たれた。分かれるタイプじゃなくて普通の
ついで服を片割れのビットにも近づけ、攻撃を射たせてギリギリ回避すると、もはや俺の囮の有用性は誰も疑わなくなっていた。
周りの戦意ある仲間たちもいよいよ意気軒昂になり、そのテンションの高まりが暗い空気を押し返しつつあった。我らのリーダーが声を上げる。
「見たろ! 囮は画伯の服と、恐れ多くも伯爵様がお務めくださっている! ならば俺たちも自分たちにできることをするだけだ!」
「いや、待て。作戦は?」
「……とりあえず、戦う意志のあるやつは立って手を上げてくれ!」
すると、俺たち集団はもちろんのこと、気落ちしていた連中からも参戦表明があった。その場の全員とまでは行かなくても、立派な前進だ。続いて肝心の作戦立案に移る。もはや作戦参謀になりつつある背の高い彼が俺の後ろに寄ってきて、俺を最初に画伯と呼んだ子と3人で相談を始めた。まず、参謀が口を開く。
「密集しての一網打尽が一番まずい。散開するのがいいと思う」
「そうだな。観客席に広々と配置して、敵を取り囲む感じがいいか?」
「そうだね。バラけさせたほうが、客席を広く使えて遮蔽にできるし」
「万一狙いがそれて射たれたら、壁と席に隠れつつ光盾を使うようにしよう。そうすれば盾の負担をいくらか他のものに分散できる」
「なるほど。攻撃方法はどうする? 魔力の矢?」
「相手が攻撃に藍色のマナを使うなら、防衛手段もそうじゃない? 私は、寒色系の
トントン拍子で策が練られていく中、大声の彼は回廊部分を駆け回って人心の慰撫や、魔法庁の方との連携に奔走していた。闘技場以外の様子も気になるけど、それは職員の方が外部との連絡と調整を受け持ってくれるようだ。
おおよその策がまとまったところで、作戦参謀がリーダーを呼びつけた。
「お前、名前は? 俺はエルウィン」
「俺はラウレースだ」
「私はルクソーラ」
3人が手短に名乗ると急に静かになった。ややあって、脇腹をつんつん突かれた。驚いて振り向くと、ルクソーラが俺の後ろにいて、にこやかに笑っている。
「画伯、名前は?」
「リッツだよ!」
「まぁ、知ってるけどね、私は。でも、みんなも名前、知りたいんじゃないかなーって」
「……まぁ、そうかな?」
「絶対そうだよ」
また戦場に向き直り、囮の操作に集中すると、俺の背に視線が集まっているのがわかった。ただ、こっちもこっちで忙しい。後のことは3人に託し、俺は俺の仕事をこなさないと。
「よし、みんな聞いてくれ! 今から作戦を説明する!」
リーダー、ラウレースのよく通る大声が回廊を駆け抜けた後、場は静まり返った。でも、少し前までみたいな嫌な静けさじゃない。不安の中にも、決意や戦意の高まりを、俺は確かに感じた。
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