第65話 「憧れの存在」
入った部屋は、通路と同様に壁と床が白い。でも、壁にいくつもコルクボードがかけてあって、並んだ机には色々と道具とか研究資材らしきものが置いてあるおかげで、あまり殺風景には感じなかった。ここで日夜、研究に勤しんでいるんだなって感じる。
部屋に視線を巡らせてから、ふと足元のあたりに人の気配を感じた。床に視線を落とすと……入り口脇の壁際に、寝袋にくるまった同世代っぽい男の子がいて、寝息を立てている。
彼を見て、私は思わず飛び退いてしまった。でも、シエラさんは特に大きな反応は見せず、呆れた様子で短くため息を付いただけ。よくあること……なのかな?
それから、彼女はしゃがんで彼をゆすり、「お客さん来たから、起きて」と言った。起こされた彼は小さく唸り声を上げて、目を袖でこすりながら身を起こした。ゆめうつつな状態の彼と視線が合う。
すると、彼はそのまま何回か
「……お嬢様だけど。フォークリッジ伯の」
「ヒィ!?」
締められた首から絞り上げたような短い悲鳴を上げて、彼は寝袋から起き上がり部屋の奥へ行った。あんな反応をしなくても……って、そう最初に思ったものの、どこか違和感もある。
「彼はどちらへ?」
「物置ですね。おそらく、着替えてると思います」
「ここで寝泊まりは、よくあることなのですか?」
「私はそんなにしませんが……研究がノッてきて、帰るのがもったいないときとか、ままありますので」
答える彼女は少し恥ずかしげにしているけれど、自分の仕事に文字通り寝食忘れて打ち込めているみたいで、少し羨ましく思う。
先程の彼が駆けていった部屋の奥の方には、また別の部屋に続く扉が5つ見える。シエラさんによれば、ちょっとした炊事場が1つ、物置が1つ、実験室が2つ。もう1つ部屋は内緒らしい。
今回、用があるのは実験室のほうだけど、朝8時を過ぎたぐらいだというのに、実験室は2つとも使用中。熱心だと感心している私だけど、シエラさんは申し訳無さそう。
それで、部屋が空くまで私たちは順番待ちをすることになった。部屋の隅にある、談話用らしいスペースのソファーに案内され、腰を落ち着ける。
「部屋が空きましたら……あー、みんなお嬢様と話をしたがると思います。もしよろしければ……付き合っていただければ、今後の励みになるかと」
「私と……? それは構いませんけど」
先の彼の反応を見て、私とお話したいだなんて思えないけど、彼女が嘘をついている様子もない。彼が少し特別なのかな……なんて、少し失礼なことを考えてしまった。
疑問に思いつつ、部屋に散らばる正体不明のあれやこれやに視線を移しては思いを馳せていると、実験室の1つが開いて少し年上ぐらいの男女が1人ずつ出てきた。立ち上がって会釈すると、2人も返してくれた。
しかし、私と視線が合うと、2人の表情が硬くなる。やっぱり……内心少し落胆したけれど、私は笑顔を崩さない。
「えっと、見学? どちらさん……って、いや、マジで?」
「お嬢様だけど、伯爵家の」
ほとんど答えが出かかっていたように見える女の子にシエラさんが答えると、2人とも姿勢を正した。
正直、私に対する態度として、ここまではいつもよくあること――だけど、目の輝きが他の方々と違って見える。顔も少し上気しているようで、緊張しながらもなんだか幸せな雰囲気を漂わせている。
「お、お、お茶入れますね」
「あー、私がやるって。こぼさない余裕ないでしょ?」
「それもそうねっ、頼んだ」
よくわからないテンションで頼む彼女に圧されるように、シエラさんはお茶を淹れに行った。
シエラさんが去って、3人で立ったままというのもどうなんだろうと思っていると、さっきから黙っていた男の子の方がソファーを勧めてくれた。私は座ろうとするけど2人は立ったまま。状況に困惑しながらも何とか笑顔を作り、2人に座るよう促し、どうにかソファーについてもらえた。
座ると、無言になった。座らなくても無言だったに違いないけど。マリーだったらこういう場でも切り込んでいけるんだろうなぁ……って思いながら、目の前の2人が話しかけてくれるか、シエラさんが早く戻ってきてくれるのを待つばかりだった。
テーブルに視線を落とし、少し視線を上げて2人と視線が合うとまた照れくさくなって視線を落とし……そんなことを何回か繰り返した。
すると、ドアが開く音がした。シエラさんかな? 思わず顔が柔らかくなって音の方へ向くと、寝袋の彼だった。落胆しては悪いと思い、そのままの笑顔で彼にもソファーの一員になるよう勧めると、やっぱり少し照れくさそうにしながら座についた。
ややあって、シエラさんがお茶のセットを持ってきた。空のカップを6つに、大きなティーポット。小さな調味差しが2つ。座のみんなの視線が、彼女に集中している。
たぶん、私を含めてみんな、似たような気持ちで彼女を見ているに違いない。彼女の少し引きつった笑いから、それがわかった。
「妙に静かだと思ったら……」
「だってさぁ」
座って茶を注ぐシエラさんに、年上の男の子が私の方を何度かチラチラ見ながら言った。シエラさんはため息をついて、困ったように微笑みながら私に話しかけてくる。
「なんていうか、みんな……私も含めてですけど、あなたの……何て言うんでしょうか。ファンのような」
「ファン?」
「ええ、そうです!」
年上の女の子が、目をキラキラさせながら言った。そして、それから少し長く、熱のこもった説明が始まった。
ここ魔導工廠では、王国が関わった戦闘行為に関して、報告書が上がる物は逐一チェックしている。よりよいモノづくりのため、そうやって現場の情報を得ているとのこと。そこまでは、私も知っている話だから違和感なく飲み込めた。
だけど……彼らの中で私はとても有名人というか……端的に言えば憧れの的みたい。
「リーフエッジみたいなので、バッタバッタ敵を薙ぎ倒すってんですから、ホント信じられなくって」
「そうそう!」
確かに、魔道具の扱いに関しては自信があるけど、まさかここまで評価されているとは思わなかった。実戦を共にした方からも、ここまで真正面から称賛されたことはないので、私を前にしたみなさん同様に私の方も少し恥ずかしくなってしまった。
「それで、アイリス様はどのようなご用件で?」
「その、ホウキに乗せてもらおうって思いまして」
私が答えると、みなさんはシエラさんの方へ向いて「いいなー」と合唱した。
「いいなーって言っても、例の最下級品だよ? 試作未満みたいなアレ」
「あー、しかたないけど、なんかもったいないかも。できれば
「だよなぁ」
少し会話についていけず戸惑っていると、また解説してくれた。
工廠で作っている品々は、対象とする使い手のレベルに合わせてグレードを分けているそう。細かく分けるとキリがないけど、上から最高級品、
「一番面白いのが、最高級品と初級品の開発なんです」と熱意たっぷりに寝袋の彼が言う。
「両極端に思えますけど、どちらも面白いのですか?」
「はい! 両極端な商品の方が、客の要求がキツいんでやりがいがあるんです」
「最高級品を求めるお客さんは性能に妥協しないし、逆に初級品のお客さんに対しては、誰でも使えるようにこっちで最大限手を尽くさないといけないんです」
「ぶっちゃけちゃうと、中級品ぐらいを買うお客さんが一番ラクですね。あちらで勝手に工夫してくれますし。節約というか、やりくりがうまい層なので」
何気なく使っている魔道具の開発の裏話を聞けたようで、話を聞いているだけでもとても楽しい。シエラさんの都合もあるだろうから、ずっとこのままというわけにはいかないけど。
そのまま続けて研究の話を伺っていると、実験室のドアが開いた。中から私と同じぐらいか、少し年下ぐらいの男の子が出てくる。
シエラさんの「どうだった?」という問いに、彼は頭を横に振って答えた。
「全然ダメ。やっぱ布を薄くするとすんごい干渉してさ。いけて3段が限界かな~」
「あいだに別の布を挟んでみるのは?」
「夏場困るじゃん。季節差のある魔道具なんて、作る側としては最低だよ?」
「わかる」
どうやら衣類関係の開発をしていたみたい。話をしているうちに、彼は私に気がついたらしく、やっぱり一瞬表情が固まって、「誰?」と聞いた。
その後、お約束みたいにシエラさんが答えると、彼の顔が真っ赤に。それから、たぶん自分のだと思うけど、机からマグカップとマナペンを持ってきて、私の前に差し出してきた。
「あの……サインください!」
彼がそう言うのとほぼ同時に、シエラさん以外の3人がガタッと立ち上がった。シエラさんは、どこか恥ずかしそうに顔を横に向けている。
それで、私はというと……人からサインを求められたのなんて初めてで、少し緊張した。でも、嬉しくもあって……笑顔でカップを受け取り自分の色で名前を書いた。
そうしてカップに書いた紫は、あまり好きな色じゃなかったけど、今日はなんだかいつもと違うように感じられる。
それからも、次々差し出されるカップに名前を書いていく。4人分書き終えたところで、それぞれカップを手にしたみなさんが、シエラさんの方を向いてニヤニヤ笑い始めた。
すると、年上の女の子が肩を揺すって、「素直になりなよ~」なんて言い出した。シエラさんは困ったように苦笑いしながら手をやんわりはねのけ……観念したようにのっそり立ち上がった。そして、少し照れながらカップを差し出してくる。
「……私たち、少しうっとうしくありませんか?」
「いえ、そんな。今日、ここに来れてよかったです」
何が良かったのか、自分でも説明できないままに、ただ気持ちだけ素直に答えると、彼女は頬を少しだけ赤く染めてそっぽを向いた。
私も少し照れくさいかな……頬が少し温かい。
☆
「申し訳ありません、話が長引いてしまいまして」
「いえ、楽しかったですし、参考になりました」
空いた実験室で、シエラさんは試験の準備を整えている。ホウキの先端と、付け根の部分に金具が取り付けてあって、それを床の4箇所に取り付けた金具に鎖でつないでいく。これでホウキが過剰な反応を起こしたとしても、急激な動きはしなくなるということみたい。
「ここまでしなくても、ホウキ自体安全に設計してありますが……念のためです」
そう言いつつ準備を進めていくシエラさん。やがて準備が完了し、まずは彼女が手本を示してくれた。
「またがってからマナを注ぎ込むだけで、少し浮き上がる感じがあるはずです。足が地につかなくなるまで、そのままマナの流れを維持してください。足が離れても慌てないように。宙のその場に留まるイメージを持ていただければ大丈夫です。不安になられましたら、すぐに足を地につけてください」
私の方を向きながら、ホウキと一緒に宙に浮く彼女は、さすがに落ち着いている。ホウキ以外に特に魔法を使っている様子もなく、本当にホウキ一本の力だけで浮いている。これを私も……そう思うと緊張してきた。
それから、彼女は足音もしないくらい静かに高度を下ろして着陸した。なんでも無いことのようだけど、これだけでも制御に習熟しているのがわかる。
そして、彼女は私と交代した。少し体が固くなっている私に、彼女が話しかけてくる。
「魔道具と”会話”できると聞きましたが、本当ですか?」
「会話というか……その子の気持ちというか、イメージがなんとなく見えるだけです。私が勝手に見ているだけかもしれませんけど」
「……よろしければ、何か見えたら教えていただけませんか?」
頭を下げて真剣に頼み込んでくる彼女に、私は「もちろん」と応じた。
それから、私はホウキにまたがって手を柄にあてがい、目を閉じた。手からマナを流し込むと少しずつホウキが浮き上がり、少し遅れて体が浮遊感を得る。普段は得られない、ちょっと変わった感覚に、心弾む物を覚えた。
ホウキに身を委ね、私は更にマナを流し込んだ。すると、ホウキの奥底にある核から私の方へ、逆に何かが送られてくる感覚が。体制を崩さないように気をつけつつ、私は目を閉じ、精神を集中させる。
そして、送り込まれてくるイメージに身を任せ、この子と一体になる。
閉じた目の中で、真っ青な空が広がっている。雲は一つも見当たらない。私は飛んでいる。でも、進んでいるかどうかはわからない。
ただ……体が重いのはわかる。重い体の内側で、何か熱い物が燃えていても、表面には出てこない。青く塗り潰した世界の中、できるのはただ浮くだけで……どこに進んでいるかどうかもわからない。重苦しい殻を破ろうとする熱さを内に感じながらも、その火がくすぶって前に進めないでいる……。
それが、私の手から伝わっってきたイメージだった。
目を開けると、実験室の白い壁が見えた。少しずつマナの力を抜いて高度を下げていく。さすがにシエラさんほどうまくいかず、着地で足音が出たけれど、彼女は拍手してくれた。
「さすがですね。初めてとは思えないくらい、浮いている時の姿勢が安定していました」
「いえ、この子がよく従ってくれました」
試験のためとは言っても、鎖につながれたホウキを見ると、先のイメージも重なって少し胸が苦しくなった。
でも、先に見た光景の中に鎖はなかった。ホウキと鎖にマナのつながりがあるわけでもない。きっと、鎖とは無関係に、ホウキの核があのイメージを抱いている、そう感じた。
先に見た物について考え込むと、シエラさんは緊張した顔で「どうでした?」と聞いてきた。また、難しい顔で考え込んでしまったのかもしれない。反省しつつ、「イメージですよね?」と表情を和らげて確かめると、彼女はそのままの顔でうなずいた。
鎖のことが、あてつけにならなければいいけど……そう思いながら先のイメージのことを話すと、今度はシエラさんのほうがシリアスな表情になり、腕を組んで考え事を始めた。
「やはり、わかりますか」
「なんとなく、そう感じたというだけですが……」
「いえ……この子に心があるなら、きっとそう感じるかな……って、私も思います」
それから、彼女はホウキについて少し説明してくれた。魔法庁からはホウキの研究に関して強い規制がかかっていて、飛ぶための核の部分について一切触れることができない。だから、核の周りの部分を少しいじくり回す程度の研究しかできないみたい。
「いじくり回すと言っても、結局は安全第一ということで、急なマナの流入を抑える緩衝系を重ねるぐらいの工夫しかできません。つまり、その子の本来の実力には程遠いところで、我慢させてしまっているということです」
そういう彼女の顔は少し寂しげで、私は手にしたホウキとシエラさんとを重ね合わせていた。いつか、きちんとした空を彼女たちが飛び回れるといいなって思う。
そのまま少し黙って彼女を見ていると、照れ隠しみたいに彼女は後片付けを始めた。
「店番を変わってもらった手前、正式な報告書を書かないといけませんので……そろそろ終了で構いませんか?」
「大丈夫です、ありがとうございます」
本来の目的は友達作りだったけど、それはなんだかどうでもよくなっていた。ここで働くみなさんの熱意に触れられたし、初めてホウキに乗って感じたイメージは強く印象に残った。少しだけ不純な動機でやってきたことは、ちょっとだけ後悔したけど……。
でも、一つ気がかりがあって、それはシエラさんとは案内以外であまり会話をしていないことだった。片付け終わる前に少し話をしよう。そう思って私は、気持ち明るめの声で口を利いた。
「シエラさんは、私のことは”お嬢様”って呼ばれるんですね」
「えっ? いえ、それが普通ですよ」
「他の方は、”アイリス様”って」
他の職員の方がそう呼ぶように、お嬢様よりも、アイリス様の方がずっといい。特別扱いされていることに変わりはないとしても……親しみは感じたし、私を一個人として見てくれているとも感じた。
なにより、家の外で私の名前を呼んでもらえることが、嬉しかった。シエラさんも私のことを、名前で読んでくれないかな……って思っていると、彼女は少しモジモジしている。
「……なんと言いますか、ミーハーみたいに思われたら、恥ずかしいなと」
「思いませんから」
「……アイリス、様」
「様もいりませんよ?」
少し冗談めかしてそう言ったけど、彼女は苦笑いしつつ首を横に振った。それでも、名前で読んでもらえて嬉しい。彼女と視線が合うと、すぐにそらされた。
やがて片付けが終わると、第一印象通りのクールなシエラさんに戻り、私に話しかけてくる。
「今日はこんなところで……お疲れ様でした」
「ありがとうございます……あの、また来ていいですか?」
私が聞くと、彼女は苦笑した。
「次も、今日のホウキですよ?」
「いえ、ホウキだけじゃなくて、もっとお話したいなって。あなたの研究の話とか、今日は全然聞けてませんし……」
「それは……」
悩んではいるけど、満更でもない様子で、彼女は目を閉じて考え込んだ。
「またお話ということでしたら、2階に談話室があります。外だと色々面倒かと思われますし。ただ、私以外にも使いますから……みんなに捕まると、少し疲れるかもしれませんが」
「疲れるだなんて……本当に楽しかったですよ? ああいうのでしたら、大歓迎です」
笑顔でそう答えると、彼女もにっこり笑ってくれた。
「受付の方に来訪の旨を伝えていただければ、今日のように入館証を作ってもらえますから。名目は査察か相談等、適当な物で通るはずです。後は、受付経由で私を呼んでいただければ……」
「わかりました。お仕事中にも関わらず、今日はありがとうございました」
私が頭を下げると、彼女も慌てて頭を下げた。友だちというにはまだまだ距離があるけど……今日声をかけて本当に良かったと思う。
実験室を出て部屋を後にしようとすると、みなさんが見送ってくれた。シエラさんが、また私が来るつもりでいることを伝えると、口々に「今度は自分の研究を」と名乗りを上げてくる。
それから、部屋を退出しかけたところで、「あっ」と思い出したようにシエラさんが声を上げ、私に話しかけてきた。
「今、売店にいる彼にも、サインをいただければと」
「ええ、もちろん」
うなずいて部屋を後にし、階段を降りて二階へ行くと、たくましい体格の男性の方がロビーで休憩中だった。見覚えのある顔だと思って記憶をたどっていると、彼が立ち上がって私に話しかけてくる。
「伯爵家のお嬢様ですか?」
声で誰だったかを思い出した。ここの所長の方だ。お父様と屋敷で何か話されているのを見かけたことがある。
「ご無沙汰しております」
私がそう言ってお辞儀をすると、彼も同じタイミングで腰を曲げた。さすがに物腰が落ち着いていて、若い職員の方みたいな……ちょっとフワフワした感じはない。
休憩の邪魔をしたかなと思っていると、彼の方から何かお話があるようで、椅子を勧められた。座って、少し小さなテーブルを挟み、向かい合う形になる。
「今日は……見学というところですか?」
「はい」
「……閣下からは、特に何か?」
「いえ?」
聞かれても、何の心当たりもない。質問された事自体を
「実は、閣下のご提案で進めております研究が、一つありまして。今回はその進捗確認かと」
「そうだったのですね。私は何も聞かされておりません。お父様は、ご自分の目で確かめないと気が済まないでしょうから、確認するにも私を遣うことは無いと思います」
「ああ、それはそうでしょうな。いや、失礼しました」
そう言って苦笑いしてから、また彼は私に話し掛けてくる。
「ウチの若いのが、何か失礼なことは?」
「いえ、みなさんとても良くしてくれました。褒めそやされて、少し気恥ずかしい思いはしましたけれど」
「ハッハッハ。若いのにとっては、お嬢様は実体のある伝説みたいなものですから」
「お上手なんですから……もしかして、所長さんにとっても、ですか?」
何の気無しにそう聞いてみると、彼はいい声で笑った後、足元のカバンから何か探し始めて取り出した。テーブルに置かれたのは本で、特別な書物という感じではなく、彼の私物に見える。
彼はその本から、長くしっかりした栞を抜いてテーブルに置いた。
「よろしければ、こちらにサインを頂けますか? 妻に自慢してから、娘にプレゼントします」
陽気な口調で頼み込む所長さんに、私は思わず表情を崩してしまった。
まったく、上も下もそろって、みんな……ミーハーなんだから。
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