第12話 「素人の検証」

 魔法を覚えて今日で8日目になる


 昨日は張り切って戦いに臨み、敵を一発目で倒すことも増えてきた。教え子の上達に、お嬢様も満足げだった。

 しかし、その日の夕食の席で、「もう少しお嬢様と距離をとって、ほとんど一人で戦いたい」と申し出ると、さすがにお嬢様から「待った」が入った。実力がついてきたのは認めるけど、やはり一人きりにしたくないとのことだ。

 そこで、少し恥ずかしいのをこらえて「女の子に見守られたままだと、ちょっと」みたいな事を言うと――正確には覚えていないけど、たしかそんなことを言った気がする――閣下は納得したようにうなずかれ、奥様は「そうよねぇ」と俺の味方につかれ、マリーさんはちょっと口角を釣り上げつつ、無言で食事を続けていた。

 それで、ご夫妻の口添えの甲斐もあって、「お互い森の中で、お嬢様の視界に入らない範囲」で訓練するという形に落ち着いた。



 森の中は朝早くということもあって、少し冷たい空気が漂う。みなぎるやる気に、自然と身が引き締まる。


「いずれは、私から言い出そうと思ってはいたのですが……」


 そういうお嬢様の穏やかな笑顔には、嬉しいような困ったような、微妙な感情が目元に現れていた。距離をとって戦わせることについて、まだ思うところがあるんだろう。


「戦いを甘く考えているようであれば、全力で留めるところですが……そうでもなさそうですし、意欲の表れと思って応援します」

「無理言って申し訳ありません」


 思わず頭を下げると、彼女は「いいんですよ」と優しく言った。


「ただ、繰り返しになりますが、決して無理はなさらないように。特に怪我には注意を」

「そういえば……魔法で怪我の治療などは、できないんですか?」


 その言葉に、彼女の表情が一瞬固まり、目を閉じて何事か考え始めた。

 そして目を開けて、言葉を続けた。口調は少し冷たい。


「怪我を治す魔法はありません。ですから、ご自身の安全を第一に。無傷で帰るのが一番の戦功です」


 フッと彼女の顔の険が取れ、また柔らかな表情になり、俺は戦地へ送り出された。



 森の中へ進み、少し後ろを振り返った。彼女の姿は見えない。包囲されかけ危なくなったら、あるいは進み過ぎたら止めに入るという話だったけど、まだ問題はないようだ。


 ああして色々無理言ってまでやってみたかったことというのは、いくつかある。


 いつもは敵に向けて放っていた魔力の矢マナボルトの、器と複製術を地面に刻んでみる。すると、青緑の光が地面を円と線で刻み、6つの器が現れた。

 光球ライトボール作りで間違えて矢を宙に放ったことがあった。そのときは、内心舌打ちしつつも、ピラミッドだかなんかだかの墳墓にある、下から突き出る槍を想起していた。それを、実際やってみようというわけだ。

 もっとも、一発ずつ文を書いてたんじゃ、トラップとしては悠長すぎるかもしれない。それはそれで使い出がある気もするけど、一斉発射のために今試すべきことが一つある。


 空の器6つに囲まれる形で、コピー元の、文を埋めるスペースが埋まった器があった。今までは、コピー先を使い終われば、用済みとして消していた。文を埋めるスペースは、すでに複製術のための線が走っている。

 でも、円と線が交差していいなら、上から文だって書いていいんじゃないか?

 問題は、文を書くのが今までは空きスペースだったことだ。すでに何か書かれているところに文を書くというのは、かなり意識的な努力が必要だ。生前にもやった記憶はあまりない。

 周囲を見回し、敵の気配がないことを確認し、今まで書いてこなかった7つ目の器……正確には最初の器に文を書く練習を開始した。


 最初はやはり、頭の中でイメージがぐちゃぐちゃになった。うまく書けず、真ん中の器だけが青緑に光る粒子になって霧散。残る6つの空の器を消して、次に取り掛かる流れが続いた。

 それでもなんとかコツを掴んで、最初の成功例にたどりついた。しかし……。

 最初考えていたのは、コピー元に書いた文はコピー先にも転写されるんじゃないかということだ。その期待に反し、コピー1つ目で文を書く反応が始まろうかというところで、ひと足お先にとコピー元が矢になって宙を走った。

 そうして失敗時同様、空の器が6つ残った。


 都合のいい展開ではなかった。しかし、納得の行く反応ではある。俺はメモを取り出し、書きつけた。


・コピー元にも、文は書ける。難しいだけ

・文の転写は、できなくもないはず。少なくとも反応の開始の兆候はあった

・書き上げと同時に魔法が発動するタイプだと、ここまでが限界


 ひとまず現段階で推測できることは、こんなところだった。

 そういえば、お嬢様が使っていた魔法の中には、発動しつつも魔法陣が出続けるように見えるものがあった。例のレーダーも、半球の地平面に複雑な模様と文がかすかに光っていた気がする。

 今はこれ以上探れないとしても、また今度何か理解を得られそうだということで、この場は満足しておくことにした。


 文の一斉コピーは無理だったけど、下から攻める案が死んだわけじゃない。

 たとえ、さほど役に立たないとしても、予め仕込んでおける攻撃方法だし、犬が下からの攻撃方法に弱ければ効果的だ。

 それに、マナを感知できるという犬がトラップを忌避するなら、それはそれで動きをコントロールできてアリって気がする。

 やらずに済ませるよりは、やってみて何がダメか考えてみるほうが建設的と考え、実際に試してみることにした。


 しかし、単発式のトラップは、何かと効率が悪かった。

 裏庭での練習では幾度となく地面に文を刻んだものの、やはり普通に狙って撃つほうが違和感なく使えたし、何より手っ取り早かった。

 感圧式というか、相手が踏んだときに矢が出るといいんだけど、今の自分じゃ無理だろう。そのための知識がない。


 しかし、手動式トラップは、本当に効率が悪い。

 少しまごまごしているうちに、犬がトラップを踏み越えてきて、それでも冷静に腕を構えて射殺せたときは、犬じゃなくてトラップと格闘している気分になった。


 本当に、使えないトラップだった。

 お嬢様が昼食前に呼びに来るとのことだったけど、まだまだ時間はある。せめて1回でもトラップをうまく決めて、それで諦めたい。

……そう思っても、結局は腕で構えて射抜いてばかりだった。


 トラップは、次第に何かの縛りプレーになりつつあった。

 犬がトラップを避けようとするものだから、腕で構える分には、狙いを定めやすくなって好都合だ。

 それでもトラップにハメようという意識、これで仕留めたいという願望が、犬に時間的猶予を与えた。トラップにこだわらなければさっさと倒せていたものを、そうしないでいたがために相手に有利を与え、失敗した腹立ちを抑えて淡々と矢で倒す。

 そうやって魔力の矢の実戦能力が少しずつ磨かれていくのが、逆に恨めしかった。


 トラップは、最終的にはひな鳥になった。

 まずは右腕を上げて構えて一射。犬を地に伏せたら、下に敷くようにして器を書いて、コピーの6つ子が揃ったら、動かない犬を下から撃つ。

 もはや、トラップにこだわる理由も、複製術をやる理由もなかった。ここまで来ると意地で動いていた。

 そうやって、トラップに勝ち星を一つ与えてやると、最初に感じたのは虚しさだった。昼食まではまだ時間があるようで、お嬢様が呼びに来る気配はない。

 昼までは、供養のつもりでトラップに付き合うことにした。少なくとも、笑い話にはなるだろう。


 森の中を歩いて、標的の犬を探し、撃って倒す。

 器と複製術を描いてトラップの準備に取り掛かると、倒れた犬相手に追い打ちの罠をかける自分をとても冷淡に感じて、ふと犬を見た。

 どう考えてもペットショップに置けそうにはない、冒涜的とすら言える見た目だった。そんな犬が足を震わせあえいでいる。別に慈悲をかけてやる筋合いはない。それでも……罠にかけ続けるのには少し気が引けた。

 犬と距離をとって、木の根元に座って体を預けた。まだ犬は苦しそうに震えている。奴が動き始めたら、トラップを起動させよう、それでも切り抜けてきたら――まぁ、たぶん切り抜けると思うけど――正面から普通に倒してやろう、そう決めた。


 犬が立ち上がるまで待った。

 木々が頭上でざわめき、清涼な空気があたりを満たし、こまぎれの木漏れ日に照らされた地面は、モザイクのタイルみたいだ。

 こんな森の中を、愛犬と散歩できたら幸せなんだろうなと思った。そして、友人とキャンプに行く予定を立てていたのを思い出した――行く前に死んじゃったけど。まぁ奴らは自粛なんてしないだろう。ぜひとも楽しんでほしい。


 犬が立ち上がるまで待った。

 お嬢様は呼びに来ない。昼までまだ時間があるだろうけど、さすがに犬の様子が気になってくる。俺は腰を上げて、様子を見に行った。

 いきなり起き上がって、襲いかかるという様子はない。あいも変わらず、四肢を小刻みに震わせ、あえぐように苦しんでいる。

 その体の下で、俺が描いた――いや、複製術で描かせた魔法の器が、苦しむ犬と対象的に青緑に輝いている。その時、複製術を覚えたあの日、重税とか取り立てとか言っていたの思い出した。


 何か、心の中でひらめくものがあって、あるいは手遅れな慈悲かもしれなかったけど……俺は描いたものを消すようイメージして、罠を解いてやった。

 しばらくして、犬が立ち上がり、俺は矢をぶっ放した。犬は硬貨になった。

 ここまでの事象を思い返して、つなぎ合わせる。一度倒した犬の下に器を敷くと、犬は動かないままになった。それを解いてやると、犬は立ち上がった。

 つまり……今のは、実はトラップになっていたんじゃないか。”敵を弱ったままにする罠”なんじゃないか。

 偶然の可能性は捨てきれない。でも、確認してみる価値はある。


 慈悲心なんてどこへ行ったのやら、次の標的を探し求め、見つけた犬に一発撃って地に伏せた。

 ひるみ、すぐには起き上がれそうにない犬を見て、その下に普通の器を描き上げる。しかし、先程の罠のように枷になっている感じはない。こちら側に向けた3つの目でにらみつけるようにしつつ、脚を操って着実に起き上がろうとしている。

 普通に描いたんじゃ、使えなさそうだ。

 さっさと地面の器を解いて、起き上がりかけの犬を撃った。殺さないように足を撃つと、またも怯んでその場に倒れた。硬貨になるような兆候はない。

 もはや慈悲心も嗜虐心もない。さっき見た、犬が起き上がってこれない、あの現象への興味と渇望が俺を突き動かす。

 さっきの情景を思い出す。別にやる必要のない複製術のコピー先に犬をハメた。

 お嬢様は前に、犬はマナを感知すると言っていた。

 複製術を覚えたその日、二人で重税の取り立てみたいとか言って笑いあった。

 頭の中で、情報が絡み合う。


 目の前の犬の下に、複製術付きの器を仕込んだ。コピー先、空の器が犬の下で輝く。犬はほとんど動かない。

 犬が動かないものと決め込んで、適当な長さの枝を拾いに行った。すると、やはりそのままだった。戻って犬の腹をつつく。何回やっても小刻みに震えて、ただ苦しむだけだった。

 念の為と考え、一度7つの器のすべてを解いてから、改めて犬の下に罠を仕込み直した。

 今度も複製術を使ったけど、犬の下に敷いたのはコピー元だ――つまり、最初に描き上げる器であって、術者のマナで書く方だ。

 描き上げ、腹や足を枝で突き回す。今考えている仮説を思えば、立ち上がってくれたほうが好都合だ。身勝手な自覚はあったけど、とにかく犬が立ち上がるようにと突き回すと、念願叶って弱々しくはあったものの、犬が立ち上がり始めた。

 俺は器を解き、普通に狙って魔力の矢を撃ち、犬は果てた。残った硬貨が地面できらめく。

 達成感と、罪悪感がやってきた。さすがに神妙な気持ちになって、その場で軽く地面を掘り起こし、戦利品を埋めてから手を合わせた。


 頭の中で、現状での考えをまとめて、メモに書きなぐる。もしかしたら、個体差っていうのはあり得るかもしれない。怯んだやつが起き上がる、そのタイミングが偶然良かっただけかもしれない。

 だったら、もう少し実験を繰り返してやればいい。それで、再現性を得られればいい。


「リッツさーん」


 背後で遠くから呼ぶ声がする。まずは昼食だ。それで、ちょっと落ち着いてから、やるべきことをまとめよう。



 昼食後、少し必要な準備があると言って、お嬢様には先に森の前へ行ってもらった。

 マリーさんには、細く丈夫で長い紐が欲しいと伝えた。基本的に余裕のある態度を崩さない彼女も、今回の要望に少し怪訝な顔になる。

 でも、すぐに柔和な笑顔になって、物置へ案内してくれた。

 物置にはリヤカーからスコップにバケツなど、庭仕事に使っていそうな道具がしまってある。


「念の為、紐の用途をお伺いしてもよろしいでしょうか?」

「ちょっと……罠というか、犬を捕らえるのにでも使おうかと」

「なるほど……」


 マリーさんは、筒に巻くように巻き付けられた麻紐と、小刀を棚から取り出してくれた。が、俺に渡そうとはせず、真剣な表情で話しかけてくる。


「すでにご存知かと思いますが、あの森には当家以外に冒険者の方も出入りしています。不特定多数の方があの森に立ち入る都合上、罠の利用は厳禁とされています。一度許せば、所在不明の罠が存在するようになるか、あるいは場所を周知しきれず、他者に危険が及ぶ可能性がありますので」


 理由は、大変納得できるものだ。止めといた等がいいかなと引き下がりかけたところ、彼女は少し表情を和らげる。


「しかし、リッツ様には最大限協力するようにと命を受けております。リッツ様のお考えや動向に対しては、当家一同、大なり小なり興味を抱いているという事実もあります」


 彼女は俺に紐と小刀を手渡し、話を続けた。


「ですので、ご自由にお使いください。リッツ様が仕掛けられた罠に対し何者かが損害を負った場合、当家がその責を負う、というように認識して、ご配慮いただければ十分です」

「それは、ありがたいんですけど……勝手に決めちゃって大丈夫ですか?」

「それは大丈夫です。リッツ様には極力好きにさせよというのが、一番の命令ですので」



 森の入口でお嬢様に所持品を見咎められるも、マリーさんに話をつけたことを伝えると、それなら、ということで許しを得られた。

 森に入ってからお嬢様が配置につき、軽く挨拶を交わしたところで、さらに中へ進む。


 昼頃に考えた、”敵を弱らせ続ける罠”について考える上で、倒しかけの敵が立ち上がったタイミングが、誤解を招くものだった可能性は無視できない。

 一番いいのは、そこそこ元気な奴があの罠を踏んだ瞬間に元気を失う、そういう状況を作り出すことだった。

 そうなると、もはや”敵を弱らせる罠”だけど、こっちのわかりやすい罠が成功したほうがずっといい。”弱らせ続ける罠”は本当に機能しているのかどうか、検証が難しすぎる気がした。


 問題は状況作りだ。麻紐を筒から解いて伸ばし、コンビニの車止めに犬を止める紐のイメージで、それらしいものを作る。安全を考えて、イメージ元よりも紐はずっと長くリーチを確保しておこう。

 何度か繰り返し使えるように結び目を作り、木にくくりつけ、目一杯引いてみる。あの犬たちがどれだけ力強いか知らないけど、十分な強度にはなったと感じた。

 木にくくりつけた紐を解いて、獲物を探す。ふと、打ちどころの違いで、敵の立ち直りに差が出るのか気になった。いっぺん倒れてもらわないと作業のしようがないので、結局は一発目でちゃんと倒さないといけないか。


 少し森の中を歩いて、ようやく犬に出くわした。さっそく一発お見舞いすると、犬は避けきれず倒れた。すかさず、複製術で器を描く。これでうまくいかなきゃご破産だけど、離れて様子を見ても、犬が起き上がる様子はない。

 心臓の鼓動が高鳴る。犬に近づいても、特に動きは見られない。威嚇のつもりで、右手で魔力の矢をかまえつつ、倒れた犬の背のあたりに腰を落とす。それでもやはり、犬は小刻みに震えるばかりだ。

 急いで麻紐を取り出し、適当な長さで切る。それを犬の口にくくりつけ、噛みつけないようにする。これで呼吸困難で死んだら困るとは思ったけど、下手して噛み殺される方がよっぽど困る。

 運良く、犬に目立った変化はない。そこで、先に用意しておいた長い紐を、犬と木にくくりつけた。これで、犬の行動を制限できるはずだ。

 ここまで準備を整え、各所の結びが十分か改めて確認すると、念の為に犬がギリギリたどり着けない距離の木を見繕って登った。


 登った位置はさほど高くはないものの、襲いかかられない程度には高い。それに犬は口を塞がれ、木に紐で繋がれている。これ以上の状況は望むべくもない。

 俺は犬の下の器を解いてやった。すると、犬の動きは次第に細かなものからはっきりしたものになり、やがて立ち上がった。

 俺のことはしっかり認識し続けてきたようだ。犬は塞がれた口から唸る声を漏らしつつ、こちらに向かって突進してきた。すると、紐がピンと伸びきって、犬の前足が勢い余って少し浮いた。

 元気すぎて弱らせられるか、少し心配になった。紐の強度を過信するわけにもいかない。やっぱり木に登ったのは正解だったようだ。

 俺がいる木と、犬をくくりつけた木の直線上に、ちょうどうまいこと空の器が配されるよう、複製術で敷いていく。どうせならば逃げ場も塞いでやろうということで、なんとか配置を調整し、犬が通り得る道に青緑のタイルを敷きつめるよう展開できた。


 犬はしばらくすると、突進の勢いが弱まってきたように思われた。いいぞ、と思いつつ様子を見守る。

 俺への最短距離を諦めたのか、犬は弧を描くように少し弱々しく右往左往した。繋がれた紐で描く円周上にも、ある程度器を敷いておいたので、結局は逃げ切れない。

 そして、犬は前足を投げ出すようにして地に伏せた。俺は力強く拳を握った。


 個体差の検証はもういいんじゃないかと思ったけど、とりあえず状況を繰り返せるかは試したかった。

 そこで、犬が伏せた辺りの器を解いてやる。少し待つと、ふらふらと立ち上がりかけ、そこでまた複製術で器を敷くと、目論見通り地に伏せた。


 もう、間違いないんじゃないか。俺は満足してメモを取り出し、成果を記入した。


・犬はマナ(か何か)をエネルギーにしている

・複製で作った器は、マナ(か何か)を地面か何かから奪う

・複製で作った器の上では、犬(魔獣全般?)は活力を失う。死ぬほどではない


 細かいことを考えると、複製術がマナのついでに何かを消費していて、それが犬に悪影響を与えたという可能性もあった。それでも、現状のこの解釈が妥当だろう。


「リッツさーん!」


 メモを見返していると、背後で大声がした。その瞬間、お嬢様に心配をかけた可能性に思い至り、急に肝が冷えた。


「大丈夫です!」

「今行きますから!」


 それからほぼ時を待たずして、お嬢様が姿を現した。

 森の床一面に青緑の器が敷き詰められ、紐で繋がれた犬がそこに伏し、俺が木の上にいるという状況に、彼女は唖然としている。

 俺は急いで木から降りた。


「あの……ご心配をおかけいたしまして、本当に申し訳ございません!」


 一人で動くのを認めてもらう分、あまり心配をかけないようにするつもりだったのが、こうして駆けつけさせる事態になってしまった。さっきまで少し浮かれていたのを強く反省した。

 そうやって頭を下げるけど、彼女は特に反応しない。それから10秒ほど間をおいて、やっと彼女が話し始めたものの、まだ状況に困惑しているようだ。


「えっと、頭を上げてください……あの、あなたの点と、敵の点が、いつまでも同じ位置で動かないものですから。もしかしたら木の上かも、とは思っていましたけど……」


 なるほど、彼女側の視点は理解できた。レーダーでは互いに睨み合ったまま、どちらも健在だったので、最悪の事態はないだろうけど、それでも心配になったということのようだ。


「あの犬は……」

「まだ生きてます」


 彼女は俺の方と犬の方を交互に見比べ、何度もまばたきをし、なおも信じられないという表情のまま固まった。

 今度は胸に手を当て、深呼吸している。こんな彼女は初めてだ。


「よろしければ、この状況について、説明していただけませんか?」

「はい」


 それから俺は、犬を起こさせては伏せさせる実演を交えつつ、今日得られた知見について話した。

 その間、彼女は少し呆然とした様子だった。聞いているのか聞いていないのか、こちらからでは判然としない。


「お嬢様?」


 問いかけても反応がない。ただ、呆然としているのではなく、頭の中では必死に考えを巡らせているようにも感じる。


「……先生?」

「はい!」


 急に反応を返したものだから、少し驚いて飛び退いた。

 彼女は、少し興奮しているようだった。


「申し訳ありませんが、木の上でまた待機していただけますか? 犬と器はそのままで!」

「そ、それはいいんですけど……」

「少し待っていてください、お父様を呼んできます!」


 そう言うや否や、俺の返事を待たずして彼女は森の中を疾走し、あっという間に影も形も見えなくなった。

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