ラストノート11

 睨む子の視線から目を逸さず敵意も反抗心も受け止める母という構図は一般家庭においてしばしば見られるありふれた光景であったが漏水家では初の事態であった。


 場所は居間へと移った。両者退かぬ気配。一触即発の緊張感が家庭に走る。


「何やってたの。椿さんと……!」


 相変わらず香織は天花との密会(というわけでもないのだが本人はそう思っている)について追及し目を吊り上げる。今にも掴みかかりそうな鬼気迫る姿は今日まで堪えてきた怒りが顕現したかのようだ。


「お話ししてただけ。天花君、香織ちゃんを心配して来てくれたんだけれど……


「なら私に言ってくれても……」


 香織は言葉を呑み込み視線を落とす。仮に天花が来ていると伝えられたとして自分がどうしていたか想像ができない。


 会うのか。この格好で、この気持ちで、私の想い人と。


 拳を握ると爪に長く伸びた爪が刺さり手の平、親指の付け根辺りの皮膚の上部を削り取って肉が見えたが、痛みよりも己が浅はかさが先に立つ。恥ずかしいと、会わす顔などなかったではないかと己を責めるのである。

 しかしそれを口にしてしまっては母の行為を是としてしまう事になる。それは、それだけは絶対にできない。自分を身勝手に産み、にも関わらず満足に子育てすらしてこなかった母親に対して一つでも正しかったと香織は思いたくない。野蛮で乱暴で独善的な父親も許せなかったが、今更ながらに親の顔をして心配した風な態度を見せる母親もまた、香織の中では悪であったのだ。


 絶対に許せない。許せるわけがない。


 垂れていた頭を上げて再度母を睨む。一歩も退かぬ心算。憎悪に任せて暴力すら正当化しそうな勢い。


 しかし自分はいったいどうしたいのだろうか。生涯に渡り被害者面を晒して慰めるばかりを望んでいるのか。


 そんな理知が香織の頭を過ぎったが、すぐさまかき消してしまった。ともかく母が憎い。ずっと分かってくれなかった、話もろくに聞いてくれなかった母親が憎くて憎くて仕方がない。全て母が悪い。自分を理解してくれていたらこんな事にはならなかった。どうして今までずっと放っておいたのか。どうして気持ちを知ろうとしなかったのか。鬱積した想いが母に向けられる。全てが憎く、恨めしい。


「ねぇ香織ちゃん。学校、行ったらどうかしら。天花君も待ってるって……」


「気安く呼ばないで!」


 苛立ちを隠しもせず叫ぶ。稲妻のような咆哮が居間をつんざきこだますると、母は青ざめ言葉を失った。


「私の事も椿さんの事も口にしないで!」


 そんな言葉がするりと出て香織は驚いた。なんとも不良然とした典型的反抗期の台詞。おまけに無関係な天花の名まで出す始末である。言っている事が滅茶苦茶。もはや何に対して怒っているのかも分かっていないが、ともかく怒りをぶつけたいという欲求のみが間欠泉のように吹き出し止まらない。しかしそれでいいと香織は思った。この際、勢いに任せて何もかも破壊してしまおうという自棄に至ったのである。


「もうたくさん! 我慢ばかりしてきたのが馬鹿みたい! お母さんもお父さんもうんざり! いっそ死んでしまえばいいのよ二人とも! 揃いも揃って好き勝手に生きて私を無視して! それでよく親の真似ができたものよね! いつだって好きな仕事をして楽しく笑って! 最初から私なんかいらなかったじゃない! どうして!? なんで産んだの!? 二人で仲良く仕事してればよかったじゃない! それを無責任に子供なんて作っていざできたら知らん顔して放っておくなんて最低! 親から愛されずにあれは駄目これは駄目なんて言われ続けて何も楽しくなくて私はなんのために生きてるの!? 私の人生なんなの!? どうして私だけが何も楽しくないの!? 人と違うの!? どうして私だけが! 私だけが! 私だけが……!」


 気付けば香織は泣いていた。長年貯め続けた感情が取り留めもなく紡がれて言霊となると、心を震わせ、雫となったのだ。そしてそれは何も香織だけではない。向き合っている母もまた胸を突かれ、大いに涙し嗚咽していた。


「ごめんなさい……香織ちゃん……ごめんなさい……」


 母と子。

 相対する二人がボロボロと崩れていく。しかしそれは悲涙ばかりではなく、共に分かち合うためのアガペでもあった。


「ごめんなさい香織ちゃん。貴女の言う通り、私は、ずっと母親になれずに、貴女と向き合わずに逃げてきた。ずっとずっと、母親になれず、なろうともせず、貴女の側に、心の支えになれなかったの。ごめんなさい……」


 母は涙ながらに謝罪の、懺悔の言葉を述べていく。重く、苦しく、抉れそうな言葉を。それは正真正銘、心底から吐き出される悔恨と贖罪の念であり、口から出る全てが真実であると誰しもが直感できるものであった。


「今更謝ったって……今更……」


 だが、香織にとってそんなものはどうでもよかった。そんなものではどうしようもなかった。彼女の心を埋めるにはまだ足りない。まるで満ちない。長く孤独に生きた彼女に必要なもの。それは無償の愛だけではなく……


「……あ」


 不意の物音と男の声がした。香織と母は、ぴくりと硬らせて出所を探る。


「誰ですか」


 恐る恐る母が訪ねる。静まる部屋には鼻を啜る音しか聞こえない。


「誰ですか」


 もう一度、今度は語気を強く呼ぶ。もしこれで返事がなかったら母は警察を呼んでいたかもしれないが、するりと音の主が現れたために大事には至らなかった。しかし、それとは別にしても、その人物の登場は大きな問題となるのだった。


「……椿さん」


 香織がそう呟くと、天花は「すみません」とその身を二人に晒して頭を下げた。


 そう。現れたのは、椿天花。香織の想い人であった。

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