ラストノート12
思いがけない出会いに香織は一瞬胸高鳴ったがすぐさま現状を思い出して我に帰りズボラな顔とボロをまとった身体を隠そうとした。しかし居間にはタオルも遮蔽物もなく、小さな掌で必死に隠蔽しようとしてワタワタと珍妙な舞を披露するだけである。完全に混乱している。
「すみません。勝手に上がり込んでしまって……」
「それはいいのだけれど、いったいどうしたの?」
母が尋ねるのは当然浮かぶであろう疑問。子供とはいえ人様の宅へ勝手に進入するなど不躾以前の問題。アメリカなら即射殺されても致し方ない暴挙である。
「その、実は、やはり香織さんが気になりまして、何とか一緒に登校できないものかと思い途中引き返してこちらにまたお伺いしようとしたのですけれど、お宅の前に着きますと大きな声がして、これは何事かと思い、失礼ながら上がらせていただいたわけでございます。そうしましたら……」
目配せをして語りを止める天花。これ以上は言うまでもないだろうというサインであり、母もそれを理解して小さく頷く。
「それで、どうだい。学校はまだ行きたくないかい?」
次は香織に向かって口を開く。しかし、元はといえばそれが目的であったとはいえあまりに急すぎる差し込み。当の香織はまだあたふたとしている間にそんな事を言われたものだから泣いていいのか怒っていいのか笑っていいのか落ち込んでいいのか分からなくなってしまってしばしの間で顔色が入れ替わり立ち替わりに変わっていきまったく騒々しい表情となってしまった。
「どうだろうか」
「どうだろうかと、言われましても」
間髪を入れない天花の問い掛けに香織は辛うじて一言発する事ができた。難色。突飛に学校へ来いなどと誘われれば返答も濁るだろう。
「なるほど。確かに急だった。すまない。しかし」
香織を見て、天花は言った。
「俺は君を待っている。またいつものように澄ました顔をして席に座っている君を見たい。あの美しく、豊潤な香りをまた感じたい。俺は、君といたい」
大胆な告白であった。天花は同級生の宅。しかも母親の前で「君といたい」などと口にしたのだ。思春期の少年なあるまじき胆力。図太さ。しかし、だからこその爽やかさがある。何者にも縛られない、梅雨間に吹く風の如く過ぎていく邪心なき本音が香織に届いた。
好きです。
香織は全てを忘れつい口から出そうになった。しかしそれはできない。天花が本音であるからこそ軽はずみに想いを伝えるわけにはいかなかったし、何より。
「でも、私、おしっこを……」
そう。香織は教室で粗相をしでかした。自身から漂う芳香が尿のそれである事が露呈してしまった。学校など行けるはずがない。奇異と忌避と嫌悪の目で見られ恥を晒すばかりであり、とても真っ当に生きていける気などしなかったのだ。
だが、そんな不安を他所に天花は「大丈夫だ」と笑い、ポケットから小瓶を一つ取り出した。
「それは……」
それは香織が渡した尿を封じた小瓶であったが、中にはカプセルが無数に入っているのだった。そして香織は気が付いた。微かに漂う天花の香りを。その香りが、自身の尿のものであると。
「君の尿をカプセルに入れた。驚いた事に、服用してみると体臭が変わる。みんなには舶来品の飲む香水と方便を使った。実際に効果があるのだから、皆、すっかり信じたよ」
飲尿。
天花が取った行為はそれである。
先に天花が口ごもったのはそういう理由であったのだ。それは母親には言えまい。なんたるインモラル。なんたる奇人。彼女を救うためとはいえ、人の道に背する行いである。尋常の沙汰ではない。
「無論、俺の行いは異常だ。蔑まれる覚悟はできている。殊更お母様にも申し訳ないと思います。愛娘の尿を摂取して取り繕ったなど聞きたくもない悍しい事。心より、謝罪いたします」
母親の方へ向き直し天花は頭を下げた。許されなくともいい。ただ謝りたいという気概を感じる清い詫びである。
「……」
母は香織を見る。「どうする」と、言外にて問うているのだ。しかし確かめるまでもなく、香織の心は既に固まっており、誰が見ても形は明らかとなっていた。
「好き!」
今度は間違いなく口から発せられた。香織は生まれて初めて愛を言語化し、人に伝えた。
「ずっと好きだった! 私の事を分かってくれる人だって思ってた! それが間違いじゃなかった! 好き! 好きよ椿さん! 私、貴方の事が好きなの!」
勢い余って香織はボロボロのまま天花に抱きつき、天花の方もそれを受け止めた。母親は何やら複雑な表情を浮かべていたが、やがて諦めたようにクスリと笑って何処かへ行ってしまった。居間には二人。抱き合う思春期の少年少女。それはどこにでもあるありふれた、特別な一番面であった。
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