ラストノート10
しかし天花は如何なる手を用いて香織の尿問題を収めたのか。その点、母も気になるところであろうから、疑問を伺うのは自然な流れであった。
「でも、どうやって」
やや不安な気配を匂わせそう問う。望むは懸念、疑念の払拭であろうが、天花の答はいまひとつ据わりが悪いものであった。
「それは言えません」
出されたのは秘匿。母はますます訝しむ。
もしかしたらでまかせかもしれない。
そんな事を思っているに違いないし、そうなっても仕方がない。
しかし。
とはいえ。
つまらぬ虚偽を述べたところでどのような得があるのか説明できないだろうし、そも天花がそんな不誠実を働くとも考えられない。となれば、何か故あって言葉にできないと仮定するのが自然ではないか。母の思考はそう帰結するはずである。
「分かりました。では、聞かないでおきます」
故に追求をせずに話を切り上げる。娘のためにただ一人やってきた人間に対し、信をもって報いる心意気を見せたのだ。
だが肝心な香織の心知れずではやはり心もとないようで不安の吐露は防げなかった。
「でもあの子、学校行くかしら」
「さぁ、分かりませんが、話してみるしかないと思います。香織さん、学校でもあまり喋らない印象があって、多分、本音を言える相手がいないんじゃないかなと……」
言い終える前に天花ははたとして、「すみません」と頭を下げた。自分の言葉が香織の母に対して、あまりに明け透け過ぎたと気付いたのだろう。
「いえ、確かに、私は香織ときちんと話した事なんてなかったから……」
贖罪のような告白を、母は続ける。
「だから気にしないで。あの子がなにを考えているかなんて知らないし、想像もつかない。学校だって、楽しくやっているかと思っていたけれどそうでもないみたいで、改めて、自分が親として失格だなって分かったから」
「そんな事は……」
天花は再び口を噤み目を伏せた。この母の独白に対し安易な慰めは返って礼を失すると解したのだろう。俯いた後、ジリと上目で母を見据えて一言、「話してあげてください」と伝えるに留まる。
「そのつもり」
光射す部屋で母はそう言った。以降、会話は天花が帰るまで交わされなかったがそこに気まずさなどは感じれず、暖かい沈黙が流れていた。
「それじゃあ、お邪魔しました。
「またいらっしゃい」
母は朗らかな顔をして天花を見送る。話をして、幾らか気分が和らいだのだろう。いつまで名残惜しそうに去っていく少年の後ろ姿に手を振る姿はやや危う気で不審に見えなくもないが、恐らく本人には邪がないだろうか寛容な心で見守りたいし、誰も責めるような真似はしないだろう。一人を除いては。
「何してたの!」
背後から聞こえた怒声に思わず肩を浮かせた母は何事であろうかと振り返る。目に定まるは、婆娑羅髪に黒く吊り上がった目元で睨む香織の異体。その妖めいた形相に加え
「椿さんとなにをしていたの……!」
獅子が歯噛みするが如く凄む香織の恐ろしさといったらない。実の娘であるというのに、母は怯え竦んでしまった。まるで窮鼠と白虎である。
しかしいったい彼女はなぜ玄関に立ち母を睨むにいたったか。事の起こりは少し前、母と天花が卓を囲っていた時である。部屋で布団にくるまっていた香織は、突如ワッと響いてきた笑い声に驚いた。
なにかしら。変に笑っちゃって。私がこんな風になっているっていうのに!
彼女の心に理不尽な怒りが込み上がるのも無理からね事だろう。傷心で塞ぎ込み拗らせた人間が近くの愉快を許せるわけもなく、それも責の一端を担う人間のものであれば尚である。香織は苛立ちに任せて髪を掻き毟り、息を荒くして憎々しく唇を噛んだ。
しかし、湧き上がる同時に疑問と好奇心。
何がそんなに面白いのかしら。
残る理性で頭を巡らせる。
母と父は喧嘩したばかりだし、そもそも、平時であってもあんな風に楽し気な会話などする仲ではなかった。だいたい父が家を出ている事を香織は知っていた。荒々しく玄関を開ける音をきいていたのだ。
ではいったい、居間に誰がいるのか。
よもや父の不在をいい事に早速母が不貞の邪に走っているとでもいうのか。まさか。母に限ってそんな、いやしかし……
と、いった具合にあれこれと巡らせるも府に落ちる結論は出ず、ついには部屋から一歩踏み出し出歯亀に挑んだ次第。奇しくも母が例えた天岩戸よろしくな事態となったわけであるが、古事記とは異なり円満解決とはいかなかった。
椿さん。
部屋を出て音を立てずに廊下を渡り居間を忍び見た香織は、母と話す想い人の姿を目にする。
なんで、どうして……
ここで話の一端でも聞ければ早かったのだがどうにも間悪く二人は伝心の沈黙の最中。以心に至れぬは彼女だけであるわけだから、到底まとも保てぬ心身となるは必定であろう。怒り心頭もやむない場面。これが顛末。そうして頃合いを見計らい母を問い詰めたというわけである。
「話して! 二人で何をしていたの!」
獣の瞳で実の母を刺す。納得のいく答えを用意しろと、そういっているのだ。
こうなってくるとまるで不貞を抑えた女房と間女が対峙する様相。いわゆる修羅場の張り詰めた空気。香織もさすがに母が娘と同じ年齢の男子に手を出すとは思ってはおらずそこまで不信を拗らせてはいなかったが、腹に留まらぬ負の感情が理性を抑え、不条理なる憎悪が母に向けられたのである。無常を知らぬ彼女が無限に生じる
「分かった。話しましょう」
そんな娘の悲憤に母は応える。生まれて初めて行われる母子の対話。止まっていた二人の時間はようやく一針進みはしたが、その結末は、まだ誰も知らない。
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