ラストノート7

 母は物陰からひっそりと香織を見ていた。

 何度か声をかけようとする素振りは見せたが動けず、娘の孤独を助けられずにいる。なんと言えばいいのか。香織は自分の声に耳を傾けてくれるのか。そんな不安が、彼女を怯えせたのだと思う。

 父は宅を出て行きしばらく経つ。どこぞ、馴染みの飲み屋にでも行き愚痴を零しているのだろう。寝床を決めているかは定かでないが、ご丁寧に着替えまで持っていったあたり帰宅はしない腹づもりであるのは明確で、ややもすると女の元へでも転がり込んでいる甲斐性を見せているという事も考えられるが、母は知らないだろうし、興味もなさそうだった。


 香織から消えるの見送ると母は少し呼吸を整えて縁側へと歩き、先まで香織がいた場所に座り、香織と同じ景色を観た。

 暗黒の中一人きりで、重々しく鎮座する彼女の姿は大変に孤独であり、誰とも言葉を交わせないような苦しさが伝わってくる。

 人と人が真の意味で分かり合うことなど血の繋がった親子でさえ到底無理ではあるが、胸中さえ伝えられぬ寂寥せきりょうたるや筆舌に尽くし難く、刹那の時が久遠に等しく、是空となる。

 人は他人がいて自己を確立できるものである。誰かがいてこそ自我が成り立ち、自我があるからこそ他者の存在を観察できるのだ。それ故に香織は自身の個性の一片を認識した天花に心惹かれた。唯一自らの変調を嗅ぎ取った存在に恋心を抱いた。朱の中で赤となり群衆の中で目立たず擬態していた彼女が、集団の中の一ではなくただ一つの人間として見られたという初めてのでき事が、女としての性を目覚めさせたのである。


 だが、それも今となっては彼女を苦しめる最大の要因となってしまった。恋心を持ったからこそ、一つの人間として見られていたこそ、失禁という失態と尿を振りかけていたという逸脱行為が深く、大きく心に刺さってしまったのである。誰かに余す事なく見られていると意識すると小事も大事に感じられてしまうもので、殊にそうした経験の浅い香織にとってはより顕著に作用していた。世界の終わりに、等しかった。


 対して母は常に誰かにとっての一人であり香織が抱えるような悩みとは無縁であった。

 幼少の頃から一廉の才覚を数多に発揮していた彼女は余す事なく何者かであり難も少なく生きてきた。ピアノやバイオリンは一級の手前で、花道、茶道においては皆伝。嗜んでいた乗馬では誰よりも自在に駒を繰り、勉学については言うに及ばず。殊更理数に明るかったためその道へ進み、現在務める国営の研究所に籍を置く。その間、彼女に山はあっても谷はなく、天に祝福されたといっても過言ではないくらいに満ち足りた半生は上々。二物、三物を与えられた人間にはなぜだか良質な人間性を持つ友人が数え切れないほどできるもので、彼女は多くの人達の特別であり、また、多くの特別な人達を有していた。母にとって誰かは、誰かにとって母は理解者であり、友人であったのだ。

 そんな彼女が香織の苦しみを今まで分からなかったのは無理もない事だし、分かっていなかったからこそ罪悪感を抱きつつも放任していたに違いなかった。間違っていたと気づいた時は既に、香織が道を踏み外す手前である。


 母は香織にも自分と同じように、良き友に囲まれて良き人生を歩いていると思っていた。

 普遍的な教育をしてきたから、誰とでも打ち解けられると誤解していた。

 香織には、そんな友達などいなかった。当たり障りない、打算と建前しかない関係性の人間しか、いなかった。


 母は、それを知らなかった。


 引きこもった香織を心配してやってくる人間がおらず、陳腐な寄せ書きなどを寄越してきた程度の級友達に内心失望したかもしれない。香織には誰もおらず、ずっと一人で生きてきた事を悟り、自責の念に駆られたかも知れない。



 母は一人、香織と同じ景色を見る。暗く、音のない世界を。





 一方で香織は縁側に人の気配を感じており、それが母であると察しはついていた。

 だがそれが何だというのだと言わんばかりに冷徹な面持ちで横たわる。彼女はもはやお行儀のいい優等生ではなく、擦れて捻くれた不良少女の一歩を踏み出してしまっていた。


 冗談じゃない。


 物憂げな障子を見つめていると吐き捨てたような感想が出た。


 何故母はそこにいるのか。何故叱ったり説得したり励ましてくれないのか。自分は母にとってその程度の存在なのか。


 香織はそんな事を考えていた。


 馬鹿じゃないの。死んだ方がいいじゃない、そんなの。


 自分が母に、いや、誰かにそばに居てほしいという欲望に気付き粗雑な言葉でかき消そうとする。荒んだ感情が弱さを認めようとせず、あらゆるものを排他し他責的となる様は哀れである。

 この浅慮は彼女ばかりでなく思春期の少年少女において往々に見られる症状であり、普通ならば放っておいても仔細はないが、香織の今の生活が続けばそれは一過性のものでなく彼女の人格として定着し、不幸ばかりを口にする道化と成り果ててしまうであろう。責任転嫁と自己憐憫のみによって形成される自我はほとほと惨めで救いがなく無益である。だが、そうしなければ生きられない人間は数多におり、また、そうなってしまう人間も、思いの外、多い。


「馬鹿ね。そんなだから駄目なのよ」



 香織が目を閉じると、彼女の耳には聞こえるはずのない声が聞こえた。


「笑える。哀れだわ」


 それは罵倒から嘲へと変わり、最後には……



「でも、悪いのは親じゃない。貴女わたしを認めてくれなかったんですもの。しょうがないわ」


 親を責める声へと相成った。

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