ラストノート6

 母と父の言い争う声が聞こえ出したのはそれからすぐだった。父が罵り、母が反するという事が延々と繰り返される不毛な時間が長く続き、終いには互いの欠点を論え激昂するという出口の見えない無益な傷つけ合いへと変貌していった。こうなるともはや原因などは関係なく二人は憎悪し相容れぬ存在となる。関係が良好となるにはそれなりの時間か切っ掛けが必要となるだろう。いずれも当人達にその気があればの話だが。


 夫婦関係というのは他人同士の契りであるから当然綻び易い関係である。むしろ、綻んだまま結びついてしまうという事も十分考えられる程に、時に心許ない。一度亀裂が入れば薄氷を踏むが如き脆弱さをまざまざと見せつける、いとも儚い約定である。故に、香織の母も父も、このまま袂を分かつ可能性は多分にあり、香織もまた、それを理解している。


 男女の別れはいい。好いた相手を嫌悪するのも、諸般の事情により距離を置くのも自由である。が、しかし、そこに子が入ると実に厄介で、親権の行方に教育や思想への影響。経済面、世間体などの問題も常に付き纏う事だろう。その他にもあらゆる物事において逆風が吹くは必定であり、例外はあるにしろ、一般的には不幸、あるいは受難に苛まれるの人生となる。それを鑑みるに、両親が離別すれば香織は若い身空で多難となる事必至で、大変な難儀を覚悟せねばならなくなるだろう。しかし。


 いいじゃない。それで。


 香織は埃舞う部屋で一人頷ずき、ごちる。


「いいじゃないの。どうせもう、どうにもならないんだから」


 香織の精神は明らかに狂れ、自棄となっていた。不幸で救われず、このまま落ちていってしまえばいいと思っていた。


 この堕落志向はナルシシズムの一つであり、薄幸である自分を演じ「不憫だ」と自尊心を満たすという屈折した自己肯定である。今まで他者に、取り分け両親に認められなかった香織は、この窮地において歪んだナルシシズムにすがる他なかった。これまでは尿を拠り所としていたが、それを自ら否定してしまった以上彼女の精神の支柱はないも同然で、健全であれば親兄弟や恋人、友人など、親しい人間に寄りかかるものであるが香織にそんなものはない。幼い頃から一人で過ごし、学校でも当たり障りない、建前だけの生活をしていた彼女に頼れる人間などいはしなかった。孤独の中で失われた自我を守るには自身を傷つける以外にない。自傷にも似たその心の揺らぎは、ある意味では自衛の手段ともいえるが、そのまま行き着く先は、悲劇しかないという事を彼女は知らなかったし、知っていたところで、何が変わるものではなかった。香織の孤独は難病のように心に巣食い、蝕んでいるのである。



 夜が更けた。

 今宵、香織に涙はなかった。抱いていた憤怒と嫌悪が収まらず、嘆きを払拭していたのだ。


 火でもつけてやろうかしら。


 やさぐれたかけた香織はそんな事を思った。実際に放火するかはどうかはさて置いて、彼女がそんな風に考えるのは初めての事である。過去、反抗期など訪れなかった香織であるが、どうやらここにきて不良の芽が萌えたようで、今にも悪道への一歩を踏み出してしまいかねない危うさがあった。


 馬鹿みたい。全部どうでもいいじゃない。なんで私がこんなに悩まなきゃいけないの。


 怨念とも思えるような苛烈なアナーキズムに支配された香織は台所へと飛び出て母の菓子と父の酒とタバコを持ち出して縁側で無闇にそれらを口にした。が、結果は散々なもので喉を痛み咳き込んで、酒は雑草の肥やしとなりタバコはその酒溜まりに落ちて湿気った。仕方がなく半分ほど齧った菓子を食べきり一息。多少落ち着きは見せたが未だ怒りの炎は消えず、どうして復讐を果たしてやろうかと頭の中で凶行が練られていく。


 刺してやろうかしら。それとも、首を絞めてやろうかしら。


 茶番じみたサスペンスを脳内で描く香織はくつくつと笑っが少しも愉快ではない。寂しさに満ちた心は曇天の夜より黒く重く、好き勝手にに散らかした縁側を一瞥するとすぐに口角が下がって溜息が漏れた。側に誰も存在しないのを、酷く虚しいと感じているのだ。


「私は一人」


 ぽつりと呟く。

 香織が長年患っていた孤独が言葉となって口を衝く。


「どうせ一人なんだから」


 今度は強く、芯が入った声だった。

 怒りや悲しみを超越した、冷たいほど硬い一言が彼女の臓腑から吐き出されたのだ。ずっと、ずっと誰かに伝えたかった、言えなかった助けが形を変えて、拒絶となり発芽した。


 寝よう。


 部屋に戻る。寝息は立たない。

 目を閉じてはいるが、眠りはせず、頭の中でぐるぐると渦巻く疾苦を見定める。


 どうしよう。どうしよう。


 救われない夜に答えのない無限の問答が続く。親も学校も、人生さえもどうしようもなく、どうする事もできない。潰れそうな心臓が軋み、嘔吐の予兆が漂う。


 気持ち悪い。気持ち悪い。


 不安定な情緒が彼女を蝕んでいく。長い夜に、ただ、落ちてゆく、ただ、落ちてゆく……

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