ラストノート5

 変わらず部屋は暗く静かであった。

 香織は依然、布団の中で一日を過ごす生活を送っている。人として入浴と歯磨きは欠かせず不潔ではなかったが、櫛を入れない髪は乱れ、砥がれない爪は形が覚束ない。


「香織ちゃん。ご飯、置いておくからね」


 母親が食事を持ってきて、ようやく朝か、あるいは昼になったかと気がつく。香織はもはや陽が上っているか沈んでいるかでしか時間を把握できていない。目一杯眠り、起きてからはぼんやりとし、また眠るという事を繰り返しているのだからそれも当然。彼女の一日は不規則な睡眠と虚無によって成り立っており、世界から隔離されたようだった。


 ご飯、食べたくないな……


 わざわざこしらえてくれる母親への負い目から出されたものは食べているが苦痛でしかたがなかった。何を噛んでも不気味な食感で味もしない。まるで砂を食んでいるような不愉快さが怖気を催し肌を泡立てる。一口含み、呑み込むまでに何度嘔吐を予感させたか知れない。時間をかけ咀嚼して喉を通し、迫り上がる胃の内容物を抑える日々。来る日も来る日も上げられた膳を前にえづきながら食事をしなければならないのはもはや拷問といってもいいだろう。それを、香織は自らの意思で行なっているのである。なんとも惨い話ではないか。


 死んじゃおうかしら。


 そんな事を思うと堰を切ったかのように涙が溢れて止まらない。大声を上げ、なりふりかわまわず慟哭の衝動に身を任せたくもなる。しかし、そうなればたちまち母が心配し無用の心労をかけるかもしれないと……

 いや、違う。泣く事によってかけられるであろう、優しく、甘い言葉を香織は恐れたのだ。以前に受けた些細な気遣いなどではない、憂慮と不安に満ちた、親としての姿を見せる母の姿を。

 香織は一人で生きてきた。少なくとも、彼女自身はそう思っていた。甘えたい時、怒りたい時、話したい時、泣きたい時、彼女の元に、親はいなかった。香織は母の親としての顔をよく知らない。嬉しいはずだった、喜ばしいはずだった、ふいに見せたあの優しさを今思い出すと、得体の恐怖と忌避感に駆られ、口を抑えてしまう。

 一雫、二雫と粒が落ちる。滴る音が静かな部屋に響くと、香織はより多くの涙を流すのだった。


 そんな香織であったが悪癖は治らなかった。催すと、夜な夜な庭に出て粗相を致すのだ。

 自身の尿を嫌悪し、溜めていた瓶もすべて捨ててなお奇行(世ではそういうだろう)を正す事ができない。夜に広がる美しき黄金の香りは少女の孤独に反し艶やかである。

 

 嫌なのにどうして……


 香織は頰を濡らしたが、蜜のように甘美な芳香に心奪われているのは隠せなかった。尿の臭気が鼻腔に入ると心が休まり、頭にこびりついた嫌な記憶が一瞬だけ消えてなくなる。その間は桃源の郷にいる錯覚を覚え、狂気の淵から抜け出せるのだ。香織にとってそれは望まない作用であったろうがしかし、傷心に咽ぶ彼女の心が束の間であれ安らかとなっているのは確かであり、まさしく聖水と呼ぶに相応しい効能を発揮していた。彼女を苦しませる要因のみが彼女を救っているとは腐肉な話ではある。



 粗相を終えて部屋に戻る。

 手を拭い、再び布団に入ると再び、僅かに泣いたがすぐに寝入った。布団からほのかに漂う聖水の残り香が精神を安定させたのだ。

 香織にとって尿は切り離せないものであるが、それを受け入れられるかどうかはまだ分からない。


 


 翌日。香織の部屋の扉が乱暴に開かれた。父であった。


「いい加減にしなさい」


 声を荒らげて入室した父は、布団に横たわる香織を無理やり立たせて平手を打つ。


「何をやっているんだ。情けないとは思わないのか」


 自分の娘を叩き睨みつけ追い詰める父の姿はどこか可笑しい。笑えるという意味ではなく、滑稽である。「情けないと思わないのか」と彼は言う。しかしこのような野蛮を強行する人間こそ真に情けないのではなかろうか。自身の子に癇癪を起こすのが無様だと気付かない、哀れな大人ではないだろうか。父はきっと、仕事から帰宅して苛立ったままに座し、空いている娘の椅子を見て「なぜ」と思っただろう。その「なぜ」が蓋をしていた溜飲を押し上げたのだ。


 なぜ普通にできない。

 なぜ言う事を聞かない。

 なぜ思い通りにならない。


 古い考えを引きずる父がそうした不満を持ったとしても不思議ではない。いわば、父は畏怖したのだ。考えている事の分からない娘を、測りかねない我が子を恐れたのだ。だからこそ暴力で従わせようと、恐怖で支配しようと早まったのである。


「やめてください!」


 気付いた母親が駆けつける。父の暴挙を目の当たりして何を思うか。


「どうしてこんな事するんですか」


「お前が甘やかすからだろう。だからこうして、俺が言ってやっているんだ」


 父の言葉に香織と母は憮然とした顔を作った。あまりの傍若無人な態度に失望を隠しきれないという様子である。


「もう少し待ちましょうと、言ったじゃないですか」


「そんなだからつけ上げるんだ」


「そんな言い方……」


 争う二人。醜悪なる男女の諍いが実の娘の前で行われる。


「やめてよ!」


 堪え切れず、叫ぶ。涕泣ていきゅう混じりの訴えが両親を止めた。


「今更親みたいな事言わないで! ずっと放っておいたくせに!」


「なんだと!」


 激昂する父親を母が制し、束の間をおいて、部屋にはまた香織一人となった。


 嫌だ……嫌だなぁ……


 静かな部屋にはやはり鳴き声がこだました。しくしくと連なる音は、悲しく、寂しく、痛々しく、息詰まりそうな重苦しさを奏でるのであった。

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