ラストノート4

 母に言われた通り、天花はゆっくりと菓子を頬張り和かに笑う。


「いや、味わってみると確かに、大変美味しいです」


「そうでしょう。舶来物なんですよ」


 落ち着きを取り戻した母は笑顔を返す。一息つけ、ようやく余裕が出てきた様子であるがそれでもまだ所々強張っているようだった。慣れない男子と対面しているのもあるだろうが、娘の事を問う機会を伺い過ぎているからかもしれない。


「ところで、香織さんのご様子はいかがですか?」


 そんなものだから天花からのこの質問はありがたく、まさに渡に船であっただろう。当人の話題となれば、肝心な内容を聞き出すのも容易い。


「それがさっぱり。食欲はあるみたいだから、そこまで心配する事はないと思うのだけれど」


「そうなんですか。いや、大事ではないというと語弊がありますが、少なくともご飯を食べられるのであればよかった」


「えぇ。本当に」


「ご飯といえば、以前、香織さんのお弁当を少しいただいた事があったのですが、あれは美味しかったですね。何でも、自分で作ったそうで、結構なお手前でした」


「あらそう。お食べになったの」


「はい」


 顔には出さなかったが母は何か察したような気配を見せた。香織が天花の胃を掴まんと準備していた夜に彼 「遠足にでも行くの?」とからかったのを思い出したのだろう。その、遠足にでもいくような弁当を何のために作ったのか、女であれば、分からぬはずがない。しかし、ここでそれを言うのは場違いであるし不粋極まる。何より、今、母が思う所は別にあるだろう。それは、次に彼女が口にした言葉が証明となる。


「本当は、私がお弁当作ってあげたいんだけれどね」


 

 ふいに落としたその言葉はきっと本音に違いない。机の下、硬く握られた拳が物語っている。


「あの子、なんでも一人でやってしまうから、つき任せちゃって。学校での様子もちっとも知らないから、少し恥ずかしい」


「まさしく優等生ですよ。物静かで、成績もよくって。この前の、その、騒動の日は、何故だか一日居眠りしていて、珍しいなと思いましたが」


「あら、あの子居眠りなんてしてたの」


「はい。それはもう、朝から」


「そういえば、朝から何だかぼんやりとしていて、お料理の際にてんやわんやとしていたかしら」


「へぇ。前日に何かあったのですかね」


「それこそ私には……椿君こそ、何かご存知ない?」


 すがるような声を聞くにこれは心底から助力を乞うているのだろう。当初こそ打算的な目論見があっただろうし、結果として聞きたい事を聞けたわけだが、自身の不徳を改めて口に出すと、つい精神の柔く脆弱な部分が顔を出してしまったように思える。つまり、彼女は意図せず天花に救いを求めてしまったのだ。香織のためではなく、自分のために。娘に何もできない自分の罪から逃れるように。


「ご存知と言われましても……」


 そんな母に反するように、天花は思い当たらないという面持ちで腕を組み虚空をを見る。が、数秒が経ち、思い当たる節があるかのように「あ」と大きな声を出した。


「何かしら。思い当たる節が?」


 母は前屈みとなり、胸の谷間を見せる。


「あ、いえ、何でもないです」


「本当に?」


「はい。いや、すみません。実は親にお使いを頼まれていた事を思い出しまして、あまり長居はできないなと……」


「あらそう……」


 天花の言はあまりに取ってつけたようで、その狼狽方からしてあからさまに虚偽を述べている事をうかがわせる大根ぶりであったが、今日会ったばかりの人様の子に対して「嘘をつくな」と声を荒らげるほど母は非常識ではなかったためそれ以上の追求は不可能であり、「お暇いたします」と頭を下げた天花に対し、少し惜しい目を向けながら「お土産にどうぞ」とラデュレの残りを包む以外にできる事はなかった。




「今日はありがとうございました。あと、お菓子もありがとうございます。返って申し訳ないです」


 天花は改めて深々と頭を下げた。


「いいんですよ。香織とは、これからもよろしくね」


 母はそう言っているが、内心では菓子が気になるようでしきりに自分が包んだ風呂敷を見ていた。彼女にやや卑しい面があるのは否めいが、それでも大人として、接待者としてちゃんと振る舞っている点は立派であろう。


「それでは、失礼します」


「はい。またいらっしゃい」




 天花を見送った母は溜息を漏らし居間に戻った。ゆっくりと椅子に腰掛け、菓子が入っていた皿を見る。


「そうじゃないでしょう」


 言い聞かせるようにそう呟く。当然だ。今考えるべきは食べ損ねたラデュレの焼き菓子ではなく、悲嘆に暮れる愛娘の今後についてである。先まで救済を望む面持ちだったのにも関わらずこの切り替えぶりは彼女の美点でもあり欠点でもある。


 ともかく母は空になったティーカップと皿を洗い、再び何か考えるように椅子に戻った。親として子供にどう対応すればいいのか篤と悩んでいる事だろう。菓子などを惜しんでいる場合ではない。


 母がこれから如何なる答えを出すのか。そして、天花は何に気付いたのか。いずれも未だ、藪の中にある。

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