ラストノート3
香織の部屋の前には昼食の皿類が盆に乗せられて出されていた。綺麗に食べられてはいるが、決して食欲があり喜んでいただいたわけではない。母の作った料理を残すのが忍びなかったため、無理由来胃に流し込んだのであるが、母がそれを知る由もない。
母は盆を手に取り、台所へと持っていって洗った。西陽の注ぐ台所は少し悲しく、母の姿が感傷的な画を作っている。淡色の茶碗に
それでも、香織は特に感動もなく機械的に口に入れて咀嚼し呑み込むだけで、まったく興味がなさそうに平らげたのだったが、物が食べられるならまだ大丈夫だろうというような顔をしているあたり、母にはやはりどこか楽天的な部分が伺える。
母は香織が引きこもった原因を勿論知っている。香織が教室を飛び出た後、わざわざ家庭を訪問してきた教師から説明を受けたからだ。
その際母は笑ってしまった。神妙そうに「宅の娘さんがお漏らしを」と話す教師は確かに滑稽な具合でコメディチックではあったが、その一件で娘がどれだけ傷付き悲しんだかを想像できていないのは確かであった。その後に部屋から出てこなくなった香織を見て、ようやくこれは大事だと悟ったようだが、根幹にあるのは「大した事はない」という楽観であり、香織の本当の苦悩を知り得ていないようだった。彼女は、年頃だし、分からないでもない。というような、あくまで表面的な羞恥による逃避だと思い込んでいるに違いない。それも半分は合っている。しかし、もっと本質的な、そもそもなぜ尿を漏らしてしまったのかという要因を考えるまでに至っていないのは明白で、娘の心傷を単なる失態としか捉えていないのである。きっと彼女は「時間が解決するだろう」などと呑気な事を考えているのだろう。
もし母がそんなお気楽な考えであるならばまったく的を外している。香織が持つ悩みの芯には自己への否定が巣食っており、それを根治しなければ、香織は生涯涙を流し続けるしかない。このままでは一家は間違いなく破滅へと向かい、歴史に埋もれる、小さな悲劇の一頁を記しかねないのであった。
しかし、世の中とは不思議なもので、往々にして間違いに気付けるでき事が起こるものである。そしてそれは存外早く、母の元に訪れた。
「ごめんください」
台所に届く声は若く、溌剌としていた。血気流々たる少年の声である。
「はぁい」
それを聞き、小走りで向かう母。
少し息を切らして玄関で対面したのは年の頃十代の、香織と同じ学校に通っているであろう男子生徒。幼いながらに端正な顔立ちの彼は、緊張しているのか伏し目がちに口を開く。
「すみません。香織さんの同級のものなのですが、学校からの配布物を届けに参りました」
不釣り合いな丁寧さで接する男子生徒は、やはり丁寧にお辞儀をしてからそう告げ、鞄から書類などを取り出して「どうぞ」と続けた。レジュメが数枚と、小さな寄せ書きが一つ。早く帰っておいで。などと無責任な言葉が並ぶ。こういうものは得てして逆効果でしかないのであるが、学校側から書けと言われるものであるため学童に罪はない。
「ありがとう」
母も当然そんな事は承知であるため、なんの気無しに受け取って礼を述べる。男子生徒も呼応して「いえいえ」と頭を下げたのだが、それがまた和やかでおかしく、見れば一瞬、頬が緩む光景であった。
「あなた、お名前は?」
珍妙出会いをした少年を気になったのか、母は彼に名を尋ねた。すると少年は、はっきりとしてよく通る、葡萄のように甘く、爽やかな声で名乗るのだった。
「はい。椿天花と申します」
美しき名を持つ少年は、香織が想い焦がれるその人であった。
「あら、いいお名前じゃない」
「ありがとうございます」
「せっかくだから、ちょっとお上がりなさい。お茶とお菓子出したげるから」
「いえ、そんな、悪いので」
「遠慮なんて駄目よ。さぁ、いらっしゃい」
母は半ば強引に天花を宅に上げて居間に座らせた。
気紛れか親切心かは分からない。しかし、その行為にはある種打算的な思惑があるように思えた。つまりは、天花から香織の学校の様子や周りの評価を聞き出し、娘の引きこもり脱却に役立てないかという下心が見え隠れしているように感じられるのだ
「どうかしら。学校は。楽しい?」
茶を出し唐突にそんな事を聞く。菓子はラデュレの焼き菓子であり、これは母が密かにつまもうとしていた品である。
「普通ですね。可もなく不可もなく、良く言えば、平和で、悪く言えば退屈です」
天花は茶と菓子を前に「どうも」と頭を下げて答えた。先までの緊張はもうすっかり解けてしまったようで、贅沢にもダックワーズを一口で呑み込み紅茶をすすった。
「あ、もっとちゃんと味わって食べてちょうだい。いいものなのだから」
「あぁ、すみません。マナーに疎いものでして、勉強いたします」
堪らず苦言を呈した母は咳払いをして天花の対面に座った。些か大人気なかったと恥じたのだろう。
「あ、いえ、いいんです。ごめんね」
謝罪を口にする母はちぐはぐな様子であった。
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