ラストノート8

 夜。

 母は香織の部屋の前にいた。前にいたが、手は何者かに絡め取られているように動かず、身体と扉との間で静止している。昨日の件がまだ尾を引いているようで、表情は重い。


「……」


 そのまま数分の後に母は手を下ろし立ち去ると居間に赴きしばし茫然と座り、僅かに震える音に溶け込んで小さな涙を落とした。彼女がこれまで涙腺を緩ませた事など数えるほどしかなく、また、それは意図して堪えてきたのであるが、香織の薄幸と自身の不甲斐なさをを思うと零れ落ちてしまうのだろう。


 闇は長く続いた。時針が二度違う数字を指すも母は俯くばかりで動く事なく、何も知らぬ人間であれば剥製と見間違えかねない生気のなさである。こうなるまでどれだけ思案を重ねどれだけ香織を想い嘆いたのか。親でなくては想像できない苦慮が渦巻いている事だろう。親であるが故の歯痒さを、彼女はきっと感じているのだ。長く、長く。


 陽が昇った。

 黒が段々と淡くなり、薄く伸びた光が広がって、空気に熱が加わり始める。

 土鳩が歌い、虫が飛び始めると、机に突っ伏していた母の首が上がった。本人すら自覚のないまま寝入ってしまったようで、驚きの後、滅入った溜息を吐く。  


「ご飯を作りましょうね」


 誰が聞いているわけでもないが母はそう言葉を落とした。命じるような口調は無理やり自分を動かそうとしているのだろうが感情が込められておらず、調理する際も実に無機質な動作をしていた。手慣れているというより惰性という方が正しい表現で、卵焼きも焼き魚も味噌汁も、どこか冷たかった。母はその冷たい料理を盆に乗せて、香織の部屋の前に行く。


「香織ちゃん。ご飯置いておくから」


 弱々しく、しわがれた声で伝えると、向こう側で扉に何かがぶつかる音がした。


「いらない!」



 香織が本を投げたのだ。彼女は完全なる拒絶の意思を、初めて母に向けていた。


「でも、食べないと……」


「いらないの! 毎日毎日持ってきて迷惑してるの! 捨てて!」


「……」


 母の頰を伝う涙。しかし、唇を噛みしめ嗚咽を抑えている。娘に弱い部分を見せたくないのだろうが、滲む血が沈鬱としている。


「ねぇ、香織ちゃん」


「話しかけないで! 早く向こうに行って!」


 再度扉に本が投げられる。それは香織が読んでいたサガンの文庫であった。

 落ちた拍子で文庫に挟まれていた栞が折れてしまって無残な形となった。薄い紫色の背景に芳潤な葡萄の絵があしらわれたその栞は彼女が書店で見惚れ購入したもので、ページを一枚めくる度にチラと覗き、恋物語に想いを馳せていた物である。それをこうもぞんざいに扱うとは、本人でさえ思いもよらなかったであろう。


「……」


 母は言葉なく盆を下げた。

食べる人間のいない料理が居間の卓に置かれる。朝陽はとうに高く位置し窓から余す事なく下界を照らしており、影と光が交錯してレンブラントが描いたような画ができあがっていた。明暗の狭間で定まる物体は何故だか静かで物悲しく、孤独である。団欒を過ごしていた食卓の景色がその孤独に染まってしまっているというのは、実に悲劇的ではなかろうか。母はその中でしばし時を忘れた。



 時間が動き出したのはすぐだった。「ごめんください」と玄関喉を叩く音が一つ。訪ねるにはまだ早い時分である。


「はぁい」


 重い足取りで玄関に向かう母の身形は酷いもので、髪が整わず目元には隈が差し込まれている。とても人前に出られる格好ではないが、追い込まれてしまった母はそれに気付くことができずにいたのだ。気付いていたとしても正す余裕などなかったろうが。


「あら、いらっしゃい。どうしたの、こんなに早く」


 玄関にいたのは天花だった。

 制服に肩掛け鞄を引っ掛けた、見るからに登校前の出立で突っ立っている。


「朝早くにすみません。ちょっと早めに起きたもので……もし香織さんが登校するのなら、僭越ながらご一緒しようかと」


 照れ臭そうに目を伏せる天花は当然香織と香織の家族に何があったかを知らない。


「そう……ごめんなさいね、まだなの」


「そうですか……」


 母親の格好など気にもしていない風だった天花だが、未だ香織が立ち直っていないのを知ると途端に落胆し肩を竦める。


「ごめんなさいね。しばらく、時間がかかりそうで……」


「いえ、こちらこそ、急に申し訳ありません」


 ……


 会話はここで一旦止まった。

 沈黙に息を詰まらせる二人。母は心労極まり、天花は尋常ならざる沙汰であると察したようである


「なんとも、なりませんか」


 次に口火を切ったのは天花であったが、愚な問いをしたものではないか。なんとかなるならとうにしている。できないから母は憔悴しているのだ。馬鹿げた事を聞いたものである。もっとも天花にしてもその辺り分かっていてあえて伺ったのかもしれない。ともかく話をして、淀んだ空気を浄めようと企んだのだろう。


「なんとかなるといいんですけどねぇ」


 その企みは大いに成功したように思える。血色芳しくない母の顔から、一毫いちごうほどではあるが、笑みが溢れたのだ。


「あの、お腹、空いてない?」


 そうして母は突拍子もなくそんな事を聞いた。


「え、あ、はい。空いてます」


 嘘か真かは分からぬが天花はそう答えた。


「よかったら、ご飯食べていかない? 余っちゃって」


「……はい。いただきます」


 遠慮せずに頷いた天花は宅へと招かれた。

 先まで寂しかった居間に人が加わり色が増え、大分暖かみのある画になると、母は自身の見窄らしさに気づき、髪に手櫛をいれたのだった。

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