ミドルノート2

 飛び出してみたものの学校が終わったわけではないのだからどの道教室に戻らねばならない。悩んた挙句、香織は校舎内を彷徨う事にした。とはいえ慣れ親しんだ学舎に目ぼしい所などあるはずもなく暇を慰めるには至らない。図書室にでも足を運ぼうかと思ったが香織は自室でしか頭に入ってこない質であるから何を読んでも身につかない事必至。字は読めても意味がわからないという無益の極致を彼女は嫌がった。


 そういえば、サガンをまだ読み終えていなかった。


 ふと思い出した読中の本。囲われていたもの同士が惹かれ、新たに恋をする物語は純朴な香織の心を良くも悪くも昂らせ、日々募らせる恋慕の妄想に拍車をかけていた。否が応でも思い出される黒文字の件。飛躍し、天花の唇と重ね合わせる場面が思い浮かぶ。


 やだ! やめましょう!


 香織は頭に力いっぱい拳を打ち付け半ば強制的にふしだらな邪念を払うと尿意を催した。おあつら向きにある厠。中に入り、個室の鍵をかけ、身体に回った毒を出すように排出を行い、同時に忍ばせていた持ち運び用の香水瓶に尿を注いだ。丁度切らしていたのを思い出したのだ。立ち込める華やかな芳香が厠特有の異臭悪臭を打ち消し、一点のみ天上の園が顕現したかのような極上の匂いが立ち込める。

 このように用を足すと必然残り香がこもり花摘みが露見してしまうので香織は極力人がいない時間を狙って厠へ入るようにしていた。アンモニアやインドールやスカトールが染みつくわけではないがそこはやはり生娘である。先まで自分が厠にいたという痕跡など残したくはない。自身の尿を振りかけ香りをばら撒く事に悦楽を覚える異常な癖とは反目する羞恥意識とは思うが、これもまた擦り込まれた常識と情操教育によるものである。致し方なし。


 さて。本来であれば、香織は先に述べたように人目を避けて厠に入るわけであるが今回はうっかりと考えなしに入ってしまった。放尿の途中でその事に気付きしくじったと思った香織だったが幸いにも人の気配はなく一安心と手を水でみそぎ急いで外に出ると、まさかの鉢合わせをしてしまったのだった。それも相手は予想外の人物である。


「あ、よかった。見つかった」


「椿さん」


 厠から出た瞬間に合った目。間の悪さに香織は悲鳴を上げそうになるも、女子の厠の前でそんな事をすれば天花がどうなるか予想するに容易く、反射を理性で押さえ込んだ。


「どうかなされたんですか」


 冷静を装うが心拍は上がり調子。突然現れた天花への戸惑いと、厠から出てきた所を見られた恥ずかしさに身体の至る所が混乱している。


「いや、先に君が飛び出していってしまった後に、教室の女子達から追いかけろと言われてね。それで探しに来たというわけだ」


「そうなんですか。あの、すみません」


「いや、こちらこそ申し訳ない。何をしでかしたのか分からぬのも申し訳ない。申し訳ないが、後学のため俺が何をしてしまったか聞かせてくれないか」


「いえ、椿さんが悪いのではなく、私の考え過ぎといいますか、情緒の不安定が原因ですので」


 たじろぐ香織は適当な言葉で茶を濁した。追求されればまた奇声を上げ遁走するのは明白であったが、天花が「そうか」と言うだけに留まったので事なきを得た。


「ところで、香水をつけたのかい? 良い香りがするんだが」


「え」


 再度、香織の心臓が跳ねる。天花のいう香水とは、良い香りとは、つまり彼女の尿臭である。

 搾りたての匂いを天花に嗅がせている事に幸福と興奮と罪悪感が混じり混濁とした感情が血を踊らすのだ。


「はい。あの、今朝、振ってくるのを忘れてしまったものですから」


 声を上ずらせ答える香織は手を結んだり開いたりさせて妙な挙動をしていた。彼女は昔から嘘や言い訳が下手なものだから、こんな時はいつも困る。


「なるほど。いや、断然香水の香りがあった方がいいよ。君、いつも良い香りがするから、一緒にいると気持ちがいいんだ。あぁ、こんな事を言うと、またうるさくされるから秘密にしておいてくれるかい?」


「はい」


 白い歯を覗かせる天花に香織は見惚れ、自分の尿を賛美してくれる男を前に頰を赤らめた。そして胸の鼓動がずっと激しく動転し、正常な判断が難しくなってきた香織はふと思い付く。天花に、先程汲んだばかりの尿を贈呈したらいいのではないかと。


「あの、椿さん」


「なんだい」


「以前、お友達と、香水のお話し、されていましたよね」


「あぁ。していたね」


「その際、確か香水をお持ちでないと耳にしたのですけれど……」


「あぁ。確かに持っていない」


「でしたら、あの、よろしければ、こちら、差し上げます」


 香織は香水瓶を天花の前に出した。小さな瓶を覆う小さな手は震え、心許ない。


 脈絡がなかったかしら。


 ちぐはぐな申し出に後悔を始めた香織はゆっくりと指を閉じようとした。が、その上から大きな手が被さり、ふわりと香水瓶を攫っていった。


「いいのかい。ありがとう」


 香水瓶を掴んだ天花が、香織に優しく微笑んだ。


「はい。是非、使ってみてください」


 

 自身の尿を渡した香織と、それを受け取った天花。二人の呼吸は自然と重なり、淡い情景を描いている。これこそ青春。若者のあるべき形。二人を繋いだ物が尿であるという事以外は、極めて健全で素晴らしい一場面である。

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