ミドルノート3

 香織は一人浮かれ調子で帰宅の途についていた。


 渡しちゃった。渡しちゃった。


 先程のインモラルな求愛行動に陶酔する彼女に憂いはなかった。愛し君への贈り物を叶えたという事実が香織を有頂天にさせていた。


 好きな異性に身体の一部を渡すというのは万国共通の呪術的な意味でもあるのか古今東西でよく見られ、血や陰毛を混入させた料理や、極まった者は歯や眼球や性器など相手に贈呈する事態も稀にある。が、尿というのは些か趣向がずれるというか、嫌がらせの領域な気さえする(好意で渡す人間もいるだろうが)。如何に香織のそれが魅惑の芳香を漂わせようとも尿は尿。露見すれば変態を飛び越え一躍軽犯罪者の仲間入りである。それを鑑みない彼女の軽率な行動は若さ故の浅慮か、はたまた恋の盲目か。あるいはその両方か。いずれにせよ、彼女が培ってきた常識からは掛け離れた異常である。それを思い知ったのは帰宅後。就寝間際の事であった。


 私、とんでもない事をしてしまったかもしれない。


 ようやく真っ当な人間の思考に至るも時既にに遅し。彼女の尿は天花の手の中。もしかしたら、もう何度か振っているかもしれない。


 あ、あ、あ。


 混線する脳は物を考えられなくなりノイズばかりが走る。やたらと寝返りを打ち物理的に正常に戻そうとするもの上手くいかず無闇に布団を乱し埃を立てるばかりで意味が薄い。身体が熱くなったり冷たくなったりしているあたり自律神経も失調気味となっているに違いなかった。


 馬鹿ね。本当に馬鹿。


 自虐の言葉を述べ布団に潜る。隔絶された暗闇の中は幾許かの鎮静効果はあったが根治には至らず、眠りにつくまでに長い時間がかかった。




 重い目蓋を開けると起床時刻であった。

 どれほど夜を更かそうと香織が朝を寝過ごす事はない。休日に惰眠を貪るにしても、一旦は早くに、自然に目が覚めるのである。

 しかし起床したといってもまともに動けるものではない。短い睡眠時間は頭の働きを濁らせ身体を鈍化させる。寝不足は朝食作りにおいて大いに影響を与え、両親の顔を気の毒にした。殻が入ったりこぼしながら掻き混ぜる卵焼きや沸騰させた味噌。酢を入れた納豆に焦がした海苔が美味いはずがない。


「香織ちゃん。どうかしたの」


 不安気に見つめそう問う母に対し香織は答えた。


「ちょっと寝不足で」






 香織の不良は校舎に到着すると一層深刻化し、堪え難い眠気が襲うのだった。着席後授業の準備もせず机に突っ伏し寝息を立てる彼女を見て周りはクスクスと笑うのであるが瞬間的に意識を失ったために本人はその辱めを知る由もない。一度起き上がればこぞってからかいに来る事は、目に見えているが。





 そのうちに昼休憩となった。


 睡魔の誘惑に負け越した午前の授業は散々で、ノートに無数のミミズが這う事態となっていた。教師は彼女の寝姿を見て咎めぬどころか「珍しいね」と笑うものだから大恥である。また、それに加えて件の男子生徒が「色気より食い気より眠気」などと太鼓を叩き不愉快となっていた。


 眠いものは眠いのだから仕方ないじゃない。


 見るからに苛立ちながら弁当を広げる。本日は雑なおにぎりと雑な茹で卵と雑な炒め物を雑に詰めた雑な内容である。まずくなければそれでいいという潔さが返って家事能力の高さを醸し出しているがその技術を評価できる人間は少なく、作った本人さえ心中で、みすぼらしいなぁ。と愁嘆するほどである。


 椿さんには見せられないな。


 心底残念そうにおにぎりを一つむ。

 例え小綺麗に纏められた弁当を持ってきたとしても昨日の奇行が蘇り思い留まるだろうがここまで惨めに陥いる事は恐らくなかった。理由はどうあれ自堕落だなとさえ思った。この有様は他人に見られてはいけないと静かに、素早く弁当を処理をしていたが、人生とは、往々にして機が熟す前に事が起こるものである。


「一緒に食べないかい」


 昨日とは違い天花が香織に声をかけてきたのだ。


「わ」


 香織は当然のように混乱するが、それも数秒。弁当の内容が、彼女に正気を促し冷静さ与えた。


「あの、今日は、少し……」


「駄目なのかい?」


「駄目というわけではないのですけれど、その、今日はお弁当が、可愛らしくなくって、恥ずかしです」


 顔を赤らめて弁当を隠す香織。隠し事をする少女のなんと清く艶やかな事か。この顔を見ただけで男としては万々歳。早々に立ち去り跡を濁さぬのが礼儀である。


 だが、翼の若い雄鶏は未だ紳士たるを知らない。


「いいさ。気にしないよ。実のところ、今日は友達が休みでね。一人でつまむのも悲しくって」


 あっけらかんと答える天花。どうやら件の男子生徒は、少なくとも共に昼食を摂る中ではないらしい。


「そうなんですか」


「そうなんだよ」


 なんともいえぬ間が流れる。無言と周りのお喋りが気まずい。


「分かりました。ご一緒しましょう」


 折れたのは香織であった。弁当を隠しながら、照れながらも、実際のところは満更でもない様子である。


「本当かい。いや、助かる」


 香織の笑みに追するように、天花も笑った。

 それでもやはり、香織は弁当を密にして、器用におにぎりを一つなくしたのだった。

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