ミドルノート1
心機一転とはまさにこの事であろう。
「椿さん。お昼、一緒にどうかしら」
夏場に落ちる深い影のような声は香織である。彼女が自ら天花に向かって昼食を誘ったのだ。周囲は口にこそ出さなかったが同様している様子。あの物静かな香織が男子に声をかけるとは誰も思ってもいなかっただろう。
「かまわないよ」
それを意に介さない天花の心地よさである。明瞭な二つ返事は春に吹く風が如き清涼を持ち香織を大いに愉快にさせ、周りからの目を些末な問題へとにさせたのだった。
「これは天花氏。隅に置けぬ伊達男ぞなもし」
「飯を食っちゃいかんのか」
「いかんとは言いませんが、ねぇ香織姫。少しは赤くなったり汗を吹き出してくれた方が、誘いがいがあるのではございませんか?」
それでも囃立てる例の男子生徒は特別にうるさく煩わしくあったが香織は意図的に気にしないように、努めて素知らぬふりを装い、早い話が無視を決め込む事にした。彼の軽薄ぶりは既に知っていて、付き合うだけ馬鹿を見るだけだという事を承知しているのだ。
「つれませんなぁ。
それを察したかのように男子生徒は捨て台詞を吐いて消えていった。さしもの彼も過ぎた野暮は働かぬ良識は持ち合わせているようである。
「すまないね。相変わらずあいつは哀れなんだ」
「いえ」
他愛ない会話にはにかんだ香織は行儀よく弁当を広げた。本日の内容はサンドイッチとミートボールとサラダ。食後の甘味に葡萄が数粒。いかにもな女子らしさが広がる絵に描いたようなステレオタイプの洋風ランチメニュー。いつものおざなりな産物ではなく凛とした彩り。これは当然作為が働いている。香織はこれを機に若さと可憐さを印象付け好感を高める算段。昨晩夜更まで思案した計画である。煌く料理は何とも華やか。一際目を惹く主食はサンドイッチ。種は茹で卵を潰し、マヨネーズとオリーブ油とピクルスを混ぜたタルタルソース風の仕立て。主菜の位置に鎮座するは牛挽肉のみを使用したミートボール。味付けは塩と胡椒。それに、セボリー、オレガノ、ナツメグなどを調合した独自のスパイスが決め手となっている。そしてサラダ。盛り付けられたレタスとトマトとブロッコリーに、ワインビネガーで作ったオリジナルドレッシングをかけたもの。程よい酸味と果実の甘味が野菜によく合う。いずれも手間隙をかけた創作逸品。古来より伝わる男の胃袋を掴めという格言を忠実に実行せんと、香織は平時より二時間も早く起床し腕を奮ったのだ。
「なんだか凄いな君の弁当」
「ありがとうございます」
目論見通りに食い付く天花。待ってましたと言わんばかりに香織が続ける。
「よろしければ、少しいかがですか」
「いいのかい?」
「はい」
ここまでは順調。予定より二つほど多くこさえたミートボールと個装の黒文字を天花の前に出す香織。万全すぎる準備は返って訝しむものだが、果たして天花は気に求めず「悪いね」といってミートボールを黒文字で突き刺し頬張る。
気に入ってもらえるかしら。
心臓が羽で撫でられたように香織はそわりと落ち着かない。咀嚼の間が長く、気に留めぬようにしても意識は向けられる。喉がなり、口が開かれるまでをじっと待つ。
「美味しいね。手作りかい?」
「はい」
耳に入った言葉は賛辞の言葉であった。
「いや、恐れ入った。随分な手前だよ。将来店でも開けるんじゃないかい? それにしても美味い。もうひとついいかい?」
「どうぞ」
天花は再び黒文字でミートボールを
「あの、よろしければ、サンドイッチとサラダもどうぞ。お箸もありますので」
「いいのかい?」
「はい」
数を揃えたのはミートボールだけではない。香織は全ての品目が天花の胃に入るよう準備していた。
「いや、悪いね。これも大したもんだ。美味い」
「ありがとうございます」
次々と口にしていく天花。一所懸命に頬張る姿は卑しくも見えたが香織には愛おしさしかなく、長く見ていても飽きる事はなかった。人と一緒に食事をする事に喜びを覚えたのはこれが初めてである。天花は間を置かずしてすっかりと差し出された分を平らげてしまったのだが、それでもなお、香織の至福は揺るがなかった。
「ご馳走になった。ありがとう」
「お粗末様です」
香織の料理を神速で胃に入れた天花は満足したといった様子であり、それを見る香織もまた、同じく満足気な表情を浮かべた。まるで夫婦のようだと、香織は思った。
同時に朱に染まる両の頬は熱い。
良い成り行きだけれど、これって大変に恥ずかしい事じゃないかしら。
有頂天に射す影。元来彼女が持つ常識と理性とシャイが感情の上り調子に歯止めを掛ける。
おきゃんだったかもしれない。いやだわ。
隠れていた恥じらいが徐々に大きくなっていく。先まで朗らかとしていた顔色が一変、固くかしこまり急によそよそしく畏まり始めた。
「それでは、これで……あ……」
いそいそと弁当をしまい込んだ香織は席を立とうと焦った。すると、風呂敷の甘い結び目の隙間から、彼女が使った黒文字がするとまろび出て落ちた。器用にも個装から漏れ、抜き身の状態で床と平行になっている。
「なんだい。ドジを踏んだね……ほら」
それを拾う天花。触れているのは黒文字の切っ先。つまり、香織が口に含んだ部分である。
過剰であるといえば確かにそうかもしれない。
しかし、意識してしまうのがこの年頃。誰もが精神過敏の癖を持つ時期。香織とて例外ではない。黒文字の切っ先を自分の唇を重ね、天花の指に接吻をする姿を想像してしまったのだった。
「わ」
咄嗟に顔を隠した香織は弁当そのままに廊下に走って出て行ってしまった。残された天花が理不尽に白眼視されたのは言うまでもない。
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