トップノート8

 陽が暮れて雨が止み香織の涙も止まっていたがそれは流すものがなくなっただけであり実際には相変わらず泣いているのであった。

 嗚咽の中に紛れるか細い声はしゃがれ、床の敷布は所々水でもかけたのかのように濡れている。既に陽は低く、赤く燃えている時分。泣き通しだった香織はさすがに空腹を覚えたのか、覚束ぬ足で居間へと向かい茹で卵を作って頬張ってはみたが、半分ほど口にするとそれ以上は進まず、仕方なしにまた部屋へと戻り床へ潜るのであった。途中、一つ二つ声をかけられた両親には「うん」と「ううん」とだけ返事をした。恐らく風邪か何かだと思っている事だろうと香織は推測し伏せる。子の心親知らずとでもいおうか。


 いつもそうなんだから


 言葉に出さず悪態をつく香織は日頃から両親に対して一抹の不満を、自分に対して無関心ではないかという苛立ちを覚えていた。

 真偽でいえば決してそんな事はないのであるが、仕事にかまけて蔑ろにしているのもまた事実であり、少なくとも香織は大いに寂しさを感じていた。私生活においてはすれ違いが多く、学校の事においても迂闊に相談もできない。参観日や懇談などがあると言うと露骨に困ったといったような顔をするし、そのうえで父母間でどちらがその面倒を受け持つか毎度口論するものだから、香織はもうすっかり親と対話するのを辞めてしまっていたのだった。あるのは慣例化した挨拶と簡素なやり取りばかりで、たまに思い出したように「学校はどうだった」といったままごとのような(これも香織が勝手にそう思っているだけなのだが)交流をはかろうとしても、彼女は愛想笑いもせず溜息を漏らすばかりなのである。


 それでもなお香織がなぜ両親に朝昼の食事を用意しているかといえばやはり僅かに残った情であり、また愛乞う欲があるからである。何かしら負担をしていればその時だけ両親は心配と感謝の意を口にする。それが彼女にとって、唯一家族としての自分を感じられる一と時であった。


「香織ちゃん。具合はどう?」


 それ故、突然部屋に入ってきた母親から発せられた言葉は意外であった。彼女はいままで、両親からそんな風に接せられた事はないと記憶していたからである(実際には何度かあったのだが)。


「具合と言われても、別に……」


「そう。あまり無茶は駄目だからね。明日までその調子だったらしばらく学校休んでいいから、ゆっくりしていなさいね」


「うん」


 母親はすぐに出て行った。香織の身に何が起きたかは理解していなくとも何かあったのは察したようで、慈しみのある深い顔をしていたのを香織は見逃さなかった。恐らく、精神的な問題であると看破したため長居しなかったのだろう。


 気にはかけてくれるんだ。


 香織の涙はようやく止まった。これまで自分は捨て置かれていたと拗ねていたが、本当は違うのではないかと理知が働いたのだ。普段から聞き分けがよく素行も良好な香織は取り立てて親の力を求める事がなく自律していた。だからこそ心に秘めた孤独が育まれ、疎外感に対し過過敏に反応してしまっていた事に気が付いたのだ。


 私って、馬鹿ね。


 くすりと笑う香織は布団から飛び起き、顔を洗って外へ飛び出した。雨上がりの夕暮れは光が散らばり、往来からは湿った芳香が漂っていた。どこに咲いている花の甘さが風に乗って届けられ、豊潤な空気が香織を包んでいる。


 なんだか素敵じゃないかしら。


 香織は相変わらず笑いながらあてもなく走り、疲れたら歩いたり立ち止まったりしながら黄昏を見送る。影のない世界は幻影のように朧で、また美しかった。


 今度は、自分から椿さんに話しかけてみよう。


 晴れやかに笑う香織はそう胸に誓って、陰鬱と決別をした。

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