トップノート3
その後はいつも通りに授業が始まりいつも通り終わっていった。数学も現代文も世界史も香織にとっては何も香らぬ内容ではあったが大人しく受講した。文明の利点を享受する以上は最低限の知識と教養を備えなければ猿と同じである。程度の差こそあれ、現代に生きる人間はすべからく知性を持っていなければならぬと彼女は魂で理解している。
しかしながらそこには矛盾が生じていた。
学級で中の上程度の学力ではあるが文化生活の中で育まれた潜在的意識により教育を当たり前に受け入れている香織ではあったが、同時に尿趣味という野性的な情動による動物然とした野蛮な習性を持ってしまっている。彼女の衛生観念を無視した超越的スカトロジーは社会生活を営む上でまったく不利に働く文化的忌避行為であり本人も両者の乖離を重々承知しているから逡巡はある。あるにはあるが、やめられない。それもそうだろう。何せ自身の尿臭にアイデンティティさえもっているのだから、そう簡単に尿断などできるはずがない。香織は一般社会への背信に価値を見出してしまっているのだ。ひっそりと行われるインモラルに取り憑かれた香織は間違いなくアナーキストであり治世への反逆者であろう。知性を持ち社会性を持ちながら、彼女は非常識極まる反社会性に身を委ねているのだ。秩序が孕んだ混沌の忌子の一人。紛れもない不穏分子である。
そして今日。その異端者がとある思いつきに身を捩らせる。帰り支度をする際に、彼の男、椿天花とその他男子生徒達の会話を聞き、閃いてしまったのだ。
「天花氏。巷では男でも身体に匂いをつけるそうな。なんでもエゲレスだかおフランスだかの文化らしいが、氏は詳細を知っているかい?」
「君は実に情報が遅い。開国から何百年経過したと思っているのだ。香水など常識だろう」
「おぉ! さすが校内きっての伊達男! 洒脱着飾りお手の物! で、天花氏。その香水とやらお持ちか?」
「いや、俺は持っていない」
「これはこれは! 一見を知らず齧った百聞を並び立て申したか! これは大した傾奇者よな! その知見を是非とももっと聞かせてたもう! ほれ! もそっと近づいてよう言ってみるぞなもし!」
「こいつ!」
走り去っていく男子生徒とそれを追いかける天花。二人は鞄をそのままに賑わう教室を抜けて何処かへ消えた。
そうか。椿君。香水を持ってないんだ。
一連の茶番を見学していた香織は思った。
だったらあげたらいいんじゃないかしら。私のおしっこ。
常軌を逸した思考に到達してしまった。おかしな点とおかしな点がおかしな線で繋がり、奇想天外な珍妙図画が香織の脳内に描かれてしまったのだ。
古来、欧州において女性の体臭は男の血を滾らす効果を持ち、かの皇帝ナポレオンさえもその催淫効果に魅了されたそうな。曰く、戦勝の凱旋前に「風呂に入るな」との手紙を皇后へ書いて送ったと聞く。女性のスメルは男の情念を掻き立て抗い難き劣情を抱かせるのである。だがしかし、尿を贈るとは大胆な発想でありとんだ気の狂いよう。まさに行き着く先。意中の相手をつけ回す夢想行脚に勤しむ者の入り口ではないか。社会通念上断じて許せぬ犯罪行為に他ならないだろう。
だが、恋慕に焦がれ盲目的となっている少女の猪突猛進を悪と断じて、果たして本当にいいのだろうか。
香織は自らの特異体質から来る妙癖をひた隠している。教育された常識と自我から湧き上がる欲望に揺れている。気持ちは不安定で不確か。川を流れる笹舟のように心許ない。ましてや思春期。過敏性疾患が彼女の精神的をあらぬ方へと加速させるのは当然。となると、これを咎めるは幼児に泣くなと言うに同じ。誰もが辿る道であり、誰もが辿った道なのだ。故に否定する権利などあるはずがない。少年の頃、危うい思想に躍り従った経験を持たぬ者はいない。恋心を抱いた異性の私物を拝借し口に含んだり体液をかけたり、退廃と暗黒に凝り奇天烈な衣装に身を包んで奇想天外な言動を繰り返した時期が誰にだってあるだろう。香織の尿贈呈とて同じ事。人間が陥るべくして陥る成長の過程なのだ。それを責める事など誰ができるか。できようはずもない。この荒恋路は見守るのが正道。それができぬつまらない倫理観や道徳に毒された退屈な人間は即刻価値観を改める為に天竺へ旅立つべきである。
香織はじっと、持ち主不在となった鞄を見据える。使い込まれた革の通学鞄はよく手入れがされており、光沢のある栗皮色が上品であった。
彼の鞄に私のおしっこを忍ばしたら素敵じゃないかしら。
生徒は皆いなくなった。教室には彼女一人。
高鳴る心音は恋の旋律。背徳の裏拍。少女は乙女の顔をして、自身の鞄の中にそっと手を入れる。爪が触れたガラス瓶は冷たく、熱を帯びた香織の指先に包まれる。
やだ私、本当にやってしまうのかしら。
抵抗はあった。
自分の秘部より排出された黄金の聖水を押し付けるなどとんだ羞恥である。ある意味では裸体を見せるより難い。決断に時間を有するのは必定。香織が息を呑み、身体が震えるのは無理からぬ事は。
だが時は残酷な程に平等である。香織の迷いは時計の針を進め、鞄の持ち主が戻ってくるのに十分な暇を作ってしまった。
「まったく、天花氏は冗談が通じぬ」
「悪質な冗談は宣戦布告に等しいと覚えておけ」
騒がしく戻ってきた椿天花と男子生徒に香織の手は引っ張られて宙で泳ぎ、胸の前に固定された。そこにガラス瓶は掴まれておらず、香織の尿の残香が漂うだけだった。
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