トップノート2
道すがら尿を振りかけながら登校した香織が学校に到着後すぐさま確認するのは天花の所在である。
彼女は軽やかに席へと座り、一日の準備をしつつ周りを見渡す。そして天花の姿を見つけると安堵と高揚の矛盾を抱え、人知れず、だらしなく頬を緩ませるのだった。香織も天花も皆勤者であり毎日顔を合わせているが、その事実を天花が心得ているか定かではない。だが、香織はその些細な共通点を誰よりも噛みしめ、掌中之珠としていた。誰も知らぬ、自分だけが知っている秘密が、少女を乙女たらしめているのだ。
毎日顔を合わせているのにちっとも話せないなんて、酷い話。
恥らいの蕾に不満の水を刺すのは少女に許された美徳である。蕾はじきに情愛という花となり、
彼ったら、私に興味ないのかしら。ちょっとくらい話しかけてくれてもいいのに。
好いた男に無理を望むのは全ての女の特徴で、これは悪徳ともとれるが往々にして愛いものである。
でも、急に声をかけられても、私どうしたらいいのかしら。
その上でこんな事を考えるのだから始末に負えず、また可愛らしい。夢現な矛盾に悩む姿は美しく古今東西問わず絵の題材にもなるほどの極上なモデルであるからして、物憂気な少女というのは尊いのである。
だが悲しい事にその瞬間は長くは続かない。時間はまったく残酷に進み破壊を繰り返す。香織は鳴り響く鐘の音で目を覚まし、いそいそと身なりを正す。朝礼が始まるのである。
香織の学校生活はだいたい平凡なもので、朝から夕までつつがなく机に向かい知識を修めたり修めなかったりして得意も不得意もなく満遍なく平均的な成績であった。殊に興味を惹かれるものはなく、授業は義務として受けなければならぬ座学の知識を頭に放り込むだけの儀式にしか過ぎなかった。落ちこぼれぬ程度の知識は得てして他の生徒から小馬鹿にされる要因にもなったが香織自身は事実だと受け止めて照れ笑いを装ってやり過ごしている。内心どうでもよく無駄な疲弊を強いられるのは苦だった。人付き合いを避けているわけではないが、人は往々にして自らが望む反応を人に求めるのである。時には軽薄で浅慮な思惑に乗ってやらねばならぬのは面倒この上ないと彼女は思っていた。もっともそれは香織に限った話ではなく、他の生徒も例外なく胸に抱いているであろう事情である。それ故にどれだけ退屈な話をされようが聞き手は面白おかしく反応せねばならないのだ。そうでなくては自分の軽薄で浅慮な思惑に誰も相手をしてくれないのだから。
香織が持つ軽薄で浅慮な思惑は一つであった。それは彼女の持つ尿の香りを飽きずに「いい香り」と表現してもらう事である。いや、事実、彼女の尿は芳しく美しいのであるが、毎度毎度賛美をするのはさすがに大仰だし、そも慣れて鈍化してしまう。周囲の人間は香織の香りを当然であると認識し、どうでも良いものと位置付けてしまっているに違いなかった。だがそれは彼女にとって許せぬ侮蔑で堪え難く、舌先三寸でも構わないから尿の香りを讃えられなくてはいけなかった。その為に、香織はくだらぬからかいにはにかみを見せるのだ。それは対価といっていいだろう。一度香織が軽薄な言葉に惰弱な一面を見せれば、勘の鋭い女学生達は直ちに理則り香織の尿臭を白々しく誉めるのである。
「あら香織ちゃん。ぼぉっとしちゃ駄目よ。落第しちゃう」
朝礼が終わると級友の一人が近づいてきて笑った。
「もう。意地悪はやめてったら」
「ごめんなさいね。貴女、可愛いんですもの。それにしても、今日もいい香りね」
「ありがとう」
こんな具合に腹を探り合って騙し騙されの関係を築き、お互いの小さな自尊心を満たすのが流儀であった。不文律の約定は円滑な交流を可能とする。それは恋とは反対に心の均衡作用があるいわばお約束であり、億劫ながらも少しだけ、香織は心休まるのだった。
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