トップノート1

 香織の朝は早い。

 共働きの両親をおもんぱかり家事の一部を引き受けている彼女は毎朝家族三人分の朝食と弁当を作っている。月曜と木曜はゴミ出しまであるのだからさらに忙しい。飽くまで寝ていたら遅刻必至。鶏鳴とまではいかぬまでも、未だ朝日が低いうちに起きねばなんともならぬのである。

 と、同時に、まだ誰も起きていないからこそできる事が一つ。それは厠にて行う秘事。香織が人知れずに繰り返す異常。それは尿の採取である。外出時に振りかける香水を、彼女は両親が寝ている時間に採取する。朝一番の尿が最も香り高く、品質が良いのである。これを汲み取らぬ手はないと香織は尿道から一滴も溢さずに尿を小瓶に入れる術を取得した。その技術が他に生きるかは定かではない。


 もしかしたら私のおしっこ、売れるんじゃないかしら。


 そんな夢想に耽る事もしばしば。小瓶に入った尿に見惚れるまでが茶飯事。香織は別段貧困の家庭に産まれたわけではないが金に煩い傾向にある。しかし、得た金で何をしたいかいえばこれといって思い浮かばず、金があれば苦労なく人生を過ごせ、また気軽に遊ぶ事もできるだろうという小市民的俗物根性があるだけだった。こうしたところもまた、普通の人間なのである。


 馬鹿馬鹿しい。


 我に帰り、水洗式の厠の水を流す。この後香織は手を洗って小瓶を部屋にある通学鞄に潜ませてから(この際尿が漏れていないか入念に確認し、懐紙で包む)再び手を洗って朝食と弁当の準備に取り掛かる。献立は白米と味噌汁とお新香と納豆と主菜。主菜はだいたい特定の品目で、主に目玉焼き、卵焼き、豆腐の内のいずれかが出る。用意する主菜に規則性や法則はなく棚に付けられた金額で決まる。つまりは他に安い食品があれば簡単に変わるという事。よってこの日は昨日に特価で買った鯖である。鮮度は不明だが焼けば大概大丈夫という無根拠な理論により網の上。大変低い危機管理意識であるが得てして皆そんなものだろう。魚を焼き始めれば昨日買った特売品などという記憶は薄れただの鯖となる。それでいいのだ。

 鯖を焼いている間に手際良く味噌汁を作りながら食卓に副菜を置いてゆきもう準備はほぼ完了。朝から素晴らしい食事が堪能できるのは幸福であるが、この当たり前を享受できる人間が果たして世界にどれほどいるか香織は考えた事もない。


 鯖が焼き終える頃にはぼちぼちと両親が起きて居間にやってくる。「おはよう今日もありがとう」などと呑気に礼を述べるのは香織の所業を知らぬからであり、予想だにしていないからに他ならない。まさか愛娘が夜な夜なならぬ朝朝に尿を採取しているとは夢にも思わぬだろう。そういう意味では哀れであり、同情を禁じ得ない。


「おはよう。先に食べてて。お弁当作ってるから」


 素知らぬ顔で香織はそう返す。ややもすると詐欺師の一面ではあるが、誰だって大小の差はあれど秘密くらいはある。よってこの欺きは道徳的に問題のない範疇である。


 香織が作っているといった弁当はサンドイッチかおにぎりに幾つかのおかずを用意する。別段一工夫かけるわけでもない、庶民的で手抜きな、具体的にいえばマスタードやバターを塗らない、海苔を別に用意したり梅や菜葉を混ぜ込んだりしていない、簡単に用意できる、悪くいえば粗雑なものである。が、決して不味いわけではなくそれなりに味を整える辺りは流石といえるだろう。伊達に炊事を任されていない。


「たまには休んだら? 毎日大変でしょう」


「好きでやってる事だから」


 香織は嘘を吐いた。本当は料理などしたくはない。慣れたとはいえ面倒は面倒なのだ。夏は暑いし冬は寒い。できる事ならばやりたくはない。

 だが、この苦労と健気な態度が自身の中で功徳となり、彼女の中では変態性への冤罪符代わりとなっていた。


 毎日頑張ってるんだから、少しくらい多めに見てほしい。


 日頃の尿活を行う際に呟く弁明に脈絡なくエクスキューズには到底なり得なかったが、香織の気は幾らか穏やかとなるのだった。そもそもどうせ誰にも彼女の行動は理解できないのだと本人が思っているのだから、言い訳だって滅裂でかまわないのだ。それは香織自身も内心理解していて、時に自嘲気味に「誰に向かって言ってるんだか」と呟く。事実、彼女の秘密は誰にも共有されていないわけなのだから申し開きする必要もない。彼女の癖は彼女だけのものであり、他者には踏み込めぬ領域の話であった。


 それはそれで正しい。

 しかし、誰かに分かってもらいたい欲求はある。


 椿君。本当は知ってるんじゃないかしら。


 尋常ならざる嗅覚を持つ想い人に淡い期待を抱くもそれは陽炎。すぐさま現実が現れ、香織は一人顔を赤くする。


 そうだ。分かるはずがない。

 おしっこを振りかける人間がいるなんて、考えもしないだろう。



 常識を知る彼女はいつもそう考え、孤独に至る。自分の気持ちに蓋をする。人が考えもしないような人間を好きになるだなんて絶対にないと彼女は決め付けているのだ。



 それじゃあ、私はずっと独りぼっちなのかしら。


 弁当の用意を終えようやく朝食についた香織は食事を運びながらそんな事を考えて悲観的な未来を思い描く。これもまた、茶飯事である。取り留めのない思考の内に朝食は平らげられ後片付けが終わる。そのまま登校の準備を済ませると、香織はようやく、夢の片隅から物質世界へと帰還するのであった。




「それじゃあ、行ってきます」


「いってらっしゃい」


 両親より一足早く家を出る。

 鞄に入れた尿瓶がシンと重さを主張する。

 

 今日は椿君と話せるかしら。


 先に陥っていた悲しみは形を潜め、香織は平凡な少女へと戻っていた。その心はガラス瓶のように重く、美しい。

 だが残念ながら中身は尿。好んで蓋を開ける人間は多くはないだろう。それが、この世に満ちた悪臭のような常識なのだから。

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