トップノート4
赤面し顔を伏せる香織に目敏く声をかけたのは天花ではなく付随の男子生徒であった。
「おや、どうなさいましたか? 左様に顔を赤められて……あ、そうか分かりましたぞ! さては香織姫、誰彼かに恋文を潜めようとしていたのですな!? いやこれは失敬仕った! なんとも無粋な大間抜けを働いてしまった! これ天花氏! さっさ去ねばなるまい! ささ! 早う早う!」
けたたましく騒ぎ立てる男子生徒は間違いなく香織を虚仮にしていた。この男、文武劣等にして親泣かせな愚物ではあるが他人を小馬鹿にする事にかけては皆伝の業前を持つどうしようもない人間で、軽口と虚偽と嘲笑と挑発と不平と不満と溜息と俗言と猥言と失言と妄言と適当と出鱈目しか舌が回らぬ品行不方正の屑で下衆であった。彼がなぜ天花との友情を育んでいるか定かではない。事実、天花はいつも男子生徒の言動に腹を立て鉄拳を見舞わんとしている。天花を最初に
「やめておきなよ君。悪いね、香織さん。こいつは品がなくっていけない」
そんな男子生徒を制し救いの手を差し伸べたのが天花である。この場合人として教育を受けてきた人間であれば止めるのは当然であり殊更誇れるようなものでもないのだが、その行為は香織の頰の紅潮を更に鮮やかに染め上げるのだった。
「いえ、あの、大丈夫です。それじゃあ」
早口を捲し立て逃げるように教室を後にする香織の心境は複雑。望んでいた天花との会話に嬉々とし、男子生徒の猪口才に憤怒し、尿を贈れなかった事に哀思し、そして、無限に生じて弾ける恋心に
影も一人なんだから。
主人が一人しかいないのだから影も一つであるのだが、房で途切れた桜桃が如きもの悲しさがそこにはあった。香織は連なるはずの片方の実の不在を嘆き溜息を吐く。それほど冷たくもない、ふいに吹く風に身震いして見せるのは彼女らしからぬ詩的な振る舞いであった。影の形が潰れた餅のように不細工となる。
その影にもう一つの影が重なったのはすぐの事であった。
「寒いのかい」
問いかけは香織に対してである。増えた影の持ち主が、彼女にそう聞いたのだ。
「わ」
素っ頓狂な声が響いた。慌てふためく香織の姿は盆踊りに入り損ねた人間のように間抜けぶりはさしずめ踊れぬ阿呆とでも形容しようか。上身と下身が一体せぬ挙動は道化の玉乗りよりも滑稽で、とにもかくにもぎこちなく、危なっかしい。彼女がなぜそのような痴態を晒したかといえば決まっている。影の正体が椿天花だったからである。
「寒いのかい」
もう一度同じ言葉を繰り返す天花は無表情であった。香織の醜態を見て笑わぬのは彼女を気遣ってのことなのか、はたまた心の底から興味を持っていないからなのか分からぬが、当の香織は「やってしまった」と心中で悔い、涙を抑えながらモジとして「寒くはないです」と小さく呟くのが精一杯であった。
「そうかい。ところでさっきは悪かったね。あいつは悪い奴なんだが、ま、先のないどうしようもない人間だから笑って許してやってくれ」
辛辣な評であったが穏やかな口調である。これを友情と取るか諦観と取るかは人それぞれであろう。
「あ、大丈夫です。怒ってはないです」
「そうなのかい。それならよかった」
天花が白い歯を見せると、香織もつられるようにはにかみながら頰を緩めた。夏蜜柑のような甘く酸い空気が満ち、かつて味わった事のない、ワルツを奏でるような心拍が自然と香織を喜ばせるのである。
私ったら、なんだか幸せじゃないかしら。
細やかな幸福に胸を高鳴らせる香織はこれだけでも十分だと彼女は思い、これ以上は望むべきではないといじらしく喜びを胸に秘める。しかし、幸不幸というのは、得てして連続性を持って訪れるので、次に天花から発せられる言葉は、まさに瓢箪から駒が出るに等しい仰天を彼女に与えたのだった。
「ところで君、家はこっちだろう? 途中まで一緒に帰らないか? よければだが」
「わ」
その申し出は思いがけず、また願ってもない提案であった為に香織は再度素っ頓狂な声を上げて驚いた。棚から落ちてきた牡丹餅が彼女のシナプスを焼き切り狂気錯乱の一歩手前。出所不明の暁光に正気の糸がチリチリと削られ言葉が出ないのである。
「嫌ならいいんだ。すまん」
その反応を見て出る天花の言葉は実に潔い。下心なき故の無愛想である。
とはいえこれはさすがに朴念仁が過ぎる。潔白ではあるが実に不粋。このままではどうにもならぬと悟った香織はついに、意を決して自ら一歩踏み出す。
「嫌じゃないです。是非」
気取った言い方をしたのは読中サガンの小説に影響を受けての事だった。それを承知しているものだから香織は余計と恥ずかしくなってしまって、ワルツからカプリッチョへと鼓動が変化し、精神の弦が悲鳴を上げる。
「そうかい。ならよかった。それじゃあ行こう」
その独奏会を男は知らず、香織もまた、悟られぬよう、少し、距離を開けて「はい」と頷いたのだった。
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