ラスト・ワン・ショット

水円 岳

 異国の鮮やかなスカイブルーが、一瞬で酵母と葡萄の匂いに置き換わった。貯蔵庫に案内された私は、庫内の暗さに目が慣れるまで城主の説明に耳を傾けていた。


「四年に一度で一瓶だけ、ですか」

「ええ」


 城主は、ワインカーブの一番端から一本のボトルを引っ張り出した。ラベルも何もついていないワインボトル。それを目近に持ち上げて見せてくれる。中には淡い琥珀色の液体が入っていて、ゆるゆる揺れている。白、か。それにしてはえらく色が濃いな。長期貯蔵によるエージングの影響だろうか。でも、四年と言ってたよな。四年くらいじゃ、ビンテージものとは言わないだろう。

 中身はともかく、瓶だけはえらくレトロだ。継ぎ合わせた跡があることやガラスの厚さが不均一で青みがかっていることが、自ずと時代感を漂わせている。


「自家消費用ですから、一瓶でいいのです」

「でも、たった一瓶ならすぐになくなってしまうんじゃないんですか?」

「これは、いわゆるハウスワインじゃないんですよ」

「は?」


 重厚な樫のテーブルの上に瓶をことりと置いて。城主は瓶の口を覆っていた蜜蝋を慎重に削り取り、コルク栓を抜き取った。小さなワイングラスにほんの少し注がれた液体からは、甘い香りがほのかに漂った。


「どうぞ、召し上がってください」

「私のような部外者が……いいんですか?」

「飲まれないワインに意味はありませんよ」


 確かに、その通りだ。


「では、いただきます」

「わずかに含むだけにした方がいいでしょう」

「え?」

「意味はすぐにわかります」


 城主の謎かけに首を傾げながら、お勧め通り液体を少しだけ舌の上に移す。


「うっ」


 全く想定していなかった味わいに、思わず顔をしかめてしまった。


「こ、これ……」

「砂糖水より甘い。そう称されることもありますね」


 確かに、恐ろしく甘い。だが、その甘さが唾液で薄まるにつれ、甘さの奥に押し込まれていた様々な味要素がじわりと解き放たれ、酒精に手を引かれて典雅にダンスを踊るようになる。一瞬の不快感が永遠の感動を葬ってしまうのは、あまりにももったいない。そう思わせてくれる、芳醇で他に類を見ない味わいだった。

 私の表情が渋面から歓喜に変わったのを見届けた城主は、意外そうに私の顔を覗き込んだ。


「大丈夫ですか?」

「いや……これは素晴らしいです。今まで一度も経験したことのない滋味だ」

「それはよかった。こんなものはワインじゃないと唾棄される方が多いので」

「そんな……」


 銀髪をわずかに揺らした年配の城主は、薄暗い貯蔵庫をぐるりと見回しながら、そのワインの由来を説明してくれた。


◇ ◇ ◇


 私の父祖がハンガリーからチリに移住したのは、今から百年ほど前になります。チリは新大陸のワイン生産国として有名なんですが、生産者の多くはフランス系です。うちのように甘口のワインを生産するところは極めて少ないんですよ。


 ハンガリーには貴腐ブドウを原料としたトカイという甘いワインがあり、それはとても高貴なものとして受け継がれてきました。酔うためにがぶがぶ飲むのではなく、むしろ薬用として少量たしなむ……そういう類のものです。


 私たちはチリへの入植後に、こちらでもトカイを再現できないかと試行錯誤を重ねてきました。貴腐ブドウをもたらすブドウの株や果実につく菌は検疫の関係でこちらに持ち込めません。仕方なくチリでワイン醸造に使われるブドウ品種を用いて、故国のワインの味わいに近づけようと様々な試みを続けてきたのです。


 私たちの他にハンガリーから入植してワイナリーを開設した家族が三つ。計四つのワイナリーで一年ずつずらしながら、毎年二年樽貯蔵後に二年瓶熟成させる試作品を仕込み続けてきました。四年経ったらそいつを開け、みんなで仕上がりを確かめる。そんな風に。


 しかし、私たちが自信を持ってうまく仕上がったと評価できるようなトカイは、どうしても作れませんでした。百年の間に、四家のうち一つまた一つとワイナリーを閉めていき、今残っているのはうちだけなんです。うちで仕込んでいるのも、そのほとんどがフレンチスタイルです。こいつは……私の趣味ですね。


 私は、存命の間はトカイにチャレンジし続けるつもりでした。ですが息子夫婦はワイナリーを継がないと宣言し、ここを離れました。農場や工場で働いている者は、みなチリ在住の人たちで、甘ったるいトカイには全く関心がありません。私は、もう諦めることにしたんですよ。


 トカイの仕込みはすでにやめています。あなたが先ほど飲まれたのは、四年前に仕込んで寝かせたもの。ですから、その一口がラスト・ワン・ショットですね。


◇ ◇ ◇


 それで瓶が古かったのか。ハンガリーから嫁いできた百年前のボトルは、四年に一度新しいワインを収めて、そいつに子守唄を歌い続けてきたんだろう。


「最後に一緒に味わったのがハンガリー人ではなく、日本人の私でよかったんですか?」


 どうしようもなく切なくなって、思わずそう尋ねた。城主は、私の危惧を柔らかな笑顔で押し返した。


「先ほど見せていただいた表情が歓喜で、本当によかったです。私は十分満足しています」

「それならいいんですが……」


 城主は、私のと同じワイングラスをテーブルに置き、ほんの少しワインを注いだ。グラスを揺すって香りを立て、それを確かめ、わずかに口に含んで……。


 涙を見せた。


「どうされました?」

「皮肉なものですね」

「皮肉……ですか」

「ええ。最後の最後に、これがトカイだと言える最高の仕上がりのものができました。もう次の四年は二度と来ないのに」



【 了 】


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ラスト・ワン・ショット 水円 岳 @mizomer

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説