ヒヤリハットの法則
妻は、先ほど仕事から帰ってきた夫に、わずかな違和感を感じていた。いや、今日だけではない。彼女は数日前から、捉えどころのない正体不明の何かを感じていたのだ。だがそれが何なのか、皆目見当がつかなかった。
初めは思い過ごしだろうと思っていたし、そう思いたかったが、捉えどころのない何かは徐々に『違和感』となってその姿をあらわにしていった。あまり考えたくないことだが、夫は自分に何か隠し事をしているのではないか? 確たる証拠はないのだが、そのような思いに至った。使い古された表現だが、『女の勘』と言ってもいいだろう。
二人が結婚したのは三年ほど前。結婚を前提に交際を始めてから数えると、もうかれこれ十年が経つだろうか? その間、二人はほとんど一緒にいたのだ。だから顔を見なくても、声のトーンを聞くだけでも色々なことがわかるのだ。仕事は上手く行っているのか? 何かいいことがあったのか? 何か隠し事をしていないか? など。それは、空港の手荷物検査員が、違法薬物の運び屋を見抜く能力と似ているのかもしれない。
しかし今のところ証拠は何一つない。かといって、カマをかけて動揺させ、秘密をあぶり出すといった荒っぽい手段にも頼りたくない。そこで妻は『容疑者』を泳がせ、尻尾を出させることにした。
妻は何食わぬ顔で食事を用意すると、夫と二人で食卓を囲んだ。いつものように、ビールを飲みながら食事をしつつ、なんとなくテレビのバラエティー番組を見たりしていた。テレビタレントの軽妙なトークに笑い、それをきっかけに昼間の面白い出来事を思い出し、他愛もない話をしたりした。
食事をすべて食べ終わってしまう頃になると、いつの間にか疑惑はどこかへ飛んでいってしまった。むしろこのまま、何事もなく時が過ぎていって欲しい。そしてあとで思い返してみれば、やはりあれは思い過ごしだった、そう思えたらいいのに。
「そうそうそれで、電車の中で立ったまま寝るオッサンがいてさ……」夫は、帰りの電車で出会った、滑稽な乗客について面白おかしく語り始めた。
「立ったまま寝てんの!? 信じられない!」妻は目を見開いて驚いた。そこには夫の隠し事を疑う姿は一切見られなかった。
「いやいや本当だってば。見せたかったなあ」夫は目を細めてニタニタと笑った。
妻は、夫の楽しい話題にときおり吹き出したりしながらも、こう考えていた。夫が自分に何か隠し事をしていたとしても、それがどうしたと言うのだ。真面目で夜遊びもせず、仕事が終われば真っ直ぐ帰宅するし、給料だって同世代の他の人と比べれば比較的多く貰っているほうだ。性格もこんな感じで明るく楽しい。
そもそも、それによって何か不愉快な思いや悲しい思いをしたわけではない。少なくとも今のところは……。
もしかすると、このまま気づかないフリをし続けた方が良いのかも知れない。むしろ事実を白日の下に晒してしまうことで、今まで築き上げてきたものすべてが、ガラガラと音を立てて崩れ去ってしまうことを妻は恐れた。
仮に夫が、何か都合の悪い隠し事をしていて、それが発覚したとする。そうなればきっとこの誠実な夫は謝罪するだろう。自分は夫を許すかも知れないし、許さないかも知れない。だが結果はどうあれ、知ってしまった事実は覆らない。たとえ離婚裁判に勝って多額の慰謝料を受け取ったところで、過去は変えられないのだ。
むしろ知らない方が幸せなのだろうか? 彼女は、自分の勘の良さを呪った。
「そいつ、つり革を掴んで立ったまま、こんな風に寝てるわけだ」夫はダイニングチェアから立ち上がり、電車の乗客のマネをし始めた。「すると電車がカーブに差し掛かりました……さあ、どうなったと思う?」
ここで、それまで漠然とした『違和感』だったものが、みるみるうちに具体的なイメージとして浮かび上がってきた。その突拍子もない思いつきに、彼女は自分自身でも驚いた。まさか、そんなはずはない。だが否定すればするほど、具体的なイメージはその確からしさを増すのだった。そうだ、きっとそうに違いない。
だとすれば、もう迷っている暇はない。彼女は覚悟を決めた。
「ねえあなた」妻は突然切り出した。
「ん?」つり革に掴まったポーズのまま、夫は妻を見た。
「何か隠し事してるでしょう?」妻は微動だにせず夫を見つめた。
「いや、何も」夫は仮想的なつり革から手を離すと、そっけない返事をして椅子に座った。満員電車はリビングルームに戻った。
二人の間に沈黙が訪れた。テレビからは、バラエティ番組の笑い声と効果音が虚しく鳴り響いた。黙るということは、やはり何かあるのだろう。妻は確信を強めた。
「私にはわかるの。もう何年付き合ってると思ってるのよ?」妻は束の間の沈黙を破った。
「隠し事なんかしてないよ」夫は頑として認めなかった。その声は少し苛立っているようにも思えた。ますます怪しい。
再び沈黙が二人を包んだ、その直後だった。
「あなた、宇宙人でしょう? 私にはわかるんだから」妻は断言した。
「なぜ……」夫は信じられないというような顔をした。
「バレてないとでも思ったの? 先月、出張から帰ったときから、なにか変だった」妻はまっすぐに夫を見つめてそう言った。「最初は勘違いかも知れないと思ったけど、考えれば考えるほど、宇宙人なんだ、って。そう考えると納得したもの」
妻がたどり着いた突拍子もない思いつきというのが、これだ。にわかには信じられなかったのも無理はない。そもそも彼女にとって、宇宙人とはあくまで空想の産物であり、見たことも聞いたこともないのだ。だがどういうわけか、今の彼女は確信を持っていた。
一瞬の沈黙が流れた。
「よくわかったな……僕は地球人じゃない」夫は諦めたようにそう言った。
「へえ、やっぱりそうなのね? それにしてもずいぶんと上手に化けたじゃない?」妻は目を細め、その夫を名乗る宇宙人をキリッと睨みつけた。「彼を返してよ! あたしの大切な夫を!」
「いや、化けているわけじゃない。僕はもともと、このままの姿だよ」夫は言った。「見た目は全く地球人と同じだ……それでこの前『出張に行く』と嘘をついたが、実は用事があって
妻の疑惑の表情は、徐々に納得に変わっていった。そうか、夫が出張から帰宅したときの違和感、あれは、夫が偽物と入れ替わったからではなく、嘘がバレやしないかとビクビクしていただけなのだ。確かにそう思うと納得できるものがあった。
さらに夫はこう付け加えた。「安心してくれ。地球人を誘拐して入れ替わったわけじゃない。僕は最初から僕だったよ」
「えっ? じゃあ、あたしは宇宙人と付き合って、宇宙人と結婚したの?」妻はまた新たに浮上した疑問に困惑していた。「十年間、ずっと宇宙人といっしょにいたの?」
正確に言うとそうではなく、『そう思い込んでいた』のだが、さてどこまで話して良いものか……彼は少し考えた。
「今から説明するよ」夫がそう言いながら立ち上がった途端、妻はめまいを感じた。
* * *
「……そしたら、そいつがつり革を持ったまま、倒れそうなコマみたいに、ぐるーんと回って、その瞬間、びっくりして目が覚めたってわけだ」夫は立ってつり革を持つポーズをしつつ、電車で見かけた面白い客のモノマネをしていた。
「何それ? ヤバいやつじゃん」妻はケタケタ笑っていた。
「驚いて、ビクッとなった瞬間が最高だったな……こんな風に」そう言って夫は更に乗客のマネを続けた。「周りの乗客も一瞬シーンとなってさ、それからみんな、肩をプルプル震わせて、笑いを堪えてた。君に見せたかったよ」
「見られなくて残念だわ。今度見かけたら、こっそり動画に撮っておいてよ」妻は涙をぬぐいながら笑った。
二人はその後もひとしきり、電車の珍客の話題で盛り上がった。
* * *
暗闇の中で妻が静かに寝息を立てている。妻に背を向けて寝ていた夫は、妻を起こさないように、そっと寝返りをうち、彼女の寝顔を見つめた。
妻の記憶を消したのは、これで三回目だろうか? 彼女は勘が良すぎる、危険だ。夫はそう思った。記憶を消すのは造作もないことだが、三回は多すぎる。
この惑星には『ハインリッヒの法則』、別名『ヒヤリハットの法則』という危機管理用語があるそうだが、今回の一件はまさに『ヒヤリ』だ。『宇宙人』とて全能の神ではない。こういうことは、つまるところ確率の問題だ。今回はなんとかなったが、同じようなことを何度も繰り返しているうち、いつかどうにもならない大事故が起きてしまうかも知れない。
彼は地球人になりすましてこの街で暮らしながら、地球人の監視を続けてきた。だがヒヤリハットも三回目、そろそろ潮時なのだろうか? 突然失踪するのは簡単だし、もっと丁寧に仕事をするならば、彼女や彼女の知人が持つ『夫』の記憶を全て消し去ったうえで、何事もなかったように、ここを立ち去ることもできる。そうしたほうが良いのだろうか? 彼は思い悩んだ。
だが同時に、彼は妻の言葉も思い出していた。自分は『大切な夫』らしい……ならば、やはりずっとそばにいるべきだろうか?
夫は自分が『宇宙人』であることを悔やんだ。
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