夜奏

夜白祭里

二月二十九日の夕方に

 透き通るような音がした。

 彩季は足を止め耳を澄ました。

(喫茶店……?)

 通学路から遠回りした路地にひっそりと佇む赤レンガの小さな喫茶店から微かなバイオリンの音色が漏れてくる。

 いつもならば高校生には敷居が高いレトロな喫茶店など入る気も起らないが、今日は思わずガラス張りの扉を覗き込んだ。

 バイト代が出たばかりだったからかもしれない。

 珍しく友達と一緒でなかったからかもしれない。

 もう二度と聴けないと思っていた音色によく似ていたからかもしれない。

 意を決して扉を開けると、品の良い鐘の音が出迎えてくれた。




「運がいいですね、お客さん」

 初老のマスターがにこやかにカップを置いた。

 メニューには<奇跡の日>などと洒落た名が書かれていたが、運ばれてきたのは可愛らしい猫がたっぷりのクリームに描かれたココアだった。

「今日は四年に一度だけ、特別なゲストが来る日なんですよ」

「あ……、そうなんですか……?」

 優しそうなマスターに緊張が解け、思わず疑問を口に出した。

「あの……、どうして、ステージが見えないんですか?」

 ガランとした店内には他に客はいない。

 隅のステージらしい場所には薄いカーテンがかけられていて、誰かがいるのはわかるが、こちらからは見えない。

「それは……、ゲストからの希望でして」

 マスターはにこやかな笑顔のままで小さなメモ帳をテーブルに置いた。

「曲のリクエストはございますか?」

「え……?」

「先着一名様に限り、リクエストをお受けできますよ」

「何でもいいんですか?」

「ええ。お好きな曲をひとつだけ……。ただし、」

 マスターは少し声を落とした。

「演奏が終わるまで、カーテンの向こうは絶対に覗かないとお約束いただけますか?」

 少し怖い気がしたが、彩季は頷き、迷うことなくペンを手に取った。



 

(やっぱり似てる……)

 マスターがメモを手に去って一分も経たないうちにリクエストしたノクターンが流れてきた。

 穏やかで繊細な音色は良く知っている彼の音だ。

 少しでも近づきたくてバイオリンを習おうとした時期もあったが、上手く音を出せるまでにやめてしまった。

 「才能」というものは確かにあって、自分には音楽方面での才能は全くないのだと悟ったのはいつだっただろうか。

 そして、その才能を持っていても、誰もが神様の祝福を受けられるわけではないのだと知ったのは、二年ほど前だ。

 ある日突然、彼――、光はいなくなってしまった。

 思い出したら目が熱くなってきて、ごまかすようにココアを啜る。程よい甘さが気分を紛らわしてくれた。

(誰が弾いているんだろう……?)

 マスターとの約束はわかっているが、どうしても気になった。

 こんなに光と同じような音を出せるなんて、どんな人なんだろう?

 彼と同じ天才少年だろうか?

 それとも、女の人だろうか?

 カーテンに目を凝らしても、空調で揺れるばかりで演奏者の姿は見えない。

 店内を見渡しても、やはり彩季の他に客の姿はなく、貸し切り状態だ。

 マスターはキッチンの奥に行ってしまったらしく、曲が始まってからというもの姿が見えない。

 ほんの少し覗いても誰も気づかないのではないだろうか。

 演奏している人にも気づかれなければ……。


 ――少しくらい……


 どうしても抑えきれなくなって、立ち上がった。

 そろりそろりと足音を忍ばせてステージへ近づく。

 気づかれなければ、いいはずだ。

 カーテンの端を少しずらして覗き、固まった。

 約束が頭から吹き飛んで、思い切りカーテンを引く。

「光さん……?」

 少年は困ったように手を止めた。

「ウソ……、どうして……っ」

「困るなあ、彩季ちゃん。約束を破ったらダメじゃないか……」

 発表会で演奏する時のように正装した光は愛用のバイオリンを手に、生前と変わらない顔で笑った。

「彩季ちゃんのことだから、そのうち覗くって思ってたけどね」

 最後に見た、蒼白で横たわる彼の姿が夢だったのではないかと思うくらい元気そうな笑顔に何も言えなくなる。

「せっかく、誕生日をお祝いしようと思ったのに……。彩季ちゃん、四年に一回しか誕生日来ないんだから」

 タキシード姿の光が半透明になり、透けていく。

「誕生日おめでとう、彩季ちゃん」

 応える間もなく、光の姿は透け、ステージには誰もいなくなった。

「そっか……、今日……だっけ……?」

 自分の誕生日なんて忘れていた。

 彩季の時間は光がいなくなった時から動いていないような気がする。

 背後で足音がした。

 初老のマスターはにっこりと笑った。

「当店の四年に一度のメニュー、<奇跡の日>。お楽しみいただけましたか?」

「……はい」

 頷き、彩季は目元を拭った。

「また四年経ったら、来てもいいですか?」

 人の好い笑顔でマスターは頷いた。


    <終>

 

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