第5話

「芙海の描く絵はやっぱり好きだなぁ」


 そう言いながら一輝はタブレットを美月に渡した。絵には静寂さと荒々しさが同居している。


「私知らなかった。あんなに剣呑な芙海なんて。生まれた時から知っていて、今は恋人で、

なのに裸婦画なら描くのかを理解していない。あんな風に描くなんて知らない」


 一輝が美月を抱きしめた。


「全部しらなきゃダメなの? 美月だって隠してるでしょ」


 何も隠していない。そう口に出す前に隠し事が目の前にある事に美月は気付いた。


「芙海だって一輝と手紙の交換とかで話せると知ったら喜んでくれるのに」


 何度も現れている。どうして現れているのか。美月にとってはどうでも良かった。

 心のどこかでまた会いたいと願っている自分がいることを自覚している。

 一輝が出ていると言う事は芙海は死んでいるような物なのに。

 一輝は美月を押し倒した。


「でも身体は知ってるんでしょ?」


 一輝の口づけ、芙海の身体のはずなのに全くしらない感触。


「ねぇ抱いてよ」


 芙海と付き合っているからと言い訳もできたはずである。それと同じように芙海の身体なのだから問題は無いとも言えた。

 美月は選ぶ事ができるはずなのに選ばなかった。

 転落事故と違って自らの選択でどうにでもできるはずなのに。


「ねぇ本当に不誠実なのはだれなんだろうね」


 一輝はそう言いながら美月に触れている指を身体の下に這わせた。


***


 芙海にとって絵を描くことは楽しみでは無かった。

 描く瞬間は全神経を紙に集中させるが、それだけだった。楽しむ事と集中することは違う。


 芙海にとって嬉しいことは描いた絵を一輝が褒めてくれる所だった。賞にだしたりしたのも一輝に勧められたからにすぎない。


 何時から一輝を愛していたか芙海は解らなかった。最初から好きだった。その好きに何時から性的な意味合いが含まれるていたのか。


 一輝の布団の中に入りながら芙海は今日描いた絵を一輝に見せる。


「芙海は本当に凄いなぁ」


 一輝は芙海の頬にキスした。芙海も一輝の頬にキスを返した。ふたりしてクスクス笑った。


 そう言ったやりとりが幼少の時からあった。



 だから美月のことが嫌いだった。



 一輝を取られるみたいで嫌だった。三人で遊ぶと言っても四年の年齢差は当時の芙海には大きく感じた。

 

 それは年齢を重ねていけば行くほど大きくなっていった。

 

 小学校でのクラスの違いが国境だとしたら、学年の違いは地球と月みたいな物だろう。

外に遊びに行くことの多い一輝に芙海は追いかけようとしたけ。


「芙海? 学校でお友達できてる?」


 そう一輝に心配される。一輝に心配されるのが嫌で、芙海は一輝のクラスメイトと混じって遊べなくなった。


 芙海にも学校に友達と呼べる人々はいた。その場の退屈をやり過ごし、教室内でのいざこざを奇麗に回避するためだけの人々。芙海にとっては友達とはそう言うものだった。


 その中で唯一例外なのが美月だった。美月と一輝と芙海の三人だったら一輝と遊びに行くことが出来た。


 だからこそ美月が嫌いだった。


 美月は芙海の知らない一輝を知っていた。それが芙海には悔しくてたまらなかった。しかしそれが原因で一輝に嫌われるのはもっと嫌だった。


   

 だから芙海は絵を描くしか無かった。それ以外で一輝の気を引く方法を知らなかったから。


***


 なぜ絵を描くのを止めて美月と寝てしまったのだろうか?


 美月が自宅に戻り自室で一人きりの芙海は自問自答する。その手にはタブレットが握られており、画面には未完成の裸婦画が描かれていた。


 美月と寝る事と裸婦画を完成させることどちらが重要か。

 芙海にとっては裸婦画に決まっていた。

 なのにどうして美月と愛し合ってしまったのか・・・

 気まぐれで流してしまって良いのだろうか・・・


 思考は巡れど結論は出ない。


 何かがおかしい。


 しかし何がおかしいのだろうか?


 何が・・・

 

 深夜の墓地に芙海は向かった。一輝に会うために。

 光なんてなくても芙海には墓の位置が解っていた。戸惑うこと無く進んでいく。


 一輝の眠る墓を抱きしめる。


 そしてそこで記憶は途切れベッドで横になっていた。


 夢でも見ていたのだろうか?


 不鮮明になっていく日常。納得の出来ない選択。飛んだ時間。

 精神的な病気の可能性がもっとも高い。芙海はそう判断した。


 しかしどうしてそうなったのかは皆目見当が付かなかった。


「もうシンデレラになれないのにな」

 芙海は自嘲した。


 いきなり病院に行くことに芙海は抵抗があった。おかしい気がするだけであって、誰もそのおかしさを指摘しないのは異常であるからだ。

 例えば夢遊病だとするのならば、その夢遊病とおぼしき病状を見ている人がいなければおかしい。多重人格ならば人格の変化に誰かが気付くはずである。


「美月に相談するしか無いのかな」


 未完成の裸婦画を眺めながら芙海はぼやいた。

 芙海と今一番長い時間を過ごしているのは美月なのだから。


***


 芙海は病気になるのが好きだった。

「病気うつしちゃうよ?」

 がらがらの声で芙海は言った。

「それで芙海が元気になるなら良いよ」

 一輝が芙海の手を握る。芙海には一輝の手が冷たく感じられて心地よかった。


 病気の時の食事は卵のおかゆと二宮家では決まっていた。

 ふーふーと一輝が冷ましてくれたのを芙海が食べた。

「お姉ちゃん大好き」

 それがどういう意味の好きなのか言った芙海ですら解らない。

「お姉ちゃんが好き。食べさせてくれるおかゆが好き」

「お姉ちゃんは元気そうな芙海を見るのが好き」

 お互いに笑い合う。そんな幸せな時間はずっとは続かない。風邪が治るのと同じように終わりがある。


 おかゆを食べ終わり部屋から出ようとする一輝を、芙海は服を引っ張って引き留めた。そうすると一輝は少し照れ笑いをしながら芙海が寝付くまでずっとそばにいてくれた。  


 反対に一輝が風邪を引くのは嫌いだった。


 母が全てをやってしまうからだ。芙海は守られることしかできない。側にいたくても側にいさせて貰えない。一緒にお風呂に入れない。


 自らの無力さを絵の中に閉じ込める。芙海にとって妹であると言う事は特別な事では無い。一輝の居るところでしか愛を感じられない芙海は、一輝を必要とし続けた。


 世界が広がるにつれて、芙海の中で一輝の比重は重くなっていく。


 何十人、何百人、何千人、何億人、の中で唯一の太陽が一輝だから。


***


 いつもと同じ美月の部屋、いつもと同じように、いつもと違う言葉を芙海は口にした。

「最近記憶が無かったりすることがあるの」

「・・・物忘れ? 芙海がそういうのって珍しいね」


 美月は普段通りの自分を演じるように心がけた。それと同時に一輝との約束をやぶってしまいたい衝動にも駆られる。どちらも美月の本心だ。

 芙海は最近の自らの兆候について語り始めた。

 不鮮明になっていく日常。納得の出来ない選択。飛んだ。


「芙海は本当にみーちゃんの事が好きなんだね」


 飛んだ人格。


 美月は何時一輝から芙海に人格が移り変わったのか解らなかった。最初から一輝が演技していたと言われても美月は信じただろう。


「出てくる時にふらつきとかそういうの無くなったんだね」

「そうみたいなんだよね。芙海の言う通りでさ、最近よく出てくることが多くなったんだ。授業中とかでも出てくるしね」

「よく生活できるね」

「授業はまぁノリでどうにかなるし、芙海ったら友達少ない上に言葉数も少なくて私が死んだ時とあんまり変わって無いみたいだからモノマネすればバレない」

「ねぇ、芙海には教えてあげたいの。一輝と入れ替わってること」


 芙海も異変には気付いて居る。一輝の言っていた何時消えるか解らないと言う不安も美月は理解しているつもりだが、芙海の不安も解消してあげたい。


「それより今度デートに行こう。ショッピングモール完成したんでしょ」


 元々遊園地だった場所で、街の再開発でできたショッピングモールだ。一輝が生きている頃はまだ完成していなかった。


「ねぇ・・・」


 美月の発言を人差し指で一輝は止めた。


「みーちゃんは、私と芙海どっちが好き?」


 その答えは決まっていた。一輝だって知っている。しかし美月は口にできなかった。

 もしそれを口にしてしまえば、一輝が死んでからの今までの全てを否定するような物だから。


「ワガママ聞いて欲しいな。あぁそろそろ芙海が出てくるみたいだから美月からデートに誘った事にしておいて、記憶喪失にはデートが良いって言えばたぶん大丈夫・・・・・・今私の記憶がありませんでした。どうでした?」

 

「私に説明してたよ。授業中でも記憶が飛んだりしてるし、友人と話していても友人も気付いていないって」

「私はちゃんと動いているのにどうして記憶が無いのか・・・」

「気分転換に今度デートしよう」

「美月は真剣に考えてるんですか?」

「記憶喪失にはデートが良い」


 芙海は驚いた表情こそ見せなかったが一瞬の沈黙が答えになってしまった。一輝の言葉は不思議だ。どんな扉だってあけられる鍵みたいに、人の心の中に入っていく。


「ショッピングモールが特に良い。だから今度ショッピングモールにデートしよう」

「・・・姉さんみたい」


 一輝の言葉だよ。


 そんな短い言葉すら美月は口に出来なかった。


***



 芙海は遊園地が嫌いだった。

 と言うよりも人が多いところは基本的に嫌いだった。もっと言えば人が嫌いだった。自分も姉さんも人でなければ良いのにと芙海は考えたが。何になればいいか解らなかった。


 芙海がいるのはメリーゴーラウンドの前だ。子供の芙海には迷子センターに行こうと言う考えが無かった。迷子であるとすら思っていなかった。


 ただ姉がいるかいないか。それが判断の基準だった。


 人々の声が芙海の周りを飛び交う。喜び、悲鳴、雑談、アナウンス、それら全てが芙海には不協和音でしかなかった。


 一輝の声があればそれだけで良いのに・・・


 一輝の居ない世界を考えただけで芙海は怖くなった。泣き出しそうになったが、我慢をした。回る回るメリーゴーラウンドを眺めながら、同じ時間が一生続くのでは無いかと妄想に駆られてしまった。


 不協和音の中で美しい音が響いた。


「芙海!」


 芙海が振り向くと同時に一輝が抱きしめた。


 芙海はメリーゴーラウンドが嫌いになった。


 芙海は母親と一輝は父親と一緒に馬にのった。夢の世界の音色を奏でながらメリーゴーラウンドは回り始める。


 回って景色が変わり始めるけれど、木馬が先の木馬に追いつくことは無い。


 芙海は手を伸ばした。手を伸ばしたところで前にいる一輝との距離が縮まることは無い。 それは現実でも同じで、そして現実と同じように終わりがあった。



 芙海は観覧車だけは好きになれそうだった。


 一輝と二人で手をつなぎながら徐々に登っていく景色を眺めていた。徐々に人や物が小さくなっていく中で世界が二人きりのように感じていける。


「きれーだね」


 一輝の囁くその言葉は芙海の物では無い。それでも芙海は嬉しく感じられた。芙海にしか伝えられていない言葉だから。


「うん」


 しかしそれも一瞬で終わってしまう。メリーゴーラウンドも観覧車も結局は一緒だった。 横に回るか縦に回るか。そしていつか終わってしまう。幸福も望みも。


 芙海は絵を描くことが好きになった。

 一輝に絵を見て貰う事は好きだった。でもそれが絵である必要は無かった。たまたま絵を上手に描けて一輝に褒めて貰える。それが絵だった。


 絵は変わらない。


 永遠にあり続ける。

 

***

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