2年生編7月
◆中弛みの夏
クーラーの運転が開始されても暑い事実は変わらない。廊下は暑い。通学路も暑い。日本の夏はとても暑い。
「侑希先輩はもちろんとして、カイ先輩も頭がいいとお聞きしたのですが」
秋桜が二年生の教室に訪ねてきたのは突然のことである。冷房の届かない廊下と教室の境目で、三人は顔をあわせていた。上級生の教室が密集している階廊下を歩くことは、なかなか勇気が必要と見受けられるが、秋桜の場合は周りを気にしていないように感じられる。
「うみちゃん、政経は苦手だったよね」
「任せろ。今年は政経の授業がない!」
「世界史大丈夫?」
「……流れは分かってるよ」
人間が作った歴史はとても難しい。一部内容は誰かの都合で書き換えられているし、全く持って事実とは違うことが伝承されていることもある。実体験をしてきた身からすれば、とてつもなくやり辛い。百年経たないうちに歴史は変わるのだから、覚える必要性も理解できない。
――人間は歴史から学ばないしなぁ……。何で必修科目なんだ?
「このあと会長を拉致って勉強会をするので、先輩方も参加してもらえませんか」
一部単語のチョイスがよくないが、怠けている先輩を正そうとする後輩はきっと優しい。しかし、海も侑希も生徒会とは関係ないし、涼子が赤点を取っても関係ない。
「テスト期間ですから文化祭準備ないですよね? はい、お二人ともお願いします! 生徒会室で待ってますからね」
早口気味の後輩は勢いよく階上へ消えてしまった。
「何で私たち先輩なのに、拒否権ないの?」
不満よりも戸惑いが大きい。
「うーん。そうだね。アキちゃんはこう!って決めたことは、周りを見ないで強行する悪癖があるからかな」
「分かってたなら先に止めてよ。昔からの先輩なんでしょ?」
「うみちゃんも勉強した方がいいよ。一緒に頑張ろう?」
侑希の目も笑っていない。
「実行委員をやって成績下がったら、来年ますます立候補者減っちゃう。それにわたしが怒られちゃう」
「侑希ちゃんのことを怒る人を私が怒ってあげる」
「そんな無駄なことするより勉強して」
「はい」
放課後、侑希に監視されるような形で共に生徒会室へと足を運ぶと、主賓はすでに秋桜によって連れてこられていた。あの涼子を上手く扱うなんて恐ろしい子だ。
「先輩たちは去年の傾向教えて下さい。可能なら去年のテスト用紙ください」
書記は涼子のためと言うより、自身の成績のためにメンバーを募った説まである。
「テストなんて全部捨てちゃったよ」
海はテストを返却されたその日にゴミ箱に入れている。学校でやれば当然面倒なことになるため、家のゴミ箱だ。
「うみちゃんはほんと……」
侑希が呆れた表情を浮かべる。
「私は一応残してありますけど、担当教諭が同じとは限りませんわ」
「えっ、何で残してるの!?」
まさか涼子が保管しているとは思わなかった。保管をわざわざする必要性が分からない。
涼子のセリフを補足をすると、東高等学校の定期考査は数学と英語を除いた科目は教科担当がそれぞれ問題を作成するため、担当によって平均点が五十点近く開くこともあるそうだ。担当が同じであれば試験の傾向は似てくるが、違う場合は全く参考にならないこともある。
科目担当は学年関係なく、各学年を担当することもある。
「わたしも高校のテストはまだ手元に残しているから、涼子ちゃんといくらか被ってないやつ貸せると思う。去年って担当の先生違うの何だったっけ?」
「現代文、化学は違っていたかと」
海を除いた三者で話が盛り上がっていく。何も知らなければ、涼子も少しばかり話し方が変なただの女子高校生に見える。あまりにもここ一年一緒にいた彼女は魔女らしくない。
生徒会長なんて立候補して、表向き学業に励んで(今年は大方ズルをしているが、彼女が数学だけ真面目に取り組んでいることを海は知っている)、後輩の面倒もみている。海よりも生きてきた時間は短いはずなのに、涼子の方が暇をつぶすことに尽力している。
――もう疲れちゃったなぁ。歳かなぁ。
「うみちゃん、今回生物のノート提出あるけどちゃんととってる?」
「とる? 何を?」
話を聞いていなくてアホみたいな返しをしてしまった。
「板書。写してる?」
「えーっと、貸してください」
「はい、どうぞ。問題集も最低一周して試験当日に提出だよ」
海の答えは分かっていたようで、侑希が手際よくノートを差し出してくる。
「え、嘘。聞いてない」
「……うん、うみちゃんは本当に聞いてないもんね。ちなみにもっと言うと中間テストの範囲も今回チェックされるから、そこもやっておかないと通知表に響くんだよ」
肩を寄せ、問題集はどこのページまで、ノートを写すなら色分けをするようにと細かくアドバイスをする侑希を見て後輩は、「お母さんじゃないですか」と小声を漏らした。
「歳を取っても根本は変わりませんわね」
めちゃくちゃ変わった彼女にだけは言われたくない。
「この歳でお母さんは嫌だってば」
「侑希先輩のそうゆうところいいと思いますよ。でも、人間でもペットでも甘やかし過ぎるのはよくないと思います」
「……なんかうみちゃんってかまいたくなるというか、放っておけないんだもん。涼子ちゃんなら分かるでしょ」
「………………分かりますわ」
「何、今の間」
去年も似たようなことを言われた気がする。
「会長はちゃんと提出物やってます?」
嫌な予感でも働いたのか、元から信用がなかったのか、秋桜が涼子の手元を覗き込んだ。
「終わりよければ全て良しですわ」
提出日直前に魔法を使うことが果たして、良しとカウントしていいのか。本人曰く、今回の期間は勉強に比重は置いていないそうなので、魔女的には良しかもしれない。
「中間考査、私ちょっと数学低かったんですよね。数学のハードル結構高くありません?」
「え、アキちゃん……前回八十いくつって言ってなかった?」
「はい、数Aだけ八十四でした」
――侑希ちゃんって、後輩にも嫌な顔をするんだな。
「わたしたちの過去問って必要ある?」
「? 出来る限りの対策を取った上で満点を目指すべきじゃないですか?」
「…………」
侑希は肯定も否定もしなかった。海と涼子も何も言わない。秋桜だけが、どうして同意を得られないのか分からない顔をしている。
「点数はともかく、秋桜、あなた一年生なんだから、同じ授業を受けている子たちと勉強した方がいいじゃありません? 教える方が勉強になることもありますし」
「一理ありますが、忙しいので先輩方から話を聞く方が近道できると思ったんです」
――友達いないのかな。
「明日テスト持ってこようか? それとも写真撮って送った方がいい?」
「持ってきてくださるなら教室に伺います」
「じゃあ放課後待ってるね」
「ありがとうございます!」
「私も今日探して持っていきますわ」
「ありがとうございます。ついでに伺います」
「……態度違い過ぎません?」
「会長も、カイ先輩もですけど、敬ってほしいならまずはきちんと制服を着てください」
海と涼子の目が合う。制服はお互いに着用している。夏服の季節のため、冬ほど崩れた着こなしはしていないが、秋桜からするとアウトらしい。
「第二ボタンは閉めてください。あとお二人共、冷房が寒いならジャージやカーディガンではなく、ブレザーを羽織ってください」
襟元を開放的にしているのは海だ。冬服でネクタイの着用が強制される時ですら、第一ボタンは閉めない。
「……侑希ちゃんの中学は真面目な人じゃないと入れないの?」
「公立の中学だから、学区であれば誰でも入れるよ。……まぁアキちゃんは真面目だけど、この場合はうみちゃんが不真面目なんじゃないかな」
――やー絶対にシルヴィアの方が不真面目なんだけど……。
人間の生活の中で偽装している彼女は、一見真面目そうに見える。
――ずるい。
「皆さん、そろそろちゃんとテスト勉強しましょう。会長、手を動かしてください」
一番不真面目そうな頭髪をした彼女が口うるさく涼子へダメ出しをしている。生まれながらと言うピンクの髪は、染色剤を使っても染まらないのだろうか。それとも染色は禁止という校則を律儀に守っているだけだろうか。
「うみちゃん、数学教えて」
侑希の細い指が問題集を勢いよくめくっていく。当然のように海が教えてくれると分かっているから、彼女の視線は問題集から外れない。
見慣れた横顔。
相変わらず可愛らしくて綺麗な顔だった。
◆初めてのお使い
一学期の期末考査が終了し、校内は一気に文化祭ムードになる。校内に出入りする回数が増え、廊下や教室内にあらゆる備品が増えていく。この頃になれば三年生の劇の配役も決まり、ベランダや外廊下から発声練習も聞こえてくる。
「あれ?」
生徒会に資料を届けていた帰り、入れ違いのように秋桜と出会った。彼女とよく出会うのか、たまたま目立つだけなのか、話す機会が多い。
「買い出し?」
「はい。クラスの方で備品を買いに行くところです」
秋桜の周りに一年生の姿は見えない。
「一人で行くの?」
「はい」
何か?と言いたげに秋桜は眉間にしわを寄せた。
「ちなみに何を買いに行くの?」
「……ホームセンターに行って、画用紙とかガムテープとか……画材ですね」
「重くない?」
「そんな遠い距離じゃないですから。それにみんな部活も楽しい時期でしょうし。大体の人にとって文化祭は当日と数日前の準備期間だけが楽しいものなんですよ。準備期間なんて冷房に当たれなきゃいいことないです」
「一年生のくせに見たように言うな」
「だから、実行委員をやっている先輩たち尊敬しますよ」
「どうした、素直じゃん」
「訂正します。実行委員をされている侑希先輩は尊敬しています」
「可愛くな。……私もホームセンター行こうかな」
「え、何でですか。サボりですか。ストーカーですか」
善意の塊だったはずなのに、全力で疑われた。
「サボりでいいよ。……侑希ちゃんに連絡しとこ」
一年前とは打って変わって、片手でも楽々に文章を打てるようになった。少し戻りが遅くなることだけ伝え、嫌な顔を隠さない後輩と共に昇降口でローファーに履き替える。
「あっつ」
白い肌に夏の日差しはダメージが大きい。
「無理しないでいいのに」
海の表情を横目で見て、秋桜が小さな声で呟く。海は聞こえないふりをして坂の上のホームセンターに視線を注ぐ。蜃気楼のせいか、少し視界が揺らぐ。
「日本人はよくこんなにも暑いところで過ごせるな……」
「先輩は日本に来る前どこにいたんですか?」
――どこ、って設定だっけ。
暑さのせいか思考回路が停止し始めていたので、
「もう少し涼しいところ。あと人がもっと少ないところ」
本来、海が人間界で過ごしてきた場所は人気があまりなく、温度変化のあまりないところだった。火傷をしなくとも、直射日光は好きじゃない。
「アイス売ってるよ、アイス」
秋桜が呆れた顔をして、涼子のように深い溜め息をつく。わざとらしくズレた眼鏡を片手で戻しながら、
「侑希先輩が世話を焼きたくなる気持ちがなんとなく分かります。アイスは買いません。とっとと買い物済ませますよ。カート押してもらっていいですか」
問答無用でカートを海に押し付け、秋桜はノートの切れ端に書いてあるものを探して入れていく。
「……スマホにメモじゃなんだね」
最近の人間は、なんでもかんでもスマホを使いたがるものだと思っていたので、時代の最先端をいく女子高校生が手書きのメモを持っていることがなんとも可笑しく感じてしまった。
「これですか。まぁ共有するとか残しておくんならデジタルが便利ですけど……、急いでいる時にメモるならアナログが速いですよね」
そう言って手元のメモを見せる。急いで書いたわりには几帳面で綺麗な字だった。
「そのメモ全部買うなら、やっぱり一人より二人の方が効率よかったんじゃないか」
種類もそこそこ多く、重量のあるものもいくつか見受けられる。
「……持てなくはないですから」
「何でそこで意地を張るの?」
侑希よりも低い位置にある頭。髪色ばかり気を取られていたが、高校生の平均身長よりもかなり低い。
「身長いくつ?」
「何で今そんなこと聞くんですか? 馬鹿にしてます?」
「してないよ……」
秋桜は教えてくれなかった。速足でレジまで向かい、しっかり「領収書お願いします」と伝える。海は去年領収書をもらわずに侑希に怒られたことがある。
「ちょっと袋詰めお願いしますね」
「え、どこ行くの、って聞いてないし……」
お手洗いかもしれない。あまり突っ込んで質問しても怒られることが多いとこの一年で学んだ。なるべく均等な重さになるように買ったものを分けているところで、
「うぉあっ!? 冷たっ!?」
開かれた首元に冷たく、濡れたものが当たる。
「何度言っても第二ボタン閉めませんね……。はい、どうぞ。アイスはダメですけど、飲み物くらいは。付き合ってもらって熱中症になられたら後味悪いですし」
キンキンに冷えたスポーツドリンクをおずおずと受け取る。急に優しい態度をされても反応に戸惑う。
「ありがと……」
冷たくて気持ちいい。ぬるくなる前に少しだけ飲んでおくことにした。
「さぁチャージできたなら戻りましょう。チャキチャキ行きますよ」
「そんな焦らなくても」
「時間は有限ですからね。教室戻れば冷房だってあるんですから、ほら、持ってください」
一年生の教室まで荷物を運んだ後、自分の教室に戻ると侑希から「どこに行っていたの!?」とまた怒られた。怖くはないが、非常に申し訳ない気持ちになる。
「時間ないんだから。あ、そうだ。今からお化け屋敷の壁に使う段ボールを取りに行こうって話になってて」
海たちのクラスは今年お化け屋敷を開催する運びとなった。教室の範囲でしか作ることができないので小規模になるが、その分道を狭く複雑にしようと話をしていた。
「うみちゃんも手伝って」
サボっていたわけではないが後ろめたい気持ちもある。ものを運ぶくらいなら……と親指を立てるが、一つ嫌な疑問が湧いた。
「段ボールってどこに取りに行くの?」
「えっと、ホームセンターか隣のドラックストアだね。わたしとうみちゃんはホームセンターの方行こっか。大きいやつは二人じゃないときついかもしれないから」
海は仕方なくペットボトルの中身を飲み干して、
「帰りにアイス買ってもいいですか?」
「駄目です」
◆偽物の関係
「ねぇ、若宮さん」
文化祭の準備をするに当たって、海と礼奈が顔をあわせることは少なくない。礼奈が話しかけてくることは珍しくないが、その度に海は無感情を貫いている。特に七月に入ってからは、なお彼女と極力関わらないようにしていた。
会って、話してまずいことはないが、極力彼女の周りの環境を壊したくない。海が気づいていないふりをすれば、きっと彼女は人間のふりをして卒業ができる。
「今度ね、バスケットの試合があるの」
そんなことを考えていたにも関わらず、いきなり文化祭とも関係ない話題を振られてしまう。
「そうなんですか」
ほとんどの部活は三年の夏に行われる大会が最後になる。バスケ部も例外ではないらしい。しかし、それは海と関係性を持たない。
「そうなんですよ。だから若宮さん、一緒に観に行かない?」
「はい?」
なぜ、海がわざわざ関わりのない部活動の活動に行かなければならないのか。なぜ、わざわざ礼奈が声をかける相手が海なのか分からない。
「委員会とクラスの方も大丈夫。ちゃーんと宮本さんの許可は取ってるから。……校門前に九時待ち合わせで」
海の答えを聞きもせず、礼奈は騒がしい人混みの方へ行ってしまった。未だに脳内の処理が追い付かない。
……ついに実害が起きてしまった。
取って食おうとするわけではないだろう。だからこそ、彼女の真意が掴めない。
でも、上級生として――先輩として振る舞っていた彼女のあんな切ない表情を見せられてしまったら、行かないのも後味が悪い気がした。
試合と言われて、てっきり学校で開催されるものと思っていたら、少し離れたところにあるアリーナで行われると知らされて来たことをちょっとだけ後悔した。
高校生で、アルバイトもしていないはずの彼女は海にタクシーを用意し、決して女子高校生には安くない額を顔色も変えずに支払う。
「お小遣い結構もらってるんですね」
嫌味を言うと彼女は自嘲気味に、
「もらってもね、使い道がないの。本当に何が欲しいのか……分からないのよ」
彼女の影を後ろから追いかける。等身大の人間。彼女からは確かに人間らしいにおいがする。
「先に飲み物買っちゃおうかな。……飲めないものあります?」
しかし、彼女は海を大魔女のカイだと分かっている。徐々に皮を剥いでいく。彼女自身の手で。
「……今は先輩と後輩ですよ。敬語とかノーサンキューです」
「分かったわ」
「ちなみに飲み物はお茶がいいです。五百の」
「そこは後輩らしく遠慮しないのね」
「タクシー代かっこよく出しておいてケチくさいこと言わないでください。センパイ」
ピッと電子音。少し遅れてガラガラと重たいボトルが大きな箱の中で転がり回る。
「自販機って魔法みたいですよね」
取り出し口の蓋が思っていたより堅い。
「中身の仕組みを知らなければ、魔法も人間の知恵も分からないですから」
海には今から始まる試合が何回戦目で、どのくらい重要な試合であるか分からない。あえてなのか礼奈も説明はしてこない。海も聞かない。ここまで来ても興味が沸かない上に、ルールも分からない。
「ここ、有名なチームのホームアリーナなのよ。まさかここでプレイできるなんて。運を使う場所が違うのよ」
礼奈がよく分からない愚痴を言っているうちに、館内にブザーが鳴り響く。
小平藤一郎の背中には4の文字。
「彼、本当は運動神経あまりよくないの。そこそこ身長はあるからバスケットという競技は不利ではなかったけど……、エースを背負えるほどの実力なんてなかった」
藤一郎にボールが回る。ドリブルをして数メートルでガードに囲われ、同じ色のユニフォームの仲間へと回していく。
「実力ないくせに負けん気だけは強くて、単独行動しがちで、結果が空回りしてレギュラー外されて。未だに本人は分かってなくて無意識にやれるようになっただけだと思うけどね」
先輩としてしか見てこなかったが、今は礼奈が少し幼い少女に見えた。
ふと、その表情を見て、頭の中のパズルが繋がった。
「……あなたは、誰かのフリをしているんですね」
「…………さすが」
牧瀬礼奈と称される個体は話し出す。唐突に、唐突に終わって仕方なく始まった彼と彼女の物語。誰が救われるのかも分からない物語。
「あれは、よくある悲しい出来事だったの。
牧瀬礼奈と小平藤一郎は幼馴染で、小さい頃はよく二人で遊んでいたわ。まるで家族のように、当たり前に一緒にいて――」
牧瀬家と小平家はお隣同士、家族ぐるみの付き合いを子供たちが生まれる前からしていた。
たまたま同じ学年に生まれた礼奈と藤一郎は、必然的に同じ時間を過ごすようになる。
きっと、少女漫画であれば、二人は紆余曲折あった後に結ばれる。
しかし、これは漫画ではなく、男女の幼馴染が運命に振り回されるだけの現実。
思春期の男の子であれは、異性より同性同士で遊ぶ方が楽しい時がある。女の子といたらからかわれる、恥ずかしいと思う時がある。藤一郎にはあった。ちょうど中学生の時だった。
礼奈は世話好きなところもあり、学ランを纏った藤一郎にとっては恥ずかしい象徴であったのは仕方のないことかもしれない。
藤一郎がバスケットボール部に入り、礼奈がつられるようにマネージャーとして入部した時も二人の関係は良好とは言えず、
『何でマネージャーなんだよ。お前も女バス入ればよかっただろ』
『うーん。私にはマネージャーの方が性に合うから。それにとうちゃんがバスケしているところを見るのが好きなんだ』
彼女はいつでも真っ直ぐ彼を見つめていた。
『とうちゃん、何で昨日部活来なかったの?』
『うるせぇな。お前に関係ねぇだろ』
話をすれば拒否の姿勢。
機嫌が悪ければ、礼奈のことを無視する。
それでも礼奈は幼馴染のことをかまう。
最後の日もいつも通りだった。
いつもの夏より前日よりもやけに暑くて、蝉だけがうるさい日だった。
『とうちゃん、早くして。遅刻しちゃうよ』
『お前なんでいるんだよ』
『マネージャーだもの。私だって参加するよ。それに部長からとうちゃんのこと連れてこいって言われてるし……』
部長の単語が出てきた途端、藤一郎の顔が曇る。
『俺はあいつと違ってレギュラーじゃねぇから。今日だって出れやしねぇよ』
『そんなこと言わないで。監督が最後の試合は全員出すって言ってたじゃない』
『そんな情けみたいなことされても嬉しくねぇ』
重たいスポーツバックを肩にかけ、迎えに来た幼馴染を置いていくように早足で歩き出す。
『待ってよ、とうちゃん』
コンプレックスを刺激され、理不尽に藤一郎の怒りは高まる。これ以上彼女といるのが辛くて、藤一郎は交通量の少ない道路を横断して逃げようとする。
確かに住宅街にあるこの道路は交通量が少ない。しかし、ゼロではない。
車という凶器はあったのだ。
夏が見せる蜃気楼。
藤一郎は無事だった。後ろから盛大なブレーキ音にびっくりして足首を軽く捻挫したくらい。このくらい無事以外のなにものでもない。彼からすれば生きているそれだけでいい。
ツーテンポほど出だしが遅れた礼奈は、大丈夫ではなかっただけの話。
よくあること。珍しくないこと。
死亡事故なんて年間三千件ほど起こるのだから、一人の女子中学生が横断歩道のない道路に飛び出して、自動車に撥ねられるなんて珍しいことでもない。
試合の毎に藤一郎にだけ作ってきた弁当は食べられることなく宙に舞った。それから重力に負けて熱いアスファルトの上に叩きつけられた。
保健体育の授業で実習した応急処置も心肺蘇生法も役に立ちはせず、藤一郎は礼奈に駆け寄ることもできずに立ち尽くしていた。足が痛いのではない。
彼女に世界記録のスピードで駆け寄っても助からないと分かってしまっていたから。
運転手と思われる男と思われる人が、何か言っている。
『れいちゃん……れいちゃん……』
少年の声は震える。
先程もきちんと向き合わなかったから、彼女が死を悟った瞬間に何を言ったのか分からない。
『とうちゃん、■■■』
きっと彼を呼んだ。
「俺だって、大好きなんだ。嘘じゃない。違う。お前のことが嫌いだったわけじゃない。違う、れいちゃん、信じてくれ。俺は」
自身の叫びも熱い大気に溶かされていく。
気づいたら救急車が人数分到着していて、少年と少女は別に運ばれた。
「違う!! 俺は違う! あいつが! 早く会わせてくれ!! 頼むよ、会わせてくれ!」
彼は気づいていなかったが、発狂し、額をアスファルトに叩きつけており、ひどい有様だった。精神的状況も緩和見て、彼女とは別に搬送されたのだ。
早朝でありながら外気温が三十度を超える真夏の日。牧瀬礼奈、享年十五歳、死因脳挫傷。
「私はそれから牧瀬礼奈として生きているの。彼の記憶齟齬はリセットの影響と記憶改竄によるものね。彼自身、牧瀬礼奈の死をひたすら否定していたから、リセットがあっても結構上手くいってたのよ……」
失意の底に墜ち、自我を保つために彼女の死の原因を自分にあると責めた。
空虚な夏休みの最中、突然日常は戻る。
偽物の牧瀬礼奈は、彼も家族も友達も騙す。高校は彼と二人だけの進学に調整をし、彼の記憶を呼び覚まさないようにした。
……魔女にとって、小平藤一郎という人間はどうでもいい。
彼女が守りたかったのは、牧瀬礼奈の小平藤一郎への想い。
まるでアリーナの天井の更に上を見つめるように、彼女は上半身を後ろに倒す。
「……彼が死ぬまで牧瀬礼奈を演じるんですか?」
「さぁ。彼が結婚して、牧瀬礼奈のことを忘れればそこで終わりかな」
魔女はひと呼吸置いて、独り言のように、
「彼女が生き返ればなんて思わない。それはどんな魔女だってできやしないもの。……ただ、私が牧瀬礼奈に生き変わることはできないのかな……」
牧瀬礼奈が生きてきた十五年があり、上手い具合にリセット後も藤一郎が魔女との思い出を、幼馴染との出来事に書き換えをしているに過ぎない。記憶の齟齬が起きる限り、永遠に上手くいくわけがない。彼の夢も、彼女の努力もいつか終わる。
「私は……」
海には彼女の願いを叶える力がある。彼女に不可能なことはない。しかし、それを許すわけにはいかない。世界の調律も彼女の役目だからだ。
「ううん。ごめんなさい。その先は、うん、言わなくていい。忘れて」
牧瀬礼奈は背番号四をつけた幼馴染の名前を呼び、大きく手を振る。
「ずっと努力していたのにね、バスケ下手だったから。だからね、牧瀬礼奈と上手く関われなかったみたい。人間のプライドなんてドブに捨てればいいのに」
照れくさそうに幼馴染を見返す彼に、その面影はない。
「すごいのよ、本当に。……あーあ、見せてあげたかったな」
これ以上彼女は昔話をしなかった。
海は魔女の名前すら知らない。隣にいる個体の名前は偽物だ。きっとこの先百年近く、彼が生きている限り、彼女は自身の名前を口にしないだろう。
そしてこの先、彼女の過去について聞くことはない。彼女が本当に大切にしているものも、海には分からないし、知ったところで何もしない。
「試合、終わったね。帰ろうか」
「声をかけに行かなくていんですか」
「……男のプライドがあるだろうから。お疲れ様は今度かな」
外に出るなり、蝉の声がうるさい。
頭の中に響いてくるような騒音。
――夏なんて早く終わればいいのに。
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