1年生編1月

◆初めての年越し。日常


 侑希との電話は、年を越してから十五分ほどで終了した。彼女の親戚の提案により、急遽初日の出を見に行くことになったらしい。そのために仮眠を取るからとあっけなく終わってしまったのだ。話を続けところで、彼女たちの会話になにか特別な意味はない。

 それでも、

――残念な気持ちになるのは強欲なことなのかな。

 リビングに戻っても酔っ払いしかいないならと、自室で熱が残るスマートフォンを抱いたまま目を瞑る。年が明けても変わらない。いつもと同じようにすっと眠気が来る。

 次に目を覚ました時、初のお日様は空高く昇り切っていた。

 海からすれば、やはり新年の幕開けと言われても実感が湧かない。ひたすら新年のあいさつを繰り返すテレビの前で眠っている涼子を蹴飛ばす。

「あら……おはようございます」

「おはよう。あけましておめでとう」

「もう新年ですの……」

「そうだよ」

 気分でもう一回転がっている同居人を足先でつつく。

「見て。侑希ちゃんから初日の出の写真送ってもらった」

 海沿いの写真で、一枚は太陽だけ、二枚目は侑希と思われれるピースサインも一緒に収められていた。

「綺麗ですわね」

 涼子がやっとの思いで重たい身体を起き上がらせる。

「正直一月一日の太陽と一月二日の太陽の違いがどこにあるのか、我々には分かりませんけれど」

「……太陽自体には変わりないもんな」

「そうゆうことですわ」

 顔を洗うと言って、涼子は洗面所の方へ消えて行った。

 残された写真と、リビングの窓から見える太陽を見比べてみる。同じもののはずなのに、写真に収められている方に特別を感じる不思議。

 スマートフォンをテーブルに置き、ベランダに出てみることにした。

 東京まで電車で三十分ほどの場所にある住宅地。ほとんどが都内へ仕事で通う人のベッドタウンである。普段は学生ばかりが溢れる街になるが、この時期は大人も多い。

 地上に人は多いが、海がいる部屋は地上よりもずいぶん高い位置にあるおかげで空気は悪くない。

 どこかで、群衆を「まるでゴミのようだ」と言うセリフを聞いたことがある。

「どちらかと言うと虫だよな」




◆校内の静寂。校外の喧騒


 三学期が始まり、一時期校内はとても忙しそうに回っていた。

「センター試験ですわ。これを皮切りに三年の方たちは受験戦争ですわ」

 涼子曰く、三学期から三年生は受験のため自由登校に切り替わる。

「センター試験前後は教師含めドタバタしてますが、週が開ければ急に静かになりますわ。在学生たちからすればピリピリした年上がいなくなるんですから、ちょうどいい期間でしょう」

 海も涼子も今回受験は関係ない。二年後、受験をしたとして入学する頃には全てなかったことになる。

「日本っていい大学に進学したところでいいことあるの?」

「偏差値が低いところよりは高いところにいった方が、可能性は広がるというだけの話だと思いますよ」

 涼子の言った通り、土日のセンター試験が終わり、翌週にもなると校内の空気は随分と空気の流れがよくなった。

 少しでも暖かい室内にこもり、海と侑希は窓の外に視線を向ける。

「文化祭の時はあんなに賑わってたのに変わるね」

「ね。図書室も随分人いなくなってたよ」

「侑希ちゃんって図書室使うんだ」

「参考書も置いてあるからたまーにね。うみちゃんは進学先とかどう? 少しは絞れた?」

 東高等学校の進学率は、浪人も含めると百パーセントになるそうだ。就職を選ぶ選択肢がないとも言える。

「んーまーったく」

 二年なんてあっという間に過ぎる。魔女からすれば――海からすれば、二年など生きてきた時間の千分の一にも満たない。

「受験は二年後かもしれないけど、一年後にはみんな受験勉強始めちゃうよ」

「大変だ」

「まーた、うみちゃんは他人事みたいに言う」

 あまりにも他人事な感じで返したせいか、さすがの侑希も少し怒った顔をする。まずったなと思った海だが時はすでに遅い。何よりも元から上手い返しも持っておらず、「勉強はちゃんとしてるよ」とだけ付け加えた。受験のためではないが、普段から定期試験の点数を維持していたおかげだ。

「本当はうみちゃんに同じ大学行こうよって言いたいところだけど、こればかりは将来を左右するもんね」

 たかが大学と言おうとして飲み込む。たかが大学されど大学であっても、同じ時は過ごせない。今現在ですら、海と侑希の感じている時の流れは違う。

「一緒に図書室で勉強する?」

「何でそうゆう流れになるの?」

「受験の練習?」

 どうやら本気ではないようで、侑希は笑った後、ブレザーのポケットから一口サイズのチョコを取り出して海にも渡した。

「溶けてないよね?」

「教室寒いから大丈夫だと思う……。心配だったら窓際にでも置いておけば硬くなるよ」

 食べようか悩んだが、予鈴が鳴った。

 三年生の様子を見ている限り、三年時の後半は学生生活<受験勉強になってしまう。海が侑希と今のように過ごせる時間は思っているよりも少ない。

――あの頃よりも短い時間なんだから、私がどうこう思い入れても仕方ないよな。

 一年生の海たちの日常は変化しない。授業は通常通りに行われ、行事もある。生徒会に所属する涼子は卒業式に向けての準備があるということで、放課後忙しそうな姿をあちこちで見かける。

「うみちゃん」

 大坪が受験の話をくどくしている最中、小声と共に侑希のシャープペンがわき腹に刺さる。

「あのね、さっきのチョコ溶けてなかったから大丈夫だよ」

 侑希はこっそりと授業が始まる直前に食べたらしい。

「それはよかった」

 思わず笑いたくなったが、大坪に目をつけられると面倒だと思い、ジャージのポケットの中から包装紙を撫でるだけにとどめておいた。


 週に一度の部活動に向かう同級生を教室から見送り、海は図書室に足を運んだ。明確な目的はない。たまたま侑希との話に図書室が出てきて、思い返してみれば行ったことがないと気づいたから見ておこうと思った。

 図書室も特別棟に設置されている。職員室の真上、三階部分。

 陽が落ちるのも早いせいか、十六時閉館と大きな貼り紙があった。

 ちょうど西日が差し込む時間で、広い空間はオレンジ色に輝いている。

 こんな時期に、こんな冷え冷えとする部屋で本を読もうと思う輩はいないらしい。委員会の当番なのか、貸し出しカウンターに暇そうな男子生徒が一人いるだけ。

 蔵書の数は、海からすれば少なく感じるが、公立高校の平均数を知らないため、図書室の規模は計れない。

「ん、若宮じゃないか」

 男子生徒以外が同じ空間に存在していないことを確認していたので、突然低い男の声がするのは予想外だった。

「……大坪先生ですか。先生が図書室だなんて意外ですね」

「僕からすれば、若宮が図書室にいる方が意外だがな」

 上はカーディガンであるものの、その下はスーツであるため某教諭よりはきちんと公務員に見える。海の先にある棚に用があるらしく、大坪は「ちょっと失礼」と大袈裟に生徒を避けながら奥へ進む。

「若宮は何か本を読むのか」

「読んでいたが正しいですかね。読みたい本は大体読んでしまったので」

「何だお前もか」

 大きな手には分厚いハードカバーの本が握られ、大坪はなにか勘違いをしたまま話を続ける。 

「僕のクラスにも、読みたい本がないから先生のおすすめを貸してくれってやつがいてな。確かに年代が違えばチョイスも変わるだろうし、薦める分にはかまわないんだが……、このご時世だからな、教師が生徒に私物を貸すことはできないだろう」

 たった十だか二十しか変わらないというのに、人間はそこまで線引をしたがるのかと海は怪訝に思う。

「数学教師でも本を読まれるんですね」

「偏見だな。僕は数学に一番近い科目は現代文だと思うよ」

 世間話の延長のように「若宮はどんなジャンルをよく読んでた?」と聞かれ、適当なことを返していたら、

「ほら、若宮も」

と、いつの間にか真新しい文庫本を手渡されていた。

「三年生がいなくて図書室も使いやすいだろ。テスト勉強で忙しくなるまで、たまには読んでもいいと思うぞ」

「……どうも」

 大坪が貸し出し手続きを済まる様子を見送ってから、手渡された軽い本を開く。

 表紙はシンプルで、タイトルも著者も見聞きしたことがない。出版の日付を確認すると最近だ。海が知らないのも無理はない。

「まぁ、大してやることもないしな」

 今思えば、文化祭実行委員会として活動できていたことは、暇つぶしとして大きな役割を果たしていた。日が暮れるのも早く、家で時間を潰すことが多くなっている。人間に薦められた本を読むのもいい機会かもしれない。

 本の借り方なんて知るはずもなかったが、ご丁寧に大きな貼り紙で手順が書かれていた。

 本をわざわざ借りるなんて、こんな機会、人間に紛れて活動しなければなかっただろう。偶然、大坪と出会わなければなかっただろう。

「……! 貸し出し期限は一週間になります」

 海の顔を見て驚く生徒を久しぶりに見た。当番の男子生徒も噂の見た目外国人が図書室に来るなんて想像しておらず、閑散とした図書室の利用客として現れたのはさぞ意外であろう。

「返す時はここに持ってくればいいの?」

「ぁあ、はい。えっと、そうです。カウンターに持ってきていただければ」

 一週間もすれば忘れてしまいそうだ。今日、明日にでも読んでさっさと返そうと決めた。


「あれ、シルヴィアじゃん」

 だいぶ空は暗くなってきた。そろそろ下校時刻で、野球部あたりの声も聞こえなくなっていた。

 下駄箱で靴を履き替えたところで、珍しくカイは涼子と鉢合わせをした。

「カイ。お一人でこんな時間までどうしたんですの?」

 お互い一人だったので、肩を並べて帰る。同じ家に住んでいても、帰りが一緒になったことはほとんどなかった。

「図書室に寄ってた」

「図書室? あなたが? わざわざ一人で?」

「行ったことなかったから」

「随分とゆっくり回っていたんですね。あそこ、そんなに広くはなかったと思いますが」

「途中で大坪に捕まっちゃって。おすすめだかで本まで押しつけられちゃったよ」

 軽いスクールバッグの中から、先程の文庫本を取り出して見せる。

「…………そうですの。相変わらずお節介な方ですわね」

「ねぇ。まぁ読んだことないし、最近暇だからちょうどいいや。シルヴィアも読む?」

「カイが読んで面白かったら読ませていただきますわ」

 海の目には、涼子がこの話題には興味がないように見えた。今でこそこんな口調で話してお嬢様アピールをしているものの、実のところやんちゃな彼女のことだから、読書など大して興味ないのかもしれない。

「このまま夕飯はファミレスで済ませる?」

「いえ、買って家で食べましょう」

「それでもいいけど。スーパー行くと混んでないか」

「ファミレスのテイクアウトでいいじゃありませんの。出前を取るでもいいですわよ」

「それならお店で食べてもよくない?」

 結局、帰り道にあるファミレスで持ち帰り用のセットを購入し、自宅のリビングで食べた。

「なんだか慌ただしいね?」

 涼子は食べ終わるとほぼ同時に立ち上がり、テレビ番組も見ることなく自室に籠もってしまった。

「なに?」

 もちろん海にはなぜだか分からない。




◆初雪。初遅刻


 この地域は、関東平野と呼ばれ、近くに山もなく平らな土地が続いている。一年を通して雪が降ることはほとんどなく、積もるのは数年に一度の頻度。

 今日の天気は雪。電車の運行に打撃を与えるほどではなかったが、自転車は走行不能、バイクはスリップ、自動車を使う人が増え、道路は渋滞していた。

「こんな日でもみんな会社に行くんだな」

 海と涼子がマンションのエントランスから出ると、スリップしたバイクの運転手が救急車で運ばれるところであった。

「あらあら。血が出てますね。死ななければいいですけど」

 気持ちを込めて言わないなら、最初から言わなければいいのにと海は思った。

「雪の時は傘使うの?」

 傘を開いてみたものの、軽い雪は風で飛ばされて横からダイレクトに当たってくる。みるみる紺色のコートは白く染まる。

「日本人風に言うならば、皆がさしているからさすでいいんじゃありません?」

 道行く人々のほとんどが傘をさしている。

 涼子も傘をさすが、海と違って白くはならない。

――ズルしてんな……。


 寒さが強くなるほど海たちの登校時間はぎりぎりに近づいていく。だから基本的に侑希の方が海よりも早く教室にいるのだが、さすがに今日は上手く行かなかったらしい。

 バスが遅れているから遅刻する旨がメッセージで届いている。

 東高等学校の生徒の多くは電車通学をしており、今回の悪天候の影響を受けたのはバスを利用する一部の生徒だけだ。クラスの大半が遅刻をするならば対策が取られるだろうが、今日は通常通りに進む。

 侑希は、一時間目の英語の途中でこっそりと教室の後ろから入ってきた。

 立て付けが悪いわけでもないのに、静かな授業中にその音はよく響く。海を含めた役八十の瞳が一斉に侑希を見るのだから、さぞ居心地悪かろう。

「おはよ、うみちゃん」

 授業が終わるまで十分ほど。海なら二時間目から参加する。

「あとでノート見せてね」

 自分のノートに視線を落とす。授業中、侑希のことばかり考えていたので、きちんと取れている自信がなかったのだ。

 ノートを見て気づく。そもそも英語の授業。海は板書を写してなどいない。

「やっぱり写してないよね」

 授業が終わった後、海の手元を覗き込んで侑希は笑う。

「そんなことだと思ってたから大丈夫だよ」

 複雑な気持ちである。

「結構雪降ってきたね。ね、見て見て。ついにわたしも手袋持ってきたんだ」

 わざわざコートのポケットから、赤朽葉色の毛糸手袋を引っ張り出してきた。

「オレンジ色で探すと蛍光色の軍手ばかり出てきたから、ちょっと落ち着いたやつにしたんだ。似合う?」

「いいと思う」

「よかった! でもまだ使ってないんだけどね」

「雪の日に使わなくていつ使うの!?」

「バス混んでて暑かったんだもん」

 手袋をしまい、次の授業の支度をしてから侑希は海の首筋を徐に触った。

「!?」

 条件反射で後退ろうとし、椅子ごとドアにぶつかる。

「冷たいじゃん! 手袋つけなよ!」

「あはは。海ちゃん、温かいね」

「カイロ使って!」

 天気関係なく、侑希はいつも通り少しいたずら好きだ。

「積もるかな? 積もったらかまくら作りたいな~」

「雪だるまじゃないんだね」

「こんなにたくさん降るなんてめったにないもの。だったらかまくらしかないよ!」

 どうして侑希がかまくらにそこまでの熱意を持っているかは分からないが、

「かまくら作る時は防水の手袋をつけた方がいいと思うよ」

 親切なアドバイスだけはしておいた。この後、極寒の世界に連れ出されるとも知らずに。

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