1年生編11月

◆魔女とは残酷で残虐な悪である


 テストの返却も全てが終わり、二学期制を取り入れている学校では成績表が配られる時期。東高等学校は三学期制のためこの時期にイベントはない。

 温度変化に弱い海はマフラーデビューをした。もちろん真っ裸で南極に放り出されても死ぬことはないが、得意不得意はある。

「うみちゃん、おはよー。もうマフラーデビューしたの?」

 昇降口でローファーを脱いでいると、後ろから遠慮なしにマフラーを引かれた。

「おはよう。苦しいから引っ張んないで、侑希ちゃん」

「今からマフラーしてたら二月とかどうするの?」

 海たちに向けられる視線の量は相変わらずであるが、十一月に入った今も敵意を感じることはない。念の為校内で不審な動きがないかも涼子に調べさせたが変わりない。

「昨日ね、妹がクッキー作ってくれたんだけど、余っちゃったからうみちゃんにもあげるー」

 手のひらサイズの小袋を強制的に渡される。

「心配しないで。わたしちゃんと食べたから! お腹痛くないし吐き気もないよ!」

「そんなに念をおされると逆に不安になるってば」

 教室に入る前にカバンの中にしまった。なるべく潰れないように、上の方に。

「侑希ちゃんは妹と仲良いよね」

「そうかなー? ふつうだと思うよ」

「普通だったら、同級生に妹のクッキー持ってこないと思う」

「そうゆうもの?」

 実際に会ったことはないが、侑希の話を聞く限りては親子関係も姉妹関係も良好に思える。ごく当たり前に愛され、ごく当たり前に愛し、幸せな家庭。本人はお金持ちではないから国立大を目指すと言っていたが、この高校に自転車で通える範囲に住んでいるのであれば少なくとも貧困ではない。

「そうだ、英語でちょっと聞きたいところあるんだ。多分わたし今日当たるんだよね」

 指名されて間違えたところで死ぬわけではないのに、同級生の多くは間違えることを恐れる。

「どこ?」

「ここの日本語訳。わたしいつも長いところ当たるんだよ〜」

「運がないんだね」

「でも晴れ女なんだよ?」

「……運動得意ならよかったのにね」


 侑希と一緒に帰るのは約束した通り分岐点の交差点までだ。今日もいつも通りそこで別れ、海は南へ、侑希は東へ帰る。

「またね!」

 侑希はあまり運動が得意でないが、高低差の多い土地を自転車で毎日往復しているうちに自然と体力はついた。入学してしばらくは自転車から降りて押していた坂道も、鍛えられた今なら漕いで上ることができる。

「そうだ、牛乳と卵買って帰らなきゃ」

 クッキーとなり冷蔵庫から消えたものを買ってきてほしいと言われていたことを思い出し、侑希は帰り道にあるスーパーに立ち寄ることにした。

 卵はカゴに入れると最悪な事態になるのでリュックにつめる。牛乳はカゴの中でも大丈夫だろうと思い、一度袋ごと置いたところで制服のスカートを下から引っ張られた。痴漢かと思い、過剰に反応をしてしまったが、

「!? ……なんだ、子どもかぁ」

 幼稚園生になっているかも分からない男の子が、たった一人でそこにいた。

「ボク、どうしたの? ママとはぐれちゃった?」

 スーパーの袋を持ち直し、男の子と視線を合わすためにしゃがみ込む。

「あっち、ままが」

 侑希のブレザーの袖を一度引いて、男の子は一人で走って行く。

「ちょっと!」

 迷子かもしれない、単に人の良さそうな侑希をからかっているだけかもしれない、しかし母親がどこかで倒れて助けを呼んでいるのかもしれない。最悪の可能性を否定できない以上、侑希は男の子を追うしかなかった。牛乳も置いていけないので、重たい荷物を持ったまま走る。いくら体力がついたと言えども、狭い道が多い街中、限界を知らないで走る子どもを追うのはシャトルラン並みにきつい。

「待って!」

 すれ違う人たちは、皆して怪訝そうな顔で侑希を見るものの声はかけてくれない。

 どんどん人気の少ないところまで来て、ついに侑希にも自分の位置が正確には分からなくなった。

「ボク!」

 路地に入ったところで男の子は立ち止まる。侑希は息が切れて喉が枯れそうなのに、目の前の男の子は呼吸していないくらい静かだ。

「はぁはぁ、お母さんは? はぁ、ここに、いるの?」

 足音や気配よりも、目の前の二つの瞳に映った人影で背後に人がいることを知った。

 しかし、侑希が振り向いた時そこにいたのは人間でなかった。焼けるような喉に痛みはない。でも言葉は出ない。すがるような気持ちで男の子の方に向き直るが、そこにも人間はいない。

 手汗で滑って落ちた牛乳は鈍い音を立てて落ち、赤い飛沫を立てる。

「……うみちゃん……?」

 かすれる声は届いているはずなのに、冷たい目をした魔女は返事をしてくれなかった。


 彼女の表情は何と例えればいいのか。絶望。恐怖。他にもありそうだが、海には分からない。

「ごめんね」

 海が手を伸ばした時にした表情は、怯えだった。

「君はお使いをして帰った。それだけだ」

 手が触れる寸前で侑希の意識が落ちる。血溜まりでなるべく汚れないようにと、肉塊から少し離れたところに寝かせた。

「シルヴィア」

 呼び出しから数瞬遅れて涼子が落ちてきて、着地寸前に重力を無視して止まった。

「急に呼び出さないでくれます? 生徒会の会議中だったんですけど」

「うるさい。そんなん後で調整しろ」

「横暴なこと。で、街中で何しでかしてるんですの」

「人避けはした」

「そういう問題ではありませんわ。二人とも魔力の気配は残ってますけど、どう見ても一般人でしょう」

「人間だろうが侑希ちゃんを危険に晒したんだ」

 涼子はため息をつく。

「操られていたか記憶操作あたりでしょうか」

「そうだろうな。こいつらからは敵意は感じなかった」

「それで、私を呼んだ理由は何ですの?」

「侑希を家まで送るのと卵の買い替え、牛乳も綺麗にしておいて。あとゴミ処理」

「どれもあなたがやればいいじゃないですの。特に侑希。あの子はあなたが送りたいんじゃありませんの?」

「私は先にアイツぶっ殺してくる」

 侑希が感じていた視線は様々な人からのものだった。その中のほとんどは害のないものだったようだが、紛れていたのがこれだ。主となる魔女が侑希の周りの人間を使って監視していたのだろう。結局のところ、親玉を潰さなければ同じことは起こるわけだ。

「アイツってどこの誰か分かってますの?」

「さっき全部視た」

「全部って……」

 汚れを消し去りながら、涼子が引いた顔をする。

「世界中じゃねぇよ。通常魔力が届く範囲で視ただけだから」

「ことごとくあなたにケンカ売った昔の自分が恐ろしいですわ」

「あの時のシルヴィアは若かったな」

 見た目も含めて、涼子は今と昔ではずいぶんと変わっている。取り繕っているのか、心を入れ替えたのかは分からない。

「……侑希ちゃんの記憶は改竄してある。用が済んだらまた呼ぶかもしれないから、早めに片づけておいて」

「どこに行くかくらい教え、」

 涼子の言葉には耳を貸さずに、会話の途中で海の姿が消える。高位魔法――先程涼子が呼び出されたものと同じ類の転移魔法。詠唱も魔法陣も道具も使わず、物量・距離を問わずに三次元を移動することができる。

「他人の家に土足で入るなんて礼儀のなってない人ですね。せめてノックくらいするものではありませんか?」

 海が転移した先は電灯の点いていない、パソコンとモニターの光しかない暗い空間。座標から割り出すと、ここら辺では一番物価の高いエリアのタワーマンションの一室。暗いのはカーテンを全て閉め切っているからだ。

「私が住んでいたところは靴を脱ぐ習慣がないんだよ。あと他人ってお前魔女だろ」

「えぇ、でも他魔女ってゴロが悪いでしょう。それに大魔女様は今人間としてお過ごしなさっているとお聞きしていますよ」

 高そうなパソコンチェアがくるりと百八十度回転する。

 そこにいたのは、黒いドレスに溶け込むように、髪も瞳も口紅、ネイルも真っ黒な魔女。

「お前誰の差し金で動いてんだ?」

「なんのことですか?」

「私はお前と関わった覚えはないんだよ。それとも私が関わった国の魔女か?」

 一歩近づこうとして海の身体が固まる。

「魔法陣か……」

「左様です。あなたのような魔女に無策で臨むわけないでしょう」

 下位の魔女であっても、魔法陣や詠唱を利用することによって上位の魔法を利用することができる。現状、海を足止めしている魔法は、

「拘束魔法、毒、精神異常、封魔か」

「ご名答。……まだ言葉を交わせるとは恐ろしいですわね」

「私は苛立っているんだ。早く親の名前を吐け」

 青い瞳が憎悪に満ちる。

「哀れだな」

 縛られているはずの海の身体が動いた。これにも黒い魔女は驚いたようで、とっさに辺りを見回した。

「どうして不思議な顔をする? 私のことを知った上でケンカ売ってきたんだろ」

 わざと魔力を手の平に集めて黒い魔女の顔面を掴む。

「随分と魔力が少ないんだな。少し分けてやろうか」

 少しずつ黒い魔女の肌が剥がれていく。

「何で封魔がまったく効いて……」

「効くわけないだろ。私に効く魔法は、私の魔法だけだ。そろそろ親の名前思い出したか?」

 本当に下位の魔女らしい。少し魔力を多く込めただけで、血を吹き出しながら祈るように、 

「ジャンヌ・ダルク! 白髪の女です!」

と叫ぶ。しかし、それは悪行であった。海の指先に力が入る。わざとではない。

「っ! 私のことを知っていてその名前を出すのか?」

「本当! 本当なんです! 白くて長い髪をした、青い目の魔女がジャンヌ・ダルクと名乗ったんです!」

 元々大して持ち合わせていなかった理性が、プツンと頭の中で切れる。

「最期に教えてやる。ジャンヌの髪は綺麗な赤茶色なんだよ」

「……なん……身体が硬く……石!?」

 黒い魔女の足先からみるみるみるみるうちに石に変化していく。

 海は汚物を扱うように魔女を投げ捨て、血がたくさんついた手を水魔法で洗い流した。

「特別にもう一つ教えてやる。メデューサの話の元は、私が気に入らない人間を石にしてたことなんだ。……もう聞こえてないか」

 投げ捨てた時の反動で胸から下は砕けてしまっている。

 その様子を見て、鞄の中身を思い出した。

「あぁ……クッキー砕けちゃってる……」

 八つ当たりをするように頭部だった塊を踏み潰した。

「ちょっと! カイってば!」

 頃合いを見て現れた涼子が、クッキーを貪る海の頭を叩く。

「相手死んでますけど、情報ちゃんと引き出しました!?」

「ごっめん、名前も知らん。なんか黒かった。全体的に」

「見た目は変化させている可能性がありますからね」

「シルヴィア、ちゃんと侑希ちゃんを送り届けてきた?」

「もちろんですわ。……そこのパソコンを念のため調べてみますから、カイは部屋の中に何かめぼしいものがないか探してください」

「電気つけていいかな?」

「あなた視えるでしょう。そのまま探しなさいな」

 涼子は石クズを払い、重厚な革で纏われた椅子に腰を下ろす。インターネット検索を主とするにはいささかスペックの高いパソコン。周辺機器にも一定のこだわりが見受けられる。

「魔力感知でも恐れたのでしょうか……」

 海対策をするのであれば、連絡手段は人間世界に準じたものの方がリスクは少ない。しかし、涼子にはカイに対抗してくる個体及び集合に対してある程度の対策は用意してある。魔力で影響を与える前に、まずはクラッキングをする。

 一方、人間の文明機器に疎い海は真っ暗な部屋の中を端から順に回っていた。先程無理矢理消滅させた魔法陣には、まだ少し魔力が残留している。そこから元を辿ろうとしたが、全て塵と化した黒い魔女にしか行き着かない。

 部屋自体は少し高級な1DK。キッチンは水道以外使用された形跡はない。トイレや風呂も外見上問題はないが臭う。風呂からだ。

「……何人か殺してるな」

 魔法陣から漂ってきた臭いと同じ。下位の魔女にしては強力な魔法であったのは、魔法陣自体も生力で強化されていたからだろう。

「あーもう臭い臭い。やだ、早く帰ろう。シルヴィア」

「もう少しお待ちくださいな。こちらは手を使って探しているのですから」

「魔法じゃダメなの?」

「これがダメでしたら魔法を使いますわ」

 カタカタと軽快な動きでキーボードが叩かれる。パソコン画面にはたくさんのアルファベットが並んでいるが、どこかの国のコミュニケーションツールではないようなので海には分からない。

「外部操作でデータが消去されてますわね」

「復元できんの?」

「……難しそうですわね。クラッキングで消去した上で、更に魔法でなかったことにしているみたいですわ」

「……結局この黒かったやつは捨て駒だったんだな。そんなにも自分の正体隠したいかね?」

「あなたに直接歯向かっても殺されると分かっているからでしょう」

「どっかの誰かさんと違ってね」

「うるさいですわ。……しかし、侑希を狙った意図が不鮮明ですわね」

「単に私を誘き寄せたかったのか」

「もしくは侑希自体に用があったんですかね」

「侑希ちゃんは魔女にまったく関与してなかったんだろ?」

「やはり狙いはあなたでしょうね」

――名乗った名前に意味があるなら、昔から私に対して恨みを持っているやつか? 心当たりが多過ぎて分からない。

「……侑希ちゃんの周囲を警戒する」

「あら。てっきり手を引くものかと思いましたわ」

「何言ってるのさ。私は魔女、彼女は人間。相手が食いつくのを待つのが得策だろ」

「あなたが決めたことならこれからもサポートはしますわ。ただし、中途半端になって後悔をすることはないように」

「……。帰ろう。あまり長くいてもいいことはない」

「そうですわね」

 手がかりを完全に失ったカイと涼子は、転移魔法を利用して真っ暗な部屋を後にする。

 それから少しして、三つ隣の部屋から火が上がり、あっという間にフロア全体を飲み込んだ。

 全てをあざ笑うように、灼熱の中、モニターが切り替わり、


『The person……』

『The witch who can rescue you besides me isn’t possible.』


『I will definitely ■■■■ you.』


 全てが焼け落ちた。



◆再びシェイクスピア


 何の手がかりも得られぬまま、言い換えれば平穏な日が続く。あの真っ暗な部屋には、会社員の男が住んでいた、ことになっていた。火元は賃貸に出されていた部屋で、煙草の不始末による火災として処理された。プロの目から見れば不審な点はいくつもあるはずなのに、スムーズに処理がされているのは魔女が関わっている証拠だろう。

 近いところで起こった火事も学生たちの間で話題にはならない。それくらい小さな事件だった。

 いつもは六時間目まである授業も、今日は午前中の四時間目まで。校内は賑やかで、これからそれぞれ好きな手段で市内の文化ホールまで移動をする。

「わたし、シェイクスピアの作品ってロミオとジュリエットくらいしか知らないかも。本で読んだこともないし」

 本日の行事は芸術鑑賞会である。立派な学校行事の一つであり、演劇、演奏、落語を一年ごとに体験するという主旨らしい。今年は観劇になる。

「……侑希ちゃんって悲劇好きじゃないよね?」

「うーん。得意じゃないかな」

「それなら今日は一緒にサボろう」

「ダメだよ。点呼もあるんだし」

「真面目だなぁ」

 演目はシェイクスピアのマクベス。有名な劇団の方々が、わざわざ高校生のために演じてくれる。

「うみちゃんも悲劇苦手なの? 意外だね?」

「意外ってのはどこを見ての感想なのか気になるところだけど、傷つきそうな気がするからまぁいいや。悲劇は苦手じゃないよ。シェイクスピアの作品が受け付けないってだけでね」

「シェイクスピア読んでるなんて大人だね」

 海は人間が生きる時間全てを捧げても読み終わらない量の本を読んでいる。

「持ってるなら貸してよ」

「全部燃やした」

「そんなに苦手なの!? 逆に気になるからネットで探してみようっと」

 集合時間前の昼下がり。ファミレスで平日限定のランチメニューを平らげ、海はドリンクバーの紅茶を「味が薄い」と文句を言いながら飲んでいるところだ。侑希はランチセットの小さなケーキでは物足りなかったようで、追加のチョコレートパフェを食べている。

「侑希ちゃんは細っちいのによく食べるねー」

「わたしって食べても太らないんだ」

 無意識に座っていても対面から確認ができる胸部に視線がいってしまった。

「……うみちゃんにはパフェ分けてあげません」

「いや……そうゆうつもりじゃ……」

 あれから侑希の周りで不審なことは一切起こっていない。また、彼女にはあの日の出来事も残ってはいない。侑希は、スーパーで牛乳と卵を買った後、特に誰とも話すことなく家に帰宅して、気づいたらベッドでうたた寝をしていた、ということになっている。

 記憶操作、記憶の上書き。

 あの日侑希を襲った親子は事故死扱いになった。海が怒りに任せて壊してしまったこともあり、処理が大変だったと涼子は怒っていた。

「うみちゃんだって、そんなに胸大きくないでしょ」

「大きくないけど……別にあればいいってものではないと思うよ」

 如何にフォローをするべきか。何を言っても地雷になりそうだ。

「うみちゃんに悪気がないのは分かってるんだけどね。すぐ思ったことが行動に出るのはよくないよ」

「以後気をつけます」

 侑希はわりと目敏い。あと地雷がわりと分かりづらい。

「そろそろ文化ホール行こっか。ホールの中の方が暖かいと思うし」

 徐に冷え切った海の手を掴む。侑希の手は冷たいチョコレートパフェを食べた後だというのに、ほかほかしている。

「何でそんなにあったかいの?」

「カイロ持ってるから」

 ブレザーのポケットから大きめの白いカイロを取り出す。

「マフラーはまだ巻かないのに、カイロはいいんだ……」

「腰冷やすとよくないから、たまに当ててるの。マフラーは来月になったらデビューするから」

「十一月も十二月もそんなに寒さ変わらないって」

 カイはマフラーを巻き直しながら、無防備な首元に同情する。細くて簡単に折れてしまいそう。

「駅前は風の通りがよくて寒いね。そろそろタイツも用意しておかないとダメかな」

 駅から直結している市の文化ホールは約千人を収容できる施設で、多くのイベントでも利用されるらしい。ホール内は半円形を描くようにえんじ色の椅子が舞台を囲っており、舞台の中心には自己主張の強いパイプオルガンが設置されている。

「外から見るより広いんだね。この前近くに来た時は、ホールがあるなんて分からなったや」

 侑希と買い物に来た時に、ホールの真隣にある複合商業施設内を回っている。

「一年七組はここだって」

 クラス毎に数列ずつエリアが指定されている。サボりがいないかきちんと確認をするためだ。

「三年生全然いないね」

「来る人はギリギリまで勉強してるんじゃないかな。三年生はね、自由参加なんだよ」

「なるほど。受験ってやつか」

 東高等学校は、県内では進学校と名乗っているらしい。侑希曰く、地元の国公立大学には多少いいイメージを抱かれるが、都内の大学に進むとなると学校名も知られていないと言うから東京は恐ろしいところだ。

「うみちゃん、寝ちゃダメだからね」

 席に着くなり、侑希から忠告が飛んでくる。

「何さ。瀬川先生になんか言われてるの?」

「藍ちゃん先生と涼子ちゃんに言われているよ」

「あいつら……」


 開演を知らせるブザーが鳴り響く。ノイズだらけだったホール内も、照明が徐々に光を失うのに合わせて静けさを取り戻す。

「東高等学校の皆さん、本日はお忙しい中、ご来場ありがとうございます。さすが有名進学校でございますね。特段注意なく舞台に注目してくださる学生さんはなかなかおりません」

 皮肉混じりな挨拶とともに現れたスーツ姿の男は、劇団の団長。東高等学校の卒業生であり、そのため三年に一度公演を開いてくれるのだそうだ。

 スマホをいじるなと前置きをしっかりしてから、再度舞台の照明が落ちる。

 まだ始まらないのかと周りがそわそわとし始めた頃、突然強烈な光が舞台上で弾け、遅れて轟音が鳴り響いた。どこからか女子生徒の小さな叫び声も聞こえた。雷、嵐。その中で黒いローブを身に纏った三人が舞台上に現れる。

 魔女の役をしている人間たちが唱えている呪文というのは、おそらくドイツ語を基にした造語であろう。

――人間のイメージする魔女の典型的な形だな。

 海が念じれば、本当に嵐がくる。ホールの人間を殺すこともできる。それこそ、台本通りに進む演目よりもずっとリアリティのある物語。

――本当平和になったもんだ……。

 暗闇、心地よいBGM。最初から彼女たちの言葉を聞く気はない。

 睡眠を取らなくても死にはしないけれど、眠たい状態が続けば動作に支障が出る。何よりも、なぜか寝てはいけないタイミングこそ快適な睡眠になるのだから仕方ない。

「やっぱり寝てたでしょ」

 休憩時間もマフラーを顔にかけて熟睡していたら、いつの間にか幕は下ろされていた。起きたのは盛大な拍手の気配で、侑希も若干眉間にしわを寄せながら両の手を何度も叩き合わせている。

「あー無事終わった?」

「藍ちゃん先生こっち見てたよ。寝てたのはバレてるよ」

 問題はなく終わったらしい。

「学校の椅子より寝やすかった」

「あとで怒られても知らないからね。わたし、たっくさん突いたんだから」

 どうりで右腕が少し痛いわけだった。

 ホール内の灯りが全て点き、後方にいるクラスから順次解散。今日ばかりは学校に戻ってから部活動というところもないようで、クラスメートも各々「サ●ゼ行こうぜ」「カラオケ寄って帰ろう」と話題にしている。

「うみちゃんはこのまま帰るの?」

「うん、特にやることないし」

「この後画材買いに行くんだけど一緒に来ない?」

「別にいいけど、私がいたところで役に立たないよ」

「だいじょーぶ。荷物持ちっていう役割があるよ」

「ないよ」

 美術部にも部費はあるらしいが、部員曰く最低限のものを買うとなくなるくらいには少ないらしい。

「瀬川先生とか涼子に掛け合えば部費くらい増やしてくれるんじゃないの?」

「まぁ……涼子ちゃんとかなんとかしちゃいそうで怖いけど、やっぱり認められた形で増額してほしいかな。先生のポケットマネーなら歓迎するけどね」

「侑希ちゃんは何を買うつもりなの?」

「学校で支給されていない細い筆と、絵の具」

「絵の具も部費で買えないの!?」

「買えるよ、買える。ただ、気に入ったものがあったら欲しいなって。例えばこれ。赤系統の絵の具と一言で表してもたくさん種類があるんだよ」

「でも色って三原色があれば作れるよね。まぁ三色だけってのは極端だけど、授業用に買わされた絵の具セットの内容じゃ足りないの?」

「うーんと、わたしのこだわりかな。毎度同じ色を作れない、その時の色はその時のみっていうのもアナログの良さだけど……どうしても変えたくない色もあるじゃない?」

「私は絵を描かないから分かんないや」

 侑希は持っていた緋色の絵の具を棚に戻し、寒色が集まっている棚に移る。

「うみちゃん」

「何?」

「ううん、何でもない。ありがと」

「?」

「ねぇ、うみちゃんがわたしに色のイメージつけるなら何色だと思う?」

「侑希ちゃんに……? 青とか緑じゃない気はするけど……」

 それこそ入り口にあった赤系統のどれかであろう。

「ピンクかな……でもそんな可愛い感じより……」

「え、可愛くないってこと?」

「や、そうゆうわけじゃなくて……オレンジかな! うん、ほら、これなんて似合いそうだよ」

 目についたオレンジ色の名称はメイズイエローと書いてあった。

「侑希ちゃんは活発的だから。でも尖っているわけじゃないし、私から見たら明る過ぎるくらいで」

「じゃあ今度なにか買う時に色迷ったらオレンジ色にするね」

――侑希ちゃんの全身がオレンジ色になったらどうしよう。

「うみちゃんはやっぱり青色だよねー。金色の髪も綺麗で目立つけど、初めて見た時も瞳の色が印象的だったんだ」

「日本人は碧眼を好むよね」

「基本、黒髪に黒目だからじゃない。どんなに色素薄くなってもわたしくらいにしか明るくならないし、目なんて青とか緑色にはならないもの」

 結局、筆を二本だけ購入し、絵の具は見送りとなった。

「侑希ちゃんは部活でどんな絵を描いているの?」

「今は藍ちゃん先生に出された課題で、キャラクターの絵かな」

「それ絶対公私混同してるやつじゃん」

「そうかもね。でも、わたしは漫画やアニメに詳しくないから新鮮な気持ちでやってるよ」

「私も侑希ちゃんみたいになんでも楽しめたらいいのにな」

「? 楽しくないの?」

「楽しいよ」

 演劇も積極的に鑑賞しようとしたり、部活に入ってみようとしたり、そんなことすら海にはできていない。実行したとしても、彼女ほどの楽しみを得ることはできない。

「やっぱり今日寒いから、そこのコンビニで肉まん食べて帰ろうよ」

「ほんと侑希ちゃんはよく食べるね」

 侑希が海の手を取る。

――手袋、まだしなくてもいっか。

 冷たい手同士であっても、このままの方がいい気がした。

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