第4話 『たった一つのできること』
「この人の顔を覚えておいて欲しいんです」
翌日の昼。休み時間に人の少ない屋上へとやって来たオレに、宇佐美が1枚の写真を見せてきた。ちなみにここへ来る途中、宇佐美はオレの隣を歩いていたが誰1人彼女の存在に気づくことはなかった。こんな目を引く服装をしているのにな。それだけこいつの影の薄さ……もとい、気配遮断とやらはすごいらしい。忍者とか天職なんじゃないか?
「これは?」
いきなり突き出されて驚きつつも、その写真に目を向ける。そこに写されていたのは一面に咲くコスモスをバックに微笑んでいる一人の女性だった。
黒く腰まである長い髪。華奢で色白。垂れ目で柔らかい表情が写真越しにいるオレを見つめていた。見た目の年齢的にオレや宇佐美の少し上だろうか。それでいてどこか母性も感じる。近所の優しいお姉さんといった女性だった。
「この人は影の親……つまりあれを生み出している人なんです」
「この人が……?」
まじまじと写真を見るオレに宇佐美が頷く。
「影がいる町には彼女がかならずいるんです。以前和樹さんが見た影もおそらく彼女が生み出していたと思います」
「でもどうして影を作って人を襲わせてるんだ?」
写真の女性は虫を殺すどころか、いたわった介抱しそうな雰囲気なんだけどな。おそらく10人にこの人のことを聞けば全員オレと同じ意見を抱くに違いない。
「それは……彼女本人に聞かないと分からないんですけど……。とりあえず私はこの人を捕まえないといけないんです。それが影崩師の仕事の1つですから」
「そうか。この人を捕まえれば、オレはもう影に襲われないって事か」
「だから和樹さん! 私とひとつ約束してください!」
ずい。と写真を見ていたオレの顔に宇佐美の顔が近づいてきて思わず後ずさる。垂れ目だった目が少しだけつり上がっていた。なんだよ、いきなり。
「もしもこの人と出会った場合。必ず逃げてください。必ずですよ」
「な、なんでだよ……」
「相手が影を生む者だからです。もしも出会えば和樹さんは間違いなく襲われます。だからその時は逃げてくださいね。絶対にですよ!」
「わ、分かったから……」
絶対に。と念押ししてくる宇佐美の圧に押されながらオレは頷く。ここはオレだって戦えると大見得切るところだと思ったが、確かに影を生み出す相手なんかと出会った場合オレには対抗する手札も手段もないもんな。ならここは本職の人の言うことをちゃんと聞いておこう。オレだって死に急ぎたいわけじゃないんだから。
だけど……。宇佐美が持つ写真の女性に再度視線が向く。本当にこの人が影を生み出しているのか? 写真から見る表情や雰囲気からはそんなことをする人に見えないんだけどなあ。
まあ人は見た目と中身が一致しない生き物だ。こんな温厚な人でも腹の中真っ黒だったりするんだろうな。
個人的にはそうであって欲しくないけどさ。
*****
「そういえば、こっちから
学校が終わり、帰りながら横を歩いていた宇佐美に尋ねる。目標となる親玉が分かったのなら、こちらから彼女を探し出して捕まえる手段もあるのではと思ったのだが、宇佐美は小さく首を横に振った。
「仕掛けることはできますけど……下手に仕掛けて和樹さんを危険な目にあわせることは出来ませんから」
うむ。どうやらオレは遠回しに、かつオブラートに包んだ状態で足手まとい認定されていたらしい。分かってはいたけどちょっと辛い。でも心配してくれる宇佐美の優しさは嬉しい。やっぱり現金だな、オレ。
「それにですね。別に仕掛けなくても、あちらから毎回やって来ますから」
「え?」
言われてから気づいた。いつの間にか周りの世界から音が消えていたことに。オレの背後からびしびしと突き刺さるような視線が向けられていることに。
ゆっくりと振り返る。真っ直ぐな道の先にいたのは墨を全身に被ったような一人の影だった。身長や体格は宇佐美のように小柄。顔の部分は真っ黒に塗りつぶされていて、その表情は分からない。
「あ……」
その姿を見た瞬間、頭にあの夜見た光景がフラッシュバックする。
「あいつだ……」
見間違いじゃない。あいつは間違いなくあの時の人影だ。人を襲い、人を食らったあの化け物だ……。
ゆらり。と緩慢な動きで影が身じろぎする。オレ達の姿を捉えた瞬間、なにもなかった顔からぎょろりと真っ白い2つの丸と、三日月のような形が笑むように浮かび上がってきた。不気味を体現したようなその表情に、ぞくり。と肌が粟立つ。
「和樹さんはそこから動かないでください」
そんなオレとは違い、宇佐美は落ち着いた声と表情で眼前の人影を見たままクナイを両手に握って走り出す。
すぐに人影との距離を少し空けて、クナイを投げつける。だが、影はその攻撃を体を少しズラすことでその投擲を躱した。まるで狙う場所が分かるかのようにのらりくらりと最低限な動きだけで宇佐美の行動をあしらっていく。
「くっ……」
遠距離では倒せないことに宇佐美が苛立ちを含んだ表情と言葉を表し、今度は接近戦へと持ち込んでいく。それでも宇佐美の斬撃を人影はゆったりとした動きで逃げ続ける。
宇佐美の攻撃を避け続けながら、人影がオレの様子を伺うようにちらちらと見てくる。瞳のない白くて大きな丸がオレの姿を捉える度にまるで底のない白い世界へと引きずり込まれそうで背筋が凍った。
「……っ和樹さん!」
人影の相手をしていた宇佐美が、突然吃驚の声をあげてこちらへと走ってくる。その視線の先はオレ。ではなく何故かその後ろを見ていた。それを追うように振り向くと、
「……あ」
気配も音も全然感じなかった。いつの間に現れていたのか、そこには昨日オレを襲ったあのライオンもどきがいた。しかもオレの間近に。前足を思われる部分を高らかに突き上げた状態で。
逃げなければ。と思うよりも先に上げられた足がオレの体めがけて振り下ろされる。
あ、終わったーー。
走馬灯すら見せる時間もくれないままライオンの爪が迫ってくる。が、それがオレの体を引き裂くよりも前に、走ってきた宇佐美が両手に持ったクナイでその足を受け止めてくれた。
爪とクナイがぶつかる甲高い音で、ハッと我に返る。
「大丈夫、ですか……和樹さっ!」
オレの方を見て安堵の表情を浮かべようとしていた宇佐美の体が突然真横に吹き飛んだ。あまりに展開の早い状況に思考回路がついていけなかった。
少しの時間と近くで壁に何かがぶつかる音のおかげで、オレはようやくライオンの不意打ちによって宇佐美の体が吹き飛ばされたのだと知った。
「宇佐美……? 宇佐美っ!」
近くの壁にぶつかるまで吹き飛んで倒れた宇佐美の元へと駆け寄る。
「おいっ! 大丈夫か!」
起こそうと手を伸ばすよりも先に宇佐美が目を覚ます。触れようとしたオレを手で制して、フラフラとした様子で起き上がった。
「だい、じょうぶですよ。和樹さん」
心配するオレを案じさせるように宇佐美が笑う。壁にぶつかった衝撃と影の攻撃を食らった時の傷が彼女の白い肌にいくつも赤い線を引いていた。けれど宇佐美は怯えることも涙することもなく笑っていた。
止めろと言いたかった。でもその言葉は開かない口の中をさまよったあと、生唾と一緒に再び体の奥底へと戻っていく。
ライオンの影と、人影がゆっくりとにじり寄ってくる。すぐに襲ってこないのは、余裕の表れだろうか。確かに後ろは壁。前方には化け物二つ。逃げ道なんてないに等しい。追い詰められたネズミと迫り来るネコの図が頭に浮かんだ。
「安心してください。和樹さん」
どうすればいいのか全く分からないオレの頭に宇佐美の言葉が降りかかる。
「和樹さんは、私が守りますから。……必ず」
手に持ったクナイに力を込めて前方の敵を見据える宇佐美。恐れなどない明るい言葉だったが、クナイを持つ彼女の手が小さく震えていた。力の入れすぎ、じゃないことはすぐに分かった。
「でも、オレ……」
「信じてください。私がこの影達を倒せることを。それだけで私はなんだって出来ますから」
なんて根拠のない根性論だよ。と思った。そんなものでこの状況を突破できるわけないと言葉が喉元まで差し掛かっていた。でも、オレはそれを呑み込んで力強く頷く。だって、それ以外にオレが宇佐美にしてあげる事なんてできないのだから。
「頼む……真琴」
オレの言葉に、一瞬だけ真琴が息を呑む音が聞こえ、
「お任せください! 和樹さん!」
クナイを構えて真琴はまず人影の方へと攻撃を仕掛けに向かう。しかし、やはりさっきと同じように相手は真琴の動きが読めているのか躱され続けている――ように見えた。
「――?」
ぴたり。と突然人影の動きが止まり、初めて笑み以外の表情を見せた。人影が体を動かしてみるが、まるで強い力に引っ張られているかのようにその動きは途中で止まってしまう。
「……影縫いです」
真琴は持っていたクナイをいつの間にか人影の足元に伸びていた影に突き刺していた。
「しばらくそこで、じっとしててもらいますよ」
相手が動かないことを確認して真琴はすぐにライオンの方へと向かおうと体を反転させるが、すでにライオンもどきは真琴を引き裂こうと前足を振り上げた攻撃態勢で飛びかかっていた。
「真琴っ!」
完全な奇襲に真琴の動きが止まり、影の鋭い爪が真琴の体を引き裂く。が、裂かれた真琴の体はいつの間にか丸太に変わっており、ごとんという音と共に丸太から白煙が爆発したようにオレ達を包んだ。
「うわっ!」
瞬く間に視界が白に塗りつぶされて慌てて口を覆う。
濃い白の世界に何かが動いてるのだけが確認できたが、それが真琴なのかそれともライオンなのかは分からない。
体感3分くらいで世界がゆっくりと元の色を取り戻していくように、煙が晴れていく。
「あっ!」
そんな変わりゆく世界に響く真琴の大声。
「どうしたんだ!」
オレもつられて大声になり、薄くなって見えやすくなった視界から真琴を探す。真琴は少し離れた所に立っていて、地面に突き刺さっていたクナイを睨むように見ていた。
「……もしかして、逃げられたのか?」
さっきまでそこで動きを封じられていた人型とライオンの影はどこにもない。オレの言葉に真琴は悔しそうに頷いた。
「ライオンの方は倒したんですが、もう一体の方は……」
憎らしげに呟いて地面に刺したクナイを引き抜く。
「ま、まあいいじゃないか。一体だけでも倒せたのならさ」
オレの言葉に真琴が、でも。と食い下がるような表情でオレを見る。自分の中では納得がいってないのだろうが、オレとしては十分すぎる戦績だと思う。
「真琴は頑張ってくれたよ。ありがとうな」
「……そんな、もったいない言葉ですよ。和樹さん」
困ったような笑顔を浮かべて真琴がクナイをしまってオレの元へと近づいてくる。
「お怪我はありませんか?」
「ああ、オレは大丈夫……」
オレの体を心配してくれる真琴を見る。至る所に切り傷や擦り傷で血が流れている姿が、なんだか自分の無力さを責めているようですぐに目を逸らした。
「……強いんだな。真琴は」
ぽつりと呟いたオレの言葉に、真琴はぱちくりと瞬きして、
「はい。だって、強くないと守れませんから」
にっこりと笑う真琴。屈託のないその笑顔と言葉がずきんと痛かった。
「そうだな……そうだよな」
真琴の言葉にオレはうなづく。強くなければ守ることすら出来ない。あぁそうだ、まったくもってその通りだと、オレは心の中でもう一度頷いたのだった。
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