第3話『これから始まる非日常』

「ただいま……」

 築25年で借家の我が家は二階にオレの部屋があるのだが、そこへ上がるためには必ずリビングを経由しないと行けない作りになっていた。なので必然的に、

「おかえり、遅かったな」

「どこ行ってたの」

「ちょっと寄り道してた」

 あはは。と乾いた笑いを浮かべてオレは先に夕飯を食べていた両親に返事をする。

「どうする? 先にお風呂入る? ご飯食べる?」

「先に風呂入るよ。ありがと」

 あははと依然貼り付けたままの笑いを残してオレはリビングを突破。そのまま階段を駆け上がって、すぐさま部屋へと入る。

 ばたん。と扉を閉めてまっすぐ進み、奥に鎮座するベッドに腰かける。

 スプリングの効いたベッドがギシッとオレの体を受け止めたと同時に、我慢していた重い息がどはぁと口からこぼれた。

「どうでしたか? 気づかれませんでしたよね?」

 さっきからずっといた宇佐美が嬉しそうに尋ねてきた。

「確かに……。後ろにいたのにな」

 そう。家に帰ってから部屋に上がるまで、宇佐美はオレの後ろを歩いていたのだが、両親は一度も宇佐美の方を見ようとはしなかった。オレのいつバレるだろうという緊張感など歯牙にもかけず無事部屋へと上がり込んだ宇佐美は、ふふん。と鼻高々に顔を上げる。

「私、気配遮断が大の得意なんですよ」

「気配遮断っていうより、それってただ影が薄い――」

「ち、ちちち違いますよ!」

「うぉっ!」

 オレの言葉を遮るほどの悔い気味に宇佐美が否定してきた。

「違いますから! これは、私の気配遮断がなせる技なんですから。影が薄いのとは全く! これっぽっちも! 関係ありませんから!」

 念押しするようにまくし立てる宇佐美。ぐいぐいとくる宇佐美の圧にオレは分かったよ。と引くしかなかった。どうやら本人にしてみるとそこは気にしているところらしい。……図星って事じゃねぇか。

「ですが、これで四六時中和樹さんを守ることが出来ますね」

「……頼むからプライバシーだけは守ってくれよ」

 ちょっとした皮肉を含んだオレの呟きに、大丈夫ですよ。と宇佐美は笑いながらベランダへと続く窓へと向かう。ちょうど吹いた夜風が部屋の中へと入ってきてオレの肌と髪をくすぐった。

「いつもは屋根で待機してますから」

 くるりと宇佐美がオレの方を向く。少しだけ眉を下げた彼女の表情とその言葉に虚を突かれたような声が自然とこぼれる。

「それでは、おやすみなさい」

 ぺこりとお辞儀をして、宇佐美はベランダへと出るや自らの跳躍力のみで空高くジャンプしてオレの目の前から消えた。

「ちょっとおい!」

 驚いてワンテンポ遅れたオレがベランダに出て見上げるけれど、ここからでは宇佐美の姿は見えない。手すりを足場にオレも上がろうと足をかけると、

「和樹ー。お風呂入らないの?」

 閉じたドア越しから聞こえる母親の声。行くかどうかしばらく考えたオレは、仕方なくあげていた足を降ろして部屋をあとにしたのだった。


 *****


 風呂も晩ご飯も済ましたオレはキッチンから菓子パンをいくつかくすねて、さっきは行けなかった屋根を昇る。この家の屋根は急勾配になってはなくて、傾斜はけっこう弛めだ。下手に暴れない限り落ちることはない。とはいえ落ちたら大怪我は確実なので、足元に気をつけながら瓦の敷かれた足場をそろりと歩く。

 季節は梅雨が明け、そろそろ夏が来るといった時期なのだが夜になると、いなくなった冬の残滓が姿を表して肌寒い。とっくに春は終わったというのにしぶといヤツだ。

 宇佐美の姿はすぐに見つかった。町が見える場所でぽつんと座っている彼女の小さな背中が何だか心細く見える。

 不意にさっきあいつが見せた困ったような表情の笑顔が頭にちらついて、ずきんと良心に針を刺したような痛みがした。

「隣、いいか?」

 小さく咳払いしてから確認をとりつつも、オレは宇佐美の横に腰掛ける。

「……え? か、和樹さん!?」

 オレが座ってようやく気づいたのか、宇佐美がオーバリアクションのように飛び上がるほどの驚き方で声をあげた。

「どうしてここに? 危ないですよ?」

「その言葉そっくりそのまま返してやるよ」

「私は大丈夫ですよ。鍛えてますから」

「それでもだ。やっぱり外ってのは危ないし、夜は寒いだろ。親たちも気づいてないんだったら空いてる部屋で寝ても……」

「和樹さんは優しいですね」

 ふふっ。と宇佐美が笑顔を向ける。さっきオレに見せた笑顔とは違って柔らかい笑顔。

「でも本当に大丈夫なんです。これが影崩師の仕事ですから」

 仕事。と言われると返す言葉もなく、オレは言おうとしていた言葉を仕方なく飲み込んだ。

「……大変だな。影崩師ってのは」

 代わりの言葉がこぼれる。オレだったら絶対無理だ、こんな仕事。1日で辞めてやる自信がある。

「そう……ですね。大変ですけど、私が選んだ道だから頑張れるんです」

 まるで自分自信に言い聞かせるように呟いて、宇佐美は夜の空を見上げる。どうしてそんな仕事に就こうと思ったのか? とか。そういえば幾つなのかとか色々聞きたい質問が浮かんできたが、オレはそれを口には出さず倣うように顔を上げる。今日の空は雲一つないけれど星の数はまばらだった。町の光が強すぎるんだろうな。なんて考えながら、オレは小さく深呼吸。

「今日はありがとな……」

「え?」

 宇佐美の視線がこちらに向けられたのを感じたが、オレは顔を動かさずにそのまま続ける。

「あの影から助けてくれたことだよ。まだ言ってなかったから」

「そ、そんな。お礼を言われるようなことしてませんよ。私はただ影崩師としての仕事をしただけで……」

「それでもさ……」

 ゆっくりと顔を宇佐美の方へと向ける。困惑したようにオレを見つめる宇佐美に手を差し出す。

「宇佐美のおかげで、オレは助かったんだ。だからありがとう」

 握手を求めるように手を差し出したのだが、何故か宇佐美はその手とオレの顔を交互に見て困ったような顔をしていた。

「どうしたんだよ?」

「……すみません」

 首を傾げるオレに返ってきたのは、申し訳なさそうな拒絶の声。

「あ、そうか。ごめん、こういうの嫌だったか……」

 慌てて手を引っ込める。そりゃそうか。相手はオレと年が変わらない女の子なんだ。いくら仕事だからと言ってもなれなれしく触るなんて嫌だよな。宇佐美が結構フレンドリーな感じで接してくるものだからついそういうことを忘れてしまう。今度から気をつけないとな。何故かさっきの言葉がちくちくと心臓辺りを刺激してきて痛いなぁ。

「ち、違います。別に嫌だったわけではなくて……」

 オレの顔を見て手を必死に左右に振りながら否定する宇佐美。

「その、影崩師の掟というか決まりでですね。人とは触れてはいけないものがあって、触ることが出来ないんです……。だから和樹さんが嫌って言うわけではなくて……」

「そっか……。決まりなら仕方ないよな」

 その言葉にちくちくしていた心臓の痛みが薄まった。なんとも現金な奴だな。オレってば。

「そういえば、飯はどうしたんだ?」

「携帯食を持ってるのでそれで済ませました」

「それで足りるのか? 一応パン持ってきたから、良かったら……」

 キッチンからくすねてきた菓子パンを宇佐美の前に差し出すけれど、彼女はまた申し訳なさそうな瞳でオレとそのパンを見つめている。

「手渡すのもダメなのか?」

「……はい。ごめんなさい」

 俯くように頭を下げる宇佐美。

「いいよ。ここに置いておくから良かったら食べてくれ」

 そっと宇佐美の横にパンを置く。

「ありがとう、ございます」

 それを見て、宇佐美が笑顔でお礼を言う。ぎこちない作ったような笑顔だった。

「心配すんなよ。そんなことで嫌な奴だなんて思ってないから」

「え?」

 ぎこちない笑顔から一変、目を丸くしてこちらを見る宇佐美。どうして私の考えてることが分かったのだろうか。と顔に書いてるのが見えて何だかおかしかった。こいつ、嘘とか絶対吐けない性格だろうな。

「普通、冷たくあしらわれた奴をもう一度助けようなんて思わないだろ。それだけでオレはお前が嫌な奴に思えないし、むしろ良い奴だって分かるから」

「和樹さん……」

「だからこれからよろしくな。宇佐美」

 笑って見せると、宇佐美は水色の瞳を少しだけ潤ませて、そっと目を瞑る。まるで言葉を反芻するように、味わうような時間をかけてから目を開けて、

「はい。こちらこそ、全力で貴方のこと、守らせていただきます」

 満面の笑顔が返ってきた。年相応の彼女の笑みはするりとオレの中の一番奥深いところまで入ってきて、少し肌寒いと感じていた体温がどうしてか一気に熱くなった気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る