KAC20203「お題:Uターン」声

 ここではないどこかへ行ってみたいと思ったことがある。

 健全な青春を過ごす中学生であれば、ふつう、そう思うのではないだろうか。

 中学二年生として充実した日々を過ごしていたアキもその例に漏れてはいなかった。


 しかし、いざ違う場所へ行くことになったら、どれだけの若者が素直に状況を受け入れられるだろう。

 同じ場所に居続けるか、違う場所へ旅立つか。


 アキは本当は同じ場所に居続けたかった。居続けたい大きな理由があったのだ。もちろん、幼馴染で一つ年上のハルのことである。彼にはまだ何も伝えていない。自分の秘めた思いも、自分がいなくなることも。

 しかし、結局、彼女は旅立つ決心をした。大儀とやらを聞いてしまえば、自分というちっぽけな存在は犠牲にせざるを得ないと思った。そう思わなければいけないと、思ってしまった。


 いなくなることは家族にもハルにも明かしていない。七夕の日にハルと会ったとき、堪え切れなかった感情が溢れてしまったが、彼からすれば引っ越しや転校の話くらいにしか思えなかっただろう。


「ここを通れば、あちらにいけるんですね」


 アキは背の高い女性に連れられて、暗い、どこまでも暗い空間を歩いていた。辺り一面に光と呼べそうなものは何一つなかったが、何故だか前を歩く女性の存在を見失うことはなかった。

 到底現実の世界とは思えない。いや、実際、ここはもう現実世界ではないのだろう。十分な説明は受けていないが、アキはそう確信していた。


「このまま歩けば、じきにあちらに着く。心配することはないよ。あちらでは我々が全てを執り行う。きみは何もしなくていい」

「ただ、犠牲になればいいだけですもんね」

「……すまないとは思っている」

「しょうがないですよ。大儀のため、ですもんね」

「ああ」


 それからしばらく沈黙が続いた。足音すら発生しない空間では、居心地がひどく悪い。

 先に口を開いたのは背の高い女性だった。


「あちらで抱えている危機に関しては、既に説明したよね?」

「ええ」

「状況を打開するには、誰かを捧げなければいけないんだ。誰でもいいわけじゃない。きみのような、特異な存在でなければ。きみは特別なんだ。選ばれたんだよ」

「はい」

「きみが決心してくれて、本当に感謝している。きみがいなければ、演算は完了しないから」

「そう」

「……ごめん、どれもこれも言い訳の言葉だ」

「あなたのせいじゃないですよ」


 特定の誰かが悪いわけではない。どうしようもない危機が発生して、それを何とかするためにたまたま自分が必要だっただけ。誰も悪くない。強いて言えば、運命が悪かった。アキは自分の心をそう納得させていた。


「さあ、もう着くよ。そこをくぐるだけ」


 背の高い女性が振り向いて教えてくれる。くぐるといっても、門やトンネルのような立体的なものは感じない。ただ、より一層暗い面が立ちはだかっているように感じる。そこに触れたが最後、わたしはわたしでなくなるのだろう。


「……やっぱり、恐い?」


 尋ねられる。とても優しい口調だった。アキは胸の前で両手を握る。自分の感情を整理しようとする。


 恐い……けど、しょうがない。

 悲しい……けど、しょうがない。

 嫌だ……けど、しょうがない。


 大義のためだ。

 しょうがないんだ。

 わたしが行かなければいけないんだ。

 しょうがないんだ。


『ふざけるな!』


 突然、アキに声が聞こえた。

 よく知っている声。

 だけど、知らない彼の感情の声。

 ――あのハル先輩が怒ってる?


 幼いころから一緒に過ごしてきたが、彼が真剣に怒ったところなど見たことがない。どんなイタズラを仕掛けても、激怒することはなく、いつも注意に留まっていた。

 そんな彼がいま、激情に身を任せて怒声を放っている。


『他人が、奪うな! 横取りするんじゃない』


 何に対してハルが怒っているのか、アキには知る由もなかった。

 けれど、ハルの感情とその言葉は、いまのアキに浸透していく。


 そうだ。

 わたしは怒っていい。拒んでいい。抗っていい。


(……ふざけるな)


 あちらの大義がなんだというのだ。

 わたしはわたしの世界を、わたしの日常を、わたしの愛する人を大切にしたいのだ。


(他人が、奪うな。わたしを奪っていいのは……ハル先輩だけだ)


 思ってからの行動は早かった。踵を返し、いま来た空間を駆け足で戻っていく。

 女性に向かってアキは声を張り上げる。


「ごめんなさい。わたし、やっぱり戻る。元の場所で、もっと生きていたいの。あちらのことは、あちらの人たちで何とかして」


 女性とアキの距離はあっという間に開いていく。

 女性はうろたえる素振りも、追う気配も見せない。


「やっぱり――こうなっちゃうか。うん。こっちのことは、こっちでなんとかしてみるよ」


 女性が右手を振り上げると、アキの前方に暗い面が出現した。

 アキは躊躇することなくそこに足を突っ込む。



      〇



 瞬間、光に包まれた。全身を包み込む優しい熱だ。

 反射的に瞑った目を開けると、そこは公園。

 よく立ち寄る近所の公園だ。


「帰ってきた……。帰ってこれた」


 アキは両手を広げ、深呼吸をした。この世界の空気を、胸いっぱいに吸い込み、吐き出した。

 草木の匂いがする。月夜の自然な光と、街灯の人工の光。家から漏れ出す暖色の光、話し声。虫の鳴き声。


「ああ。わたしの場所だ」


 背後で何かが落ちる音がした。振り向くと、中身の入ったコンビニ袋が落ちていて、落とした人物は――


「おや、ハル先輩じゃないですか」

「アキ!」


 落とした袋など気にもかけず、ハルはアキに駆け寄り、力強く抱きしめた。


「おわっ。ちょっとハル先輩。痛いです。離して、離して」

「どこ行ってたんだよオマエ! 急にいなくなってさあ。でも周りはオマエのこと知らなくてさあ。まるで最初からオマエがいなかったみたいに振舞うしさあ」

「おち、落ち着いて、ハル先輩。ホントに痛いです。ギブ、ギブ」


 アキの十数回目のタップにより、ようやくハルは身を離した。

 そこでアキは気付く。彼が顔面を涙まみれにしていることに。珍しい光景だと茶化したい気持ちが少しだけ湧いたが、それ以上に、彼が本気で心配してくれていたことに罪悪感を伴う満足を感じていた。


「すまん、力加減ができなかった。でもオマエ、本当にどこ行ってたんだ?」


 アキは顎に手を添える。数秒悩んでから答えた。


「未来を救うという大義のためにこの身を犠牲に捧げようとしましたが、誰かさんの邪魔が入って戻ってきちゃいました」


 ハルは「はあ?」と気の抜けた声を上げ、それを聞いたアキは無邪気に心から笑った。

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