小さな魔物

 レイナ達がやってきた甲板では、青空の下で船員達が大きな『筒』を抱えていた。

 筒は長さ三メートル、太さ二十センチほどの金属で出来た代物。所定の場所まで運ばれた筒は、その端をロープ付きの金属製フックを掛けられ、外れない事を何度か確かめられる。フックから伸びるロープは太く、シャロン曰く『カーボンナノチューブ』で出来ているらしい。カーボンナノチューブとは炭素を筒状に組んで作り出した繊維で、同じ太さの鋼鉄よりも遥かに頑強な代物だ。

 そんなロープで繋がれた筒は、全部で三つ。筒はクレーンのような大型機械で吊り上げ、大海原に投じられた。

 それから五分ほど待ってから、再び機械が動き出し、海に沈めた筒を引き揚げる。

 乗組員達は引き揚げられた筒に集まり、フックを外し、ごろごろと転がすように運ぶ。筒の行く先は、ここまでただぼうっと立っているだけのレイナとシャロンの下。シャロンは運ばれてきた筒の傍に寄り、何処かを弄ると、カシャンという音を鳴らした。

 見れば、筒の一部がスライドしており、ガラス張りの面を剥き出しにしている。筒の中を覗き見るための『窓』だ。

 シャロンはレイナの方を見るや手招きし、レイナは誘われるがまま筒に歩み寄る。それからシャロンが一歩横にずれ、レイナは筒の『窓』から中を覗き見た。

 筒に用意された『窓』は一部だけ。そのため見通せる範囲は狭く、あまり明るく見えるものでもない。

 しかしそれでもハッキリと分かるぐらい、筒の中にはたくさんの海水と、その中を泳ぐ生き物の姿が確認出来た。

 先程海に投じた筒は、海生生物の捕獲装置なのだ。装置といっても周りの海水を入れるだけで、やたらと頑丈である以外は本当にただの筒なのだが。しかし原始的な方法というのは、言い換えれば安価で取り扱いが簡単という事。これはこれで十分に『機能的』なのである。

 そんな捕獲装置の中にいるのはエビや小魚等々、種類も形も千差万別な生命。動きの速いものや遅いもの、骨のある生き物ない生き物、実に多様である……が、圧倒的多数派がいた。

 それは、一言でいえばクラゲのような軟体動物。

 しかしクラゲではないだろう。クラゲの特徴である細長い触手がない、丸くて半透明な物体なのだから。よく観察してみれば、捕獲装置内を泳ぐエビや魚が次々とこの軟体動物を食べている。抵抗する素振りすらないところは正に圧倒的弱者。数で対抗しなければ瞬く間に喰い尽くされそうだ。

 なんとも弱々しい。弱々しいが、しかし大人まで弱々しいとは限らない。『星屑の怪物』という実例があるように。


「これが、『魔境の怪物』の幼生よ」


 何も指差さずに語るシャロンの言葉が、それを証明していた。






 シャロンが言っていたように、『魔境の怪物』はとても簡単に捕獲出来た。捕獲した幼体は現在、船内に用意された研究室、そこに置かれた水槽に移されている。数はざっと数百。エビや小魚などの『天敵』は取り除かれ、水槽内には幼生だけが漂っている状態だ。

 幼生達を改めて観察し、レイナは思った――――なんとまぁ貧弱そうな、と。

 水槽内を漂う幼生はどれも体長一センチあるかないか。ヒトデの幼生として考えれば中々の大きさかも知れないが、体長二百メートルの巨大生物の赤子としては芥子粒以下の存在だ。

 丸くて半透明な身体には触手すらなく、動きも殆ど見せない。いや、正確には動いているのだが……軟体質の全身をうねうねと波立たせる程度。こんな微妙な動きで生じる推力などたかが知れており、浮かび上がる事も出来ずにどんどん沈んでいく。水槽内にはエアポンプ ― コポコポと泡を出して水中に酸素を供給する機械だ ― があるため水流が生じ、それに乗って浮かび上がる事が出ているが……隅っこの方に、何十匹か『ダマ』になっていた。隅に固まっている個体の中には、弱っているのかうねる動きすらしないものもちらほら見られる。

 なんというか、弱い。怪物どころか、一般的な小動物として見ても情けないほどに。先日目にした『星屑の怪物』の幼生も貧弱だったが、『魔境の怪物』はその更に何倍も弱そうだ。


「可愛いなぁ……」


 そしてそんなへなちょこ動物も、それはそれで好きなレイナはうっとりしながら水槽を眺めていた。

 無論イモムシを捕まえた小学生よろしく、ぼうっと見ている訳ではない。少しでも生態を解明すべく、真面目に観察している。あくまで、そうしている間に見せてくれた姿に魅了されているだけだ。

 等と強弁したところで、傍から見れば虫かごを眺める小学生となんら変わらない訳で。


「はーい。楽しそうなところ申し訳ないけど、ちゃんと仕事をしてもらうわよー」


 シャロンが容赦なく窘めてきたので、レイナは唇を尖らせた。尤も不機嫌顔は一秒と続かない。

 シャロンの手にある小さなお皿、そのお皿に乗せられた緑色の粉を見て、どうして『虫かごを見ている小学生』が何時までもふて腐れていられるのか。


「! 給餌ですか!」


「ええ。とりあえず乾燥させた藍藻を与えてみましょう。過去の記録で、僅かだけど食べた事があるらしいから」


 シャロンにお皿及び乾燥藍藻を渡され、レイナは嬉々として受け取った。

 勿論餌やりが楽しみというのはあるが、学術的な見地からもこれは大切な『仕事』である。『魔境の怪物』は餌すら分からない謎生物。もしも食性が判明すれば、そこから様々な生態を予測出来る筈だ。成体が船を襲う理由のヒントにもなるだろう。

 早速レイナは水槽の前まで行き、さてどう与えようかと考え……お皿にスプーンなどの道具が付いていない事に気付く。

 飼育の際、餌の与え方は大事だ。特に水生生物の場合、食べ残しの腐敗=水質の悪化であり、最悪飼育対象が死に至る原因と化す。珪藻のような粉状のものだと回収が難しく、水の交換を頻繁に行う必要が出てくるため、尚更与える量は気に掛けるべきなのだが……


「量は指で一摘まみぐらいで良いわ」


「え。そんな大雑把で平気なんですか? 水質の汚染とか……」


「それは大丈夫。身体はへなちょこでも、雑菌や汚染には滅茶苦茶強いから。タンカー沈めまくって海が油塗れになっても、全然個体数減らないぐらいだし」


「うわぁ。戦闘力どころか環境耐性まで高いとか……」


「まぁ、ぶっちゃけ海に撒かれた油そのものはすぐに消えちゃう筈だけどね。この辺りの海域には石油分解菌が豊富だから。長年船を沈めまくった影響で、生態系が変わってるのかも」


「笑い話じゃないですよね、それ……」


 何かとんでもない事が起きているような予感を抱きつつ、レイナは言われるがまま指で摘まんだ餌を水槽に落とす。緑色の粉はエアポンプの泡によって拡散し、瞬く間に水槽中を満たした。

 レイナは水槽に顔を近付け、幼生達の動きを観察する。

 ……特段何かを食べているような動きは、残念ながら観察出来なかった。


「……食べていないように見えます」


「まぁ、三十年以上毎年飼育実験やって、数回しか確認されてないし」


「完全に異常行動じゃないですかそれ……」


 がっくりと項垂れるレイナを見て、シャロンはけらけらと笑う。そう簡単に謎が解けると思うなよ、と言わんばかり。


「その水槽の個体はあげるわ、サンプルならいくらでも取れるしね。煮るなり焼くなり食べるなり、好きに実験すると良いわよ」


「食べたんですか、これ」


「ええ。とても不味かったわ。凄く臭いし、お腹壊すし……私は艦長と話があるから、ちょっと出ているわね」


 シャロンはそう言うと、そそくさと部屋から出てしまう。随分と歩みが早いように思えたが、単に時間が惜しいのか、それとも時間ギリギリまでこちらの世話を焼いてくれたのか……なんとなくだが、前者のような気がしたレイナは苦笑い。

 ともあれ一人部屋に残されたレイナは、再び水槽内の幼生を眺めた。

 幼生達には相変わらず大した動きを見せていない。中には付着した藍藻により、全身が緑色に染まってしまったものまでいた。これでも食べる素振りすらないのだから、やはり本来の餌ではないのだろう。

 しかし食べた記録があると、シャロンは話していた。

 三十数年間で数度の食事。ただの異常行動じゃないかと言ったレイナだが、されどもしかすると、異常なりの理由があるかも知れない。そもそも多くの生物は極めて化学的な反応により食事を行うものだ。例えば昆虫の場合、大きく分けて三種の物質が食事に関わる。

 一つは誘引因子。二つ目は噛み付き因子。そして三つ目は飲み込み因子。

 それぞれの効果は名前通り。誘引因子により引き寄せられ、噛み付き因子により噛み付き、飲み込み因子により飲み込む。誘引因子だけでは噛み付かず、噛み付き因子だけでは飲み込まず、飲み込み因子だけでは寄り付きも噛み付きもしない。

 人間的には面倒な仕組みに思えるかも知れないが、これは極めて安全かつ効率的な仕組みだ。『味』や『見た目』のようないい加減なものに騙されず、正確に食べ物を見極められる。しかも生理的な仕組みであるため、生まれてすぐ、誰に教わらずとも正しい食べ物が分かるのだ。

 どれだけ人智を超えた存在であっても、発達した脳を持たないヒトデである『魔境の怪物』も似たような摂食プロセスを辿る筈。つまり『魔境の怪物』の幼生が藍藻を食べたのは、勿論その個体が物質を正しく認識出来ない『障害持ち』だった可能性もあるが、藍藻に含まれるなんらかの物質により餌だと誤認した可能性もあるのだ。


「(藍藻の持つ物質……葉緑体に含まれるクロロフィル? 或いは光合成で生産される炭水化物、いや、藍藻には炭化水素を合成するものがいるって話を聞いた事があるわね。このどちらか? 窒素固定をする種もいるという話だけど……)」


 思考を巡らせ、様々な可能性を考えていくレイナ。

 ……そうして観察している間も、『魔境の怪物』の幼生は大人しいもので。やっぱり単なる異常行動かも、という考えも強くなってきた。

 そもそも最優先の調査内容は「『大人』が何故船舶を襲うのか」だ。子供と大人で生態が異なるというのは、生物の世界では珍しくない。幼生から得られる情報も勿論貴重なものだが、それで成体の謎が解明出来るというのは見通しが甘過ぎる。サンプルは確かに多いが、微妙に的外れという事だ。

 人間が悩んでいる間も、幼生達は相変わらずろくに泳がず、エアポンプの海流に乗って漂うだけ。運悪く海流に乗れなかったもの達はあっという間に沈んでいく。

 ……本当にあっという間だ。自然の海では常に海流が発生しているため遊泳力がなくとも意外と沈まないものなのだが、この幼生達ならどんどん沈んでいくだろう。成体の住処が深海なのだから、少しずつ深海に向かっていくのは正しい『進路』である。

 しかしこんな速さで沈めば、道中で食事をする余裕などないのではないか? 大体こんなとろくさい動きに捕まる奴などいるのだろうか。


「……先人の知恵に大人しく頼ってみますかね」


 レイナは立ち上がり、部屋の隅にある戸棚へと向かった。

 戸棚の中にあるのは何百という数の冊子。おもむろに一つ手に取り表紙を見れば、『産卵行動パターン』と書かれている。

 この棚に置かれているのは、『魔境の怪物』の生態についての論文だ。論文といっても一般公開されていないが、『ミネルヴァのフクロウ』内での追試や反証は行われている。身内内での精査とはいえ、『ミネルヴァのフクロウ』はレイナ含め割と狂的な科学者集団。身内だろうが容赦なく検証されたものであり、そんじょそこらの論文より余程正確だ。

 冊子を手に取り、読み、棚に戻し……そうしてレイナは幾つも論文を読みながら、目当ての情報を探していく。読み流していく情報の中には、過去に確認された摂食行動に関する考察もあった。結論としては「異常行動だろう」というものが大半。しかしその中に少数ながら、異なる主張を見付ける。

 「成熟段階の違いによるものではないか」、という主張だ。


「……そりゃまぁ、先に誰かが考え付いてるか。三十五年も調査してるんだし」


 そんなの意見を目にしたレイナは、肩を落として脱力。それでも先駆者の論文を読む。

 『魔境の怪物』が海面付近で産卵するのは、幼体の天敵を避けるためだと考えられる。あくまで天敵を避けるためであり……餌が豊富だからではない。

 産み落とされた卵は即座に孵化し、深海へと沈みながら発育していく。つまり海面付近を漂う幼生は、実態としては『未熟児』という可能性がある。発育途中だから餌を食べない。かつて観察された摂食行動を起こした個体は、なんらかの理由により長期間海面付近を漂っていただけではないか。

 だとすれば十分に発育した幼生の餌は、深海独特のものであると考えるのが自然。そして十分に成長した幼生が食べるものは、生理的に同じであろう成体と変わらない可能性が高い。

 ……他にも幾つかの資料を見てみたが、レイナが抱いたこの意見、そして先駆者の論文を完全否定するものはなかった。検証が難しいという事もあるが、現状否定材料もないのだろう。

 レイナが閃くまでもなく、先人達が既にその可能性を論文にしていた。自分が一番手でない事はちょっとだけ悔しいが、しかし先人が様々な検証をしてくれているのは助かる。お陰で少しだけ考えが前進出来た。例えば先程幼体が餌と誤認した可能性のある物質として挙げた、葉緑素クロロフィルは候補から外して良いだろう。光の届かない深海に、光から栄養素を作るための物質がある筈ないのだから。

 さて、他に餌のヒントとなるものはあるのか。レイナは腕を組み、戸棚の前で考え込み……

 その最中に、ぐらりと部屋が揺れた。

 揺れ自体は珍しいものではない。この部屋は船の中に作られた一室であり、海というのは大きさを別にすれば常に波立っているものだ。最新鋭の技術で建設されたこの船でも、大きな波があれば少なからず揺れる。

 しかし此度の揺れはこれまで経験したのとは、明らかに異なるもの。

 まるで底から突き上げられたかのような、そしてレイナの華奢な身体が跳ね上がるほどの強さなのだから。


「――――ん? ぇ、あぎゃっ!? ぐぇっ!」


 考え事に夢中なあまり、自分の身体が浮いた事にすら中々気付かなかったレイナ。我に返った時には何もかも遅く、戸棚に頭を打ち付け、その後背中を床に打ってしまう。


「ふぉ、おがああぁぁぁぁ……!?」


 二連続で受けた痛みに、レイナは頭と背中のどちらを擦れば良いか分からず床の上で悶えるばかり。痛みの所為で考えは霧散し、イモムシのようにもぞもぞ動くばかり。しばらくは立ち上がる事も出来そうになかった。

 何もなければ、であるが。

 しかし何もない筈がない。ちょっとやそっとの波ではそこまで激しく揺れない船が、油断していたとはいえ大人の身体が浮かぶほどの強さで揺れたのだ。何か想定外の、大きな事故があったというのは簡単に想像が付く。

 されど痛みで思考停止している今のレイナには、そんな簡単な事すら思い付かず。


【緊急警報。船内にて爆発事故発生】


 室内に流れてきた放送の意味を理解するのに、レイナは少なくない時間を必要とするのであった。

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