緑色の野獣
レイナ達が踏み入れた森の中は、外で見た時よりも更に濃密な環境だった。
下草は足で掻き分けるのが困難なほど密度が高く、安全を重視すると一歩前に進むのに数秒と掛かってしまう。道を塞ぐように蔓が張り巡らされ、低木が空間を埋め尽くすかの如く伸びている。葉から出ている水蒸気が満ちているのか、熱帯特有の粘っこい暑さが身体に纏わり付き、更に人間達の体力を奪う。
あまりにも進行の妨げが多いものだから、まるで森が侵入者を拒んでいるような錯覚を覚えるが……人の通り道ではない、空も枝葉が満ちていた。お陰で森の中は昼間にも拘わらず真っ暗闇である。
ヘルメットに備え付けられたライトで前を照らしながらでないと、前に進めない有り様だ。
「……いや、おかしいですよねコレ」
あまりの暗さに、レイナも戸惑いと疑問を言葉にした。
「何処がおかしいと思う?」
レイナの言葉に、レイナの前を歩く先輩が訊き返す。先輩の足取りは軽やかで、慣れないレイナのためにゆっくり歩いているのだと分かる。ペースを合わせてもらって申し訳ないなと思いつつ、レイナは一度呼吸を整えるためごくりと息を飲み、それから頭の中にある文章を声に出した。
「普通、これだけ大きな森の中では下草が殆ど生えません。木々の葉が光を遮るため、光合成が出来ないからです。昼間でもライトが必要な暗さとなれば、いくら日陰に生えるような植物でも十分な成長は出来ないと思われます」
「ふむふむ。他には?」
「……此処は、熱帯性の気候をしています。高温多湿環境の場合、バクテリアや小動物が活発なため落ち葉などの有機物は即座に分解されて無機物となり、植物にすぐ吸収されてしまう。そのため土壌養分が極めて少ない、非常に痩せた土地が形成されるものです。土ではなく樹木に栄養がプールされていると言うべきでしょうか。そういう点から見ても、歩くのが困難なほど草が育つとは考えられません」
「素晴らしい。植物学の基礎はあるようだね」
レイナがぶつけた疑問に、先輩は賞賛の言葉を送る。褒められて悪い気はしないが、子供扱いされてるように感じてレイナは頬を膨らませた。
勿論前を歩く先輩がレイナの表情に気付く筈もなく、変わらぬペースで歩きながら話し始める。それは、レイナの疑問に対する答えだった。
「この地域は大昔から痩せていてね。光以外の『栄養』が殆どなかったんだ。そのためこの地に暮らす植物達は特異な葉緑体を獲得する進化を遂げ、夜のような暗闇でも生存するのに最低限の光合成は行えるようになったのさ。代わりに気温がかなり高くないと生きていけないけどね」
「成程……」
「それと土地が痩せている事から、ある生物も大繁栄を遂げていてね。時にエインズワーズさん。この辺りの虫について解説願えるかな?」
「? えっと、私に分かる種であれば」
先輩の頼みを、意図が分からないままレイナは受ける。説明するためには何か虫を見付けないといけないので、辺りをきょろきょろと見回した。しかし中々虫の姿は見付からない。
というより、全く見当たらない。
最初は、こんな事もある程度にしか思わなかった。しかし草を掻き分けながら数メートルと歩いたところで、ぞわりとした悪寒がレイナの背筋を走る。これだけ探したのに、本当に虫一匹見付からないのだ。
昆虫に限らず、小さな生物達は極めて数が多い。生物重量で考えても圧倒的多数派だ。中々見付からないと思うのは、彼等がとても小さく、保護色で景色に紛れ、葉の裏などに隠れているから。或いは簡単に見付かるような間抜けな捕食者に喰われて生き残っていない、と言うべきかも知れない。
それでも『探し方』というものはある。植物に刻まれた食べ跡、糞、糸、抜け殻……生きている以上どうしても生じてしまう、数々の痕跡。そうしたサインを見付ければ、近くに何かしらの個体がいるものだ。難なら草むらを蹴飛ばせば、驚いた羽虫の一匹二匹は飛び出すものである。
だが、この森にはそうしたサインや慌て者が何処にも見当たらない。
なら、この森には虫がいない?
「……!? なん……で……」
「虫の姿、全く見当たらないだろう? まぁ、厳密に言えばゼロじゃないけど、極めて生息密度が低いのは確かだ。僕達の半径数メートルに、肉眼で識別出来るような昆虫はいないかもね」
「そ、そんなの、あり得ません!」
先輩の説明に、レイナは思わず反発する。
昆虫は植物との結び付きが強く、大半の種が植物を餌として利用している。そしてこの森は嫌になるほど植物が豊富だ。これだけ植物があるのなら、相当数の昆虫を養える筈である。
仮に、この植物が猛毒を有していたとしても、それは見方を変えれば『競争相手のいない資源』だ。少数ではあっても適応した種が現れる筈。それすらも見られないというのは、不自然を通り越して不気味でしかない。
未知が大好きなレイナだが、ここまで逸脱した環境は流石に『昆虫学者』として受け入れ難い。先輩は困惑するレイナに説明しようとしているのか振り向き、ライトの光を顔で浴びながら口を開いた
直後、その顔から笑みが消える。
更に先輩は銃を構えた。レイナもわたわたしながら銃を構えたが、何処に向ければ良いのか、そもそも何故急に銃を構えたのかが分からない。暴発するのも嫌なので、引き金に指が伸ばせない有り様だ。
「どうしたの、ですか……?」
「……生物が捕食・被食の関係を通じて、相手の個体数に影響を与える効果をなんという?」
「え? えーっと、ボトムアップ効果と、トップダウン効果の事ですか?」
突然の問い掛けに、戸惑いながらレイナは答える。
生物学にあまり詳しくない人々は、生態系を極めて単純に考えるものだ。「頂点捕食者がいなければ、喰われる側は際限なく増えて餌を食い尽くす」というのは典型的なものだろう。
しかしそれは『トップダウン効果』……生態系機能の一側面でしかない。もう一つ、ボトムアップ効果というものが生態系にはある。餌となる生物は、自らの個体数によって上位捕食者の数を制限しているというものだ。先程レイナが考えた「これだけ植物があるのだから虫もたくさんいる筈だ」というのは、ボトムアップ効果を元にした考えである。
そこでレイナに閃きが走った。
虫達の個体数が極端に少ない。気候変動や大気汚染などの『イベント』がないのであれば、生物学的に考えられる理由は一つだけ。
それは捕食者による淘汰圧。
昆虫を食べ尽くすほどに強大な生物種の存在だ。だが、これにしても普通ならばここまで昆虫を一掃出来ない。通常の捕食者はトップダウン効果を被食者に与えるが、自らも被食者からボトムアップ効果を受けるからだ。餌が少なくなれば捕食者も減る。捕食者が減れば被食者が増える……これではただの食物連鎖にしかならない。
異常な捕食者でなければならない。つまり餌となる昆虫に対し一方的なトップダウン効果を与え、昆虫からのボトムアップ効果を殆ど受けないもの。昆虫を補食するが、昆虫を栄養源の基礎としていない逸脱者。
――――例えば、食虫植物。
「……来るぞ!」
レイナが考えに至った時、先輩が声を荒らげる。
そして先輩が銃口を向けた先から、『何か』が飛び出した!
その何かは、口を持っていなかった。身体の大半はうねる何十本もの触手が占め、触手の中心に球根のような小さな塊が一つだけある。大きさは触手を伸ばした長さで測っても、ざっと四十センチほど。球根部分だけなら十センチ程度。大きさだけで見れば人間にとって左程驚異ではない。
しかし触手の先端にある鋭い爪を見れば、そうは言えまい。
直感的な判断だが、人間の皮膚ぐらい簡単に切り裂けるだろう。爪は長いものではないが、首の動脈ぐらいは掻き切れそうだし、目に当たれば失明の恐れがある。傷口から危険な細菌や毒が入れば、それはそれで死に至るかも知れない。
そしてそんな危険な爪が、先輩目掛け振り回され――――
パンッ! と乾いた破裂音と共に、触手の付いた球根は吹き飛んだ。
先輩が発砲したのだ。吹き飛んだ触手付き球根は ― 口などの器官が見当たらないので当然といえば当然だが ― 悲鳴も上げなかったが、ダメージは受けているのか地面の上で藻掻いている。先輩は触手付き球根に近付くと銃口を球根部分に向け、更にもう一発射撃。球根部分が割れるように粉砕し、触手付き球根は動かなくなった。
身動き一つ出来なかったレイナだが、難を逃れた事は理解した。同時に、もしも一人だったら今頃この奇妙な生命体に為す術もなく襲われ、命を落としていたと予想が付く。全身が震え、足腰に力が入らなくなり、ぺたんとへたり込んでしまう。
それでも、座り込んだ後にへらっと笑ってしまったり。
何しろこんな不思議植物、今まで見た事も聞いた事もないのだ。高鳴る心臓の鼓動は、恐怖かワクワクか。
きっと、両方だ。
「な、なん、ですか、これ……」
「この森に暮らす食虫植物の一種。まぁ、コイツはその中でも元気な方だけどね」
引き攣ったとも興奮しているとも取れる声を出していたレイナに、先輩は淡々とした口調で答えた。
尤もこの答えで納得出来るほど、レイナも単純な頭はしていない。獲物に反応して動く食虫植物など珍しくもないが、コイツはいくらなんでもアグレッシブ過ぎだ。
「食虫植物って、こんな、動物みたいに動くものじゃないと思うのですが……」
「この辺りの土壌は大昔から痩せていたと言っただろう? つまり食虫植物が発生するのに適した環境で、大昔から数多くの食虫植物がいた筈だ。そこに怪物の『原種』が発生し、豊富な餌を供給した事で、より食虫に特化した種が進化した。そう考えられている」
「つまり、この食虫植物は、怪物により誕生という事ですか……?」
「勿論仮説だけどね。でもこの地にだけ獰猛な食虫植物が生息しているのは、この土地特有のものに原因があると考えるのは自然な事だろう?」
先輩からの説明に、レイナはこくりと頷く。けれども正直、納得とは程遠い心理だ。
存在するだけで、特異な生物すらも生み出す種。
それ自体は、決しておかしな事ではない。進化とは環境に適応する事であるが、環境とは気温や湿度だけのものではない。天敵や獲物、生活空間や餌が競合するライバル、病原体などの『生物的要因』も非常に大きい。ある生物への適応の結果として特異な生態を持つ種というのは、決して珍しくないものだ。
しかし自走する食虫植物なんて、いくらなんでも特異過ぎる。まるで異星にでも迷い込んだかのような気分だ。そして異星の生態系に、既存の生物学の常識なんて通用しない。
果たしてこんな場所から生き残れるのか……?
「あ、ちなみにそいつまだ生きてるから、触らない方が良いよ。今は活性が低下してるだけで、二酸化炭素を発するものが接近すると動き出すんだ」
「ひゅっ!? え、い、生き……!?」
「植物だからね。バラバラにしても何日かすると再生して、活性を取り戻すよ。完全に殺すなら燃やすのが一番だけど、燃えた時の二酸化炭素に反応してわらわらと集まってくるから、此処でやっても状況が悪化するだけなんだよねぇ」
そうして自分が生死の恐怖を感じているというのに、相手は銃で吹っ飛ばされても無事ときた。
ズルい。こっちは死ぬかも知れないのに、向こうはちょっと痛いだけなんて。
その不公平さにレイナは――――闘志を燃やす。
自然は大好きだ。昆虫が一番好きなのは変わらないが、植物だって好きである。けれども一方的にやられるのを良しとするかは別問題。いや、むしろ生き物が好きだからこそ……人間という『生物種』もそれなりには好きなのだ。
嘗められたままなんて癪だ。何がなんでも絶対に生き延びてやる。
そしてこの森を生み出した
「……すみません、取り乱しました」
「お、そうかい? 手は貸さなくて平気?」
「はい、大丈夫です」
自分で断りを入れ、抜けていた腰に力を入れる。レイナはすっと立ち上がり、ちゃんと自分の足で立ってみせた。
先輩はレイナの立ち姿を見て、満足げに頷いた。もしかして精神力を試されていたのだろうか? そう思うと立ち上がるために抱いたこの意地も見透かされているような気がして、なんだか気恥ずかしくなってくる。
「いやー、何時までも座り込んでいたらどうしようかと思ったよ。そろそろ逃げないと危ないところだったからさぁ」
そんな気恥ずかしさは、あたかも大した事ではないと言わんげな先輩の言葉で吹っ飛んでしまったが。
逃げる? 何から? そろそろ危ない? なんで?
「あの……どういう……?」
「さっき倒した植物、破損時の汁に誘引物質が含まれていてね。倒すと仲間を呼ぶんだよ」
「……え?」
「だからさっさと逃げないと包囲され……あ、手遅れっぽい」
極めてあっさりとした説明。そしてその説明の詳細を訊く暇はない。
茂みの中から、無数の触手付き球根が跳び出してきたのだから――――
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