いざ秘境へ

 マダガスカル島。

 世界で四番目に大きな島であり、島内で見付かる動植物の凡そ九割が固有種という稀少な自然を有する土地だ。しかしながら人間の開拓により島内の森林は激減し、現代も違法な伐採が後を絶たない。既に生態系はかなり破壊され、科学者の多くはマダガスカル島の自然が、稀少な動植物が永劫に失われる事を危惧している。

 『ミネルヴァのフクロウ』も一般的な科学者達と同様に、マダガスカル島の自然破壊を警戒していた。ただしその理由は稀少な動植物の消失ではなく……原生林に潜む『怪物』達が森から出てくる事で、人類文明の命運そのものが左右されかねないからなのだが。

 レイナに与えられた任務は、そんな恐ろしくも神秘的な『怪物』の一種の生態調査だ。

 レイナは知っている。『怪物』と呼ばれる生物がどれほどの存在であるかを。十歳の時目の当たりにした野生の闘争は、今でも彼女の心に深く刻み込まれていた。大地を溶解させる酸が飛び、近代兵器染みた爆炎が巻き起こり、それらを凌駕する肉弾戦が繰り広げられる戦場……あのような生物が人間の町に出たなら、何万という人が瞬く間に死んでもおかしくない。或いは彼等が滅びて自然のバランスが崩れれば、やはり大きな ― イギリス国民が全滅するような ― 災厄が起きる。

 マダガスカル島の『怪物』の生態に変化が起きていないか、起きているとすればそれが何を意味するのか……レイナ達『ミネルヴァのフクロウ』の研究結果は、文字通り世界の未来を占う重要なもの。『怪物』の調査を命じられたレイナも、自分達の役目の重要性はちゃんと理解している。

 ――――が、ぶっちゃけその辺りの事情は、レイナ的にはあまり興味がない。人命が脅かされないに越した事はないが、生憎見ず知らずの人間よりも、見ず知らずの不思議生物の方が好きなのだ。兎にも角にも不思議とワクワクを知りたい。

 つまるところレイナは純粋に此度の任務を楽しみにしており、


「ついに到着したぞマダガスカルぅーっ!」


 マダガスカル島の空港の到着ロビーにて、レイナは年甲斐もなくはしゃいでしまった。お洒落と無縁な厚手の長袖長ズボンは元気よく跳ねるレイナの動きを妨げず、その喜びを大いに表現させてくれる。背負うリュックサックはかなりの大きさだが、レイナの高々とした跳躍は重さなど感じてないと言わんばかりだ。

 まだまだ若いとはいえ、二十歳となれば十分に大人である。仲間内でわいわい盛り上がるならまだしも、一人で子供染みた仕草をするレイナに、周りの大人達から冷めた視線が向けられた。されどレイナは気にも留めない。むしろ大人になろうとも抑えきれないワクワクとドキドキを感じている事が誇らしく、恥じる事なく胸を張った。

 とはいえ何時までもはしゃいでいる訳にはいかない。ドキドキワクワクな任務であるが、同時にこれは仕事でもある。ちゃんとやらなければ『クビ』になるかも知れない。

 勿論調査は全力かつ真面目に行う。が、社会人というのは、職務を全うするだけで褒められる立場ではないのだ。身嗜みも大事だし、敬語やマナーも最低限使えねばなるまい。

 そして時間を守る事も大切である。

 レイナは腕時計から今の時刻を確かめた。現地時間で午前十時ちょっと前。飛行機内で時計は合わせたので、時刻は恐らく間違えていない。

 此度の任務はレイナにとっては初仕事。そのため先輩と共に調査を行う手筈となっており、その人物と午前十時に到着ロビー付近にある待合室で待ち合わせとなっている。時間的にはピッタリだが、逆に言えばあまり余裕がない。早く待合室を見付けなければ、初仕事の初っ端から大失態だ。

 幸いにして、待合室はすぐに見付かった。背負ったリュックサックを揺らしながらレイナは待合室へと向かい……


「あっ」


「ん?」


 丁度反対側からやってきた男性と、部屋の入口で鉢合わせてしまった。

 男性は、眼鏡を掛けた細面の人物だった。顔立ちは日系人のようで、レイナより少し年上に見える。背は長身のレイナと大差ないものの、よく鍛えられているようで身体付きはガッチリとしていた。彼が背負う鞄は人の背丈ほどもあり、バイオリンケースかと思うほど。服装は観光客のようなラフなものだが、それでいて生地がしっかりとしたものを着込んでいる。

 等々細かに観察してしまったが、一言でいうなら見知らぬ人だった。


「あ、すみません。どうぞ」


 待合室は見付けたので、今は急いでいない。日系人のようなので日本語で道を譲った……のだが、男性は待合所に入ろうとせず、レイナの顔をまじまじと見つめていた。

 確かに自分の容姿が男性受けするのはレイナも自覚するところで、じろじろと見られる事自体は割と慣れていた。そして慣れているが故に、この男性の視線が下心を含んだものではなく、観察するようなものであると気付く。

 自分をこのように見てくる人物の心当たりは、レイナには一つしかない。


「すみません、あなたはレイナ・エインズワーズさんでよろしいですか?」


 そしてこの質問により、心当たりは確信へと変わる。

 彼こそが待合室で合う予定だった『ミネルヴァのフクロウ』の先輩研究者だ。


「あ、はい。そうです」


「ああ、良かった。えっと自分は」


「Hey, until what time are you talking long?」


 自己紹介を始めようとする先輩研究者だったが、レイナの後ろに立つ白人の苛立った声に妨げられる。曰く「何時まで長話してるんだコノヤロー」……つまり早くそこを退けという事だ。

 確かに待合室の扉の前で立ち話など、邪魔者でしかない。レイナと先輩研究者は頭を下げつつ、そそくさとその場を後にする。白人は舌打ちしながら待合室へと入っていった。


「あはは、怒られちゃったね」


「ですね……」


「此処に居るとまた邪魔になりそうだし、移動しながら話をしようか」


「はい、よろしくお願いします」


 待合室から離れるように歩きながら、レイナは先輩研究者と言葉を交わす。向かうは空港の外にあるタクシー乗り場。

 そこに停められたが、レイナ達を恐ろしい怪物の下へと運んでくれるのだから――――






 流石に、車一台で行ける場所ではないとレイナも思っていた。

 とはいえ車でしばらく進んだ後いきなりヘリに乗り換え、何処かの山奥に着陸後どう見ても原住民らしき人々が操る軽トラックへと乗り継ぐ事になるとは思わなかったが。レイナ達は今開けた土地 ― 開発された結果ではなく、火山噴火か何かで荒廃した土地のようだ。黒くてゴツゴツした石が広がっている ― に下ろされ、同じく車から下りている運転手と向き合っている。


「バ、ルバペルバ、ナーカバベムンバ?」


「ベベラーパー」


 此処までレイナ達を運んでくれた運転手が、謎言語で不安そうに話し掛けてくる。先輩研究者が謎言語で返答すると、運転手は顰め面を浮かべつつ、自分が運転していた軽トラックへと戻った。それからトラックはかなりのスピードで走り出し、あっという間にレイナ達の視界から消える。

 ぽつんと残されたのは、レイナと先輩の二人だけ。

 二人とも、空港の時のような軽装ではない。頭にはヘルメットを被り、靴は厚手で頑丈なもの。背負うリュックサックや鞄こそ空港に持ち込んだものと同じだが、こちらは元々旅行向きではなく登山用の代物だ。

 服は両手首両足首までしっかりと覆われた長袖で、作業着のようなデザインをしている。見た目からして十分に丈夫そうだが、これは『ミネルヴァのフクロウ』から支給された探検用の衣服だ。支給された時の説明曰く、拳銃の弾丸程度なら受け止める驚異的な耐久性があるらしい。それほどの防御力を持ちながら、シャツ一枚で動いているような気がするほど軽量である。

 詳しい素材については聞かされていないが、恐らく『怪物』由来の成分や技術から作られた産物だろうとレイナは考える。例えば幼少期の頃に出会ったカタツムリのような怪物は、爆炎や強酸さえも防ぐ殻を背負っていた。あの殻の機能を再現した鎧が出来れば怪物の攻撃だって怖くないだろう……再現出来れば、であるが。人間の技術力を過小評価するつもりはないが、あんな出鱈目性能はそう簡単に真似出来るものではあるまい。

 しかしながら、ある程度は出来ていないと困る。

 何しろこれからレイナ達は目の前に広がる大森林――――『星屑の怪物』が潜む世界に足を踏み入れるのだから。


「……凄く、その、鬱蒼とした森ですね」


 レイナは無意識に、同意を求めるように先輩に向けて自分の感想を呟く。

 そこは、とても密度の高い森林だった。高さ五十メートルはあろうかという木々が隙間なく生え、広げた葉が分厚い雨雲のように空を覆っていた。森の中は夜を彷彿とさせるほど暗く、五メートル先すら見通せない。にも拘わらず地上には無数の草が生い茂り、地面が見えなくなっている。

 通常、森というのは木々の葉が光を遮ってしまうため、地上ではあまり植物が育たないもの。なのにこの森では下草が、まるで草原のように元気だ。この不思議は人類が何百年と築き上げた生物学を、根本から否定している。あたかもこの先はもう、人間の常識が通じる世界ではないと物語るかのように。

 しかしレイナは臆さない。むしろ常識が通じない世界なんて、見るもの全てにワクワク出来そうだと胸を躍らせ、自然と笑みが浮かんだ。


「そうだねー、此処は何時来ても緑が濃い。植物学者としては、ここはとても良い場所だよ」


 喜びを露わにしているレイナに、先輩は同意しながら歩み寄ってくる。レイナは目をぱちぱちさせながら、先輩の方を見た。


「あれ? 先輩って植物学が専門なんですか?」


「一応ね。最初は被子植物研究のエキスパートとして呼ばれたんだ。ま、今じゃ虫も獣も微生物もやってるけど」


「おー……多才なんですね」


「いやいや、うちの組織に入ったら嫌でも色んな分野に詳しくなるよ。というか詳しくならないと死ぬし」


「成程、死ぬなら確かに誰でも詳しく……死ぬ?」


「うん、死ぬよ」


 話の中で不意に出てきた物騒な単語を繰り返すと、先輩はにこにこ微笑んだまま肯定する。確かに怪物の強大さを思えば命が幾らあっても足りないだろうが、しかしさらりと『死ぬ』と言われると、レイナとしても少し怯む。


「あ、一応護身道具も渡しとくね。人に向けちゃ駄目だよ? 頭に当たったらスイカみたいにばーんって弾けるから」


 更に先輩は背中の巨大鞄からおもむろに大きな銃器 ― 自動小銃と呼ばれる類のものだ ― を取り出すや、なんの躊躇もなくレイナに渡そうとしてきた。

 ハーフではあるが生まれも育ちも文化的背景も日本であるレイナからすれば、えらく物騒な代物である。


「ぎ、ぎょわーっ!? 銃とかいきなり渡さないでくださいよ!? というか空港に持ち込んでいたんですか!?」


「え? あ、そっか。日本じゃ銃なんて滅多に使わないよね。いやー、失念してたよ。ちなみに持ち込みは事前に申請しておくと『ミネルヴァのフクロウ』がごにょごにょっとしてくれるから大丈夫だよー」


「何も大丈夫じゃないっ! というか先輩も日本人でしょ!? なんで銃の扱いこんなに雑なんですか!?」


「日本人だけど、海外生活が長くてね。最近は銃を持ってない時の方が少ないなぁ」


 まるで大した事ではないかのように、けらけらと笑う先輩。この人最早狂気に染まっているとレイナは思い、無意識に後退る。

 だが、確かに銃は必要かも知れない。

 此処は安全な日本の都市部ではない。何時物陰から恐ろしい生物が現れ、喉元に鋭い牙を突き立ててくるかも分からない『野生の王国』なのだ。

 武器も持たずに入るなど自然を嘗めている。人間もまた一つの生物として、全力で挑まねば無事では済むまい。そして人間の本気とは、先祖代々積み重ねた技術から生み出された文明の利器を用いる事。銃はその最たるものの一つだ。

 レイナは恐る恐る先輩の手から銃を受け取る。金属製の武器は相応に重く、危うく落としそうになってしまった。落とした拍子に暴発……あり得ない事ではないだけに、レイナは顔を青くしながら両手でしっかりと銃を握り締める。

 実のところレイナはマダガスカル島に来るまでの間に、『ミネルヴァのフクロウ』から銃の扱い方マニュアルを研修資料として読まされていた。まさかこんなすぐに使う機会があるとは思わなかったが、真面目に読んでいたのでなんとか資料の内容を思い出せる。例えば映画やドラマでは常に引き金に指を掛けているイメージがあるが、それは間違った持ち方だという事。引き金に指を掛けてると、ちょっとした刺激で暴発しかねない。今撃っても構わないという状況以外、指は引き金に触れないよう真っ直ぐ伸ばしておく。銃口も、基本的には下を向けておくものだ。間違っても人に向けてはならない。

 こんな持ち方で大丈夫だろうか? 心配になり先輩の方をちらりと見れば、とても自然体な事以外、先輩もレイナと大差ない持ち方をしていた。ならば大丈夫だろうと、安堵の息を吐く。


「うん、準備は出来たみたいだね。それじゃあ出発しようか」


「は、はいっ! よろしくお願いします」


「ははっ、あまり緊張し過ぎないでも大丈夫だよ。この森の生物は比較的大人しくて危険はないからね」


 ぺこりと頭を下げながら改めてお願いすれば、先輩は楽しげに笑いながら答える。大人しくて危険はない、という言葉を何処まで信じて良いかは分からないが……少しだけ、気が楽になった。

 そう、これから挑むは怪物達のひしめく世界。

 恐ろしさはあるが、それを凌駕するワクワクがレイナの胸を満たした。


「そもそもどいつもこいつも銃なんて効かないから、駄目な時は何やっても駄目だし」


 尤も、続け様に言われたこの言葉で、ワクワクの気持ちは氷のように固まってしまったが。


「……え? あの、どいつもこいつも? 怪物だけじゃなくて?」


「質問は受け付けないよー。説明したって、この目で見るまで納得なんて出来ないんだからさ」


「え、あ、ちょ、えっ!?」


 困惑するレイナを無視して、先輩は森の方へと歩き出す。レイナの足は竦み、思わずその場に立ち尽くしてしまう。

 けれども、周りの森から聞こえてくる不気味な叫び声の主達と仲良くなれる予感はしない。

 このまま独りぼっちでいたらどうなる事か。


「……ま、待ってくださーいっ!」


 バタバタと慌ただしく、レイナは先輩の後を追う。

 いよいよ初めての『任務』。

 未だ胸の中はワクワクでいっぱいなのだが、その隙間を縫うように不安と恐怖心がレイナの心を浸食するのだった。

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