悪魔達のケンカ
最初レイナは、迫り来る巨大昆虫をチョウやガの仲間だと思った。
何故なら広げている翅が、薄く、膜のようだったからである。例えるならば天女の羽衣。奇怪にして幻想的な翅はどうやら自力で発光しているらしく、周囲の木々の光さえも打ち消し、辺りを鮮やかな虹色で染め上げる。極めて強い光だが、太陽を肉眼で見た時のような鋭さはない。優しさも兼ね備えた、不思議な光だ。
そうした光を纏っていたため、昆虫の全体像はよく見えた。だからこそ、レイナはしばし観察する事で巨大昆虫が
「(……綺麗)」
ぼんやりとレイナが見つめる中、巨大昆虫はゆっくりと舞い降り、広間に着地。幸いにしてレイナが踏み潰される事はなく、疲れも忘れて立ち上がったレイナはその巨大昆虫を観察する。
大きさは、優に三十メートルはあるだろうか。史上最大の動物と称されるシロナガスクジラでも、三十メートルを超える事は稀と聞く。ましてや浮力がない陸上に立つどころか、舞うように空を飛ぶなど明らかにおかしい。人類の常識が尽く無視されている。
本来なら、恐れ、忌むべき存在なのだろう。
しかしレイナは怯えなかった。見惚れていたと言う方が正しいかも知れない。半ば無意識に、ゆっくりと歩み寄ってしまう。尤も巨大昆虫はレイナなど見向きもせず、その場に寝そべるだけ。手を伸ばせば触れられる位置に来ても、巨大昆虫は触角一つ向けてこない。
どうやら人間に興味がないようだ。
『彼』の ― 雄である確証などないが ― 心境を想像し、レイナはごくりと息を飲む。興味がないという事は、気紛れに足を伸ばし、無意識にこちらを踏み潰してくるかも知れないという事。踏み潰されたら、あっさりあの世行きだ。
だけどレイナは離れようとしない。
それどころか好奇心が抑えきれず、レイナはゆっくりと巨大昆虫に手を伸ばし――――
今まで寝そべっていた巨大昆虫が突然起き上がったので、びくりと飛び跳ねてしまう。
もしかして怒らせてしまったのか? 今になって自分がどれだけお馬鹿だったか自覚し、レイナは慌てて巨大昆虫から距離を置く。ところが巨大昆虫は、レイナの方など見向きもしない。最初から最後まで、レイナの事など気付いてもいない様子である。
なら、一体何に対して反応している? 彼が身構えるような存在とはなんだ?
レイナは息を飲み、巨大昆虫が見ている方角に視線を向ける。耳を澄ますと、ケダモノの叫び声に混ざり、パキパキと枝を折る音が聞こえた。
その音はゆっくりとだが、こちらに近付いている。
ごくりと息を飲むレイナ。少しずつ、後退りして広間の縁まで移動する。音は変わらず接近を続け、いよいよ間近まで迫り……
百メートル超えの巨木を軽々と薙ぎ倒し、『それ』は現れた。
一言で語るなら、カタツムリだった。あくまでも一言で語るなら、だが。確かに『それ』は軟体らしき身体を持ち、大きな貝殻を背負っている陸貝だ。しかし体長が三十メートルを超える体躯なんて、甲殻すら持たない生物が維持出来るものではない。二本の角なんてなく、タコのような眼球が左右に六つずつ、頭部らしき場所に嵌まっている。背負う殻は渦など巻いていない、サザエのような、大岩に似た塊だ。
「ブルルルルルルルゲルルルルルルッ!」
そして頭のような部分に付いている口は、開けばヤスリのようにびっしりと内に敷き詰められた歯を剥き出しにし、おぞましい声で鳴く。
巨大昆虫が神々しさの化身なら、こちらは悪魔の化身だろうか。幸いながらこの悪魔的軟体動物もまた、レイナになんの興味も示さない。或いはレイナなんて気にしている場合ではないのだろう。
自分を睨み付けている巨大昆虫が、激しく闘志を燃やしているのだから。
「キュルルルルル……」
巨大昆虫は清水のように透き通った声で鳴き、ゆっくりと歩き出す。巨大カタツムリも進み、両者は少しずつ距離を詰める。
気付けば、森の中は静寂が見たされていた。虫の声も、獣の雄叫びも聞こえてこない。まるで、この森にはあの巨大生物二匹しかいないかのように。
やがて二体の巨大生物の距離が五メートルを切った、瞬間、新たな動きが起きた。
「キュルアアアアアッ!」
巨大昆虫が、巨大カタツムリに跳び掛かったのだ。
何百トン、いや、何千トンもありそうなカタツムリの体躯は、巨大昆虫がお見舞いした体当たりでふわりと浮かぶ。同時に、衝撃波が辺りに吹き荒れた。
「きゃあっ!? ――――ぐぇ!?」
十歳の身であるレイナの身体は簡単に吹き飛ばされ、ころんころんと大地を転がる。幸運にも背後に大きな木がなければ、十メートルは飛ばされたかも知れない。
人間の子供が背中を打った痛みで苦悶の表情を浮かべる中、巨大昆虫は気にも留めずカタツムリを襲う。足先にあるナイフのように鋭い爪を、カタツムリの軟体部分に突き立てた。人間の身体程度なら一瞬で真っ二つに出来そうなほど鋭く立派な爪は、しかしカタツムリの表面をぐにゃりとなぞるだけ。柔らかなカタツムリの肉質は、どういう訳か防刃性にも優れているらしい。
カタツムリもやられてばかりではない。一般的にカタツムリはとてものろまな生き物だが、この巨大カタツムリは違った。なんと跳躍し、巨大昆虫に背負う殻をぶつけたのである。皮膚すら巨大昆虫の爪が通じぬ強度があるのだ。殻の頑強さがそれを上回るのは当然の事。身体に走る衝撃に、巨大昆虫の複眼が驚きの色に染まったように見えた。
しかし巨大昆虫の闘志は失われていない。巨大昆虫は足で大地を踏み締めると、ぐるりと身体を横回転。回し蹴りをカタツムリにお見舞いする。蹴られたカタツムリの巨体はずるりと大地を抉りながら後退。だがこちらも怯まず、再度跳び掛かる。
二者の対決は激しさを増していく。ぶつかる度に暴風が吹き荒れ、大地が砕け、大気が加熱していく。なんという肉弾戦か。この熱い戦いに比べれば、日本の国技である相撲さえも子供同士のじゃれつきにしか見えないだろう。
「ブルゲアゲゲゲッ!」
繰り広げられる激戦の中、カタツムリが咆哮を上げる。それと同時に殻の奥から筒のような触手を出す。
すると触手から太さ十センチはあろうかという、濃緑のレーザーが撃たれたではないか。
いや、レーザーではない。巨大昆虫の胸部に命中したそれは、びちゃびちゃと飛び散ったからだ。恐らく液体を高圧高速で発射したもの……そんな冷静な考えを抱くも、レイナは不意にぞわっとした悪寒に見舞われる。
飛び散った液体の一部が、こちらに飛んできたのだ。
それがどんな液体かなんて、レイナに分かる筈もない。だが液体を浴びた巨大昆虫が、巨体同士の体当たりを平然と耐えた彼が、液体を浴びて怯んだように身を仰け反らせている。
一滴でも浴びたら、人間だったら死んでしまうのではないか。
「ぴ、ぴゃああっ!?」
レイナは悲鳴を上げながら、慌ててその場から逃げた。
またしても幸運な事にレイナの側には、吹っ飛ばされた自分を受け止めてくれた巨木が生えていた。素早くレイナは巨木の陰へと入り、顔を覗かせたい衝動を抑えて身を隠す。
やがてすぐ傍に、飛んできた雫らしきものがぴちゃりと落ちてきた。
するとどうだ。地面がじゅうじゅうと音を立て、溶け始めたではないか。飛んできた雫は小さかったのに、地面がマグマのようにぶくぶくと沸騰した水溜まりになっている。
強酸だ。それもこの地のイモムシが吐いていた、恐らく植物由来であろうものよりも遙かに強力な。
一滴でも浴びたら命が危ない。本能的に感じた予感は正しかったのだと分かり、レイナは震え上がる。こんな出鱈目に強力な酸なんて、聞いた事もない。同時に、これほどの強酸を体内に有していながら平然としているカタツムリに畏怖の念を抱く。
姿形は違えども、あのカタツムリもまた人智を超えた存在なのだ。
なら、その人智を超える生物と激突する巨大昆虫は?
「……っ」
飛び散る酸の音が聞こえなくなるや、レイナは木陰から顔を覗かせる。
巨大昆虫は、生きていた。大量の強酸を受けた胸部の一部が焼け爛れていたが、それだけ。たった一滴で人間を死に至らしめるであろう酸の濁流も、この神々しい昆虫には火傷を負わせるのが精々だった。
しかし痛みはあったに違いない。でなければ巨大昆虫が、怒気を放つ筈がないのだから。
巨大昆虫は前足を地面に突き立てると、その足をぐっと伸ばして自身の身体を持ち上げる。必然カタツムリと向き合っている身体は、(昆虫の部位ではなく、普段は地面の方に向けている側という意味での)腹を見せる格好だ。
どうしてわざわざ腹を敵に見せるのか。普通、動物にとって腹は脆弱な部分であり可能な限り隠そうとするもの。それを敵の前で晒すのだから、相応の理由がなければおかしい……レイナは疑問から巨大昆虫の腹を凝視する。翅が放つ輝きにより、その細部まで簡単に観察出来た。
故に気付く。巨大昆虫の腹に何か、イボのような突起がある事に。
「キュルルルルッ!」
巨大昆虫が猛々しく鳴くや、突起から吹き出したのは霧のような煙。
もしやアレも酸なのか? 不思議な事ではない。この森の植物にはどれも強酸が含まれているのなら、この森の植物を食べているであろう彼等がその成分を蓄積しているというのは頷ける生態だ。
そう、そこまでは人間の常識に当て嵌まる。もう何度も常識なんて吹っ飛ばされているのに、レイナはこの期に及んでまだ常識的に考えてしまった。
巨大昆虫が出したものは、酸ではなかった。
空気と混ざり合うや、霧は赤色に色付き――――瞬時に燃焼。
爆炎が、カタツムリを飲み込んだ!
「え、きゃああああああっ!?」
突然の爆発、そして襲い掛かる爆風に驚き、レイナには踏ん張ろうとする暇すらなかった。小石のようにレイナの身体は飛ばされてしまう。
巨大昆虫が吐き出した霧は、可燃性の物質だったのだ。爆炎は百メートルはあろうかという巨大なものとなり、キノコ雲を立ち上らせる。最早人間ならどうこうなんて威力ではない。戦車や核シェルターなども容赦なく吹き飛ばすだろう。
これにはさしものカタツムリも参ったに違いない。
「ブルルルルゲアアアアアッ! アブゲルルルルブルルルル!」
そんな考えが通用するほど、奴も甘くもなかった。
爆炎の中から現れたカタツムリは、確かダメージを受けている様子だった。しかし致命傷には程遠い。むしろまだ上があったのかと思うほど、怒りのボルテージを増している。軟体に負った火傷を庇う事すらせず、巨大昆虫に突撃。巨大昆虫もこれに呼応し、再び両者は肉弾戦を繰り広げる。
すぐ傍に居る人間など、目もくれずに。
どちらも自分を見ていないと改めて理解したレイナは、ゆっくりと立ち上がり――――争う二体の怪物に歩み寄った。
レイナは生き物が好きだ。
だから環境保護や生物保全が大切だという考えに、よく賛同したものだ。人間の力はあまりにも大きい、だからこそ地球の生き物を守らなければならない……そんな考えを土台にして。それは珍しい考えではないだろう。誰だって臆面もなく言える事柄だ。
なんという世間知らずなのか。
人間の力が大きい? たった二匹の無脊椎動物の争いに、ひーひー言いながら逃げていただけなのに。
地球の生き物を守る? 一体この逞しい生命を何から守れと言うのか。
もしも彼等が人里に現れれば、それだけで人の世は何もかも破壊される――――理屈ではなく、本能でレイナは察した。自分達の安寧はただの思い込みでしかなく、なんの根拠もない。まるで何もかも理解したかのように人類が暮らすこの星には、まだまだたくさんの不思議があるのだ。
それを知ったレイナの胸に湧き出すのは、『興味』。
知りたい。もっと知りたい。彼等が何者なのか、彼等がどんな存在なのか。人間との関わりは。世界にどんな形で拘わっているのか。そして人類が見下したこの
レイナは彼方で戦う生命を求めるように、そっと片手を伸ばして――――
「おい!? 何をしているんだ!」
唐突に、背後から人間の言葉で呼び止められたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます