1−3「浸水」
墓場の並ぶ通路に立つ主任…彼女は大型のゴムボートの紐を引っ張ると、僕の顔を見るなり「清掃は終わった?」と聞いてきた。
「…まあ、大体。」
実際、彼の話を聞いていたこともあり、どこまで綺麗になったか微妙なところだが、少なくとも表も裏も大まかな苔は落とせたような気がした。
「ふーん、ま、いいわ。じゃ、ボートに荷物と一緒に乗って…もう始まるし。」
(何が?)とは聞かずに僕はさっさと清掃用具を片付けボートに乗り込む。
慌てているのは顔からダラダラと血を流す平塚くん。
彼は狼狽した様子でボートには乗らず僕らに叫び出す。
『な、なんだよ。なんで俺が死んでいると思っているんだよ。』
焦る平塚くんに主任は言った。
「いや、小菅くんが名乗ってもないのに君は名前を知っていたでしょ。防護服にも持ち物にも名前は書かれていなかったのに…ま、死期の前後は第六感が鋭くなるし、虫の知らせみたいなもので聞かずともわかっちゃったんでしょうけどね。」
『え…あ…俺が?』
オタつく平塚くんに主任は顔をぐっと近づけてこう言った。
「でも、小菅くんを死地に誘うのは諦めなさい、余計な罪を背負うことになる。班長の飛田も、あなたに対して行った記憶処理は失敗だったと反省しているし、本来ならば会社からもあなたに対してそれ相応の対応ができたのだけれど…人を死なせてしまった以上、それも難しいみたいだし。」
『記憶処理?人を…?ちょっと待て、俺が?何のことだよ、おい…!』
いつしか遠くから鈴の音が聞こえ、ボートがわずかに揺れている。
…そして、下を見た僕は驚いた。
ボートが水に浸かり、水中には赤紫色の花がいくつも咲いていた。
水草のようにゆらゆらと揺れる花は平塚君の足に絡みつき動けなくさせている。
『おい…嘘だろ?』
水かさはさらに増していく…まるで三途の川のように。
『おい。なんで俺を置いていくんだよ。飛田が…アイツが俺に何したんだよ!』
叫ぶ平塚くんはすでに水深2メートル以上の深さにいて、声は届くもののその姿は水かさが増すたびにさらに小さくなっていく。
『…ちくしょう、ちくしょう…!何なんだよ、ここは一体何なんだよ。』
その時、僕は見た。
平塚くんの周囲に巨大な魚が…数メートル以上はある巨大な魚が群れ集い彼の周りを囲んでいくのを。
『…!…!!』
もはや叫び声は届かない。
魚に四方八方から食いつかれ餌になってしまった平塚君の声は届かない。
巨大な魚の背には人の顔がチラチラと映る。
…それは、大小問わない人の顔。怒りに満ちた人の顔。
「彼はトラックにぶつかった後、運転席が破損した状態で暴走してカフェテリアに突っ込んだの。昼時ということもあって犠牲者は10人を超えたわ。会社にも不備があったとはいえ故意に車をぶつけてしまった以上、死者の恨みが彼に向かわないはずはないし…」
顔を上げる主任。
いつしか水かさを増した墓地は巨大な運河となり果て、奥には光る橋が架かり、白い服を着た人や船に乗った人々が向こう岸に渡っているのが見えた。
そして、ずぶ濡れで岸の反対側に打ち上げられる平塚くんの姿も…
「死者は魂がある限り何度でも再生する。そして着ている衣は三途の川の水を吸った重さによって地獄か極楽行きか決まるそうよ。だから彼はきっと…ね、そう思いませんか?飛田班長。」
その言葉に僕はいつしかゴムボートの隣で同じように呆然とする男の姿を見る。
「あなたは上の許可なしに平塚くんに記憶処理をした後も仕事を続けさせ、その場で起きる現象を常に否定するように指導していたようですね。」
飛田班長と呼ばれた疲れた顔の中年男性。
彼は一人乗ったボートの上でびくりと体をこわばらせる。
「あなたの行った行動について上では委員会を発足し、査問会を開くということで一致しました。ボートから帰還後、専属のエージェントについて会議室まで同行ください。」
「…わかった。」
絞り出すように声を上げる飛田班長。
その視線の先。
平塚くんはずぶ濡れのまま立ち上がるとゆらりとこちらを見る。
再生が間に合わず、ところどころ食いつかれた痕の残る顔。
その目が恨みがましく…飛田と呼ばれた男をじっと見ていた。
「それと、辞める考えもお持ちのようですが委員会はそれを許さないと思います。ここを辞めるときには社員全員に記憶処理が行われる。でも、あなたにとってそれは平塚くんを犠牲にした挙句、現場の責任を放棄したことになる。」
そう言って、主任はボートのオールを持ち出すとゆっくりと飛田さんから離れるようにボートを漕ぎだす。
「査問会へ向かうのはいつでもいいです。委員会はあなたのことを常に見ていますから。あなたがこの場所から出られた、その時に向かってください…」
…飛田さんのボートには先ほど平塚くんに群がっていた魚が集まってきていた。
その背の顔はどれも怒りに満ちた顔で彼を睨みつけている。
そして怯える飛田さんのボートをたった一隻残し、僕らは、岸から壁際にあった防水扉をくぐり抜け、今や広大な川となった墓地を後にすることにした…
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