第154話 蜂の深愛
多少ドタバタしてしまったが、最終的に蝶野会長はちゃんと服を着た上で僕の部屋を出ていった。
会長の言動があまりにも常軌を逸していたため、僕はさっきからずっと緊張しっ放しだったが、これでやっと一息つける……とはならないのが悲しいところだな。
「こほん。さて、そろそろいいかしら、義弘?」
蜂須は軽く咳払いをした後、ギロリと僕を睨み付ける。
今この部屋には僕と蜂須が2人きりという状況であるため、万が一彼女がまたカッターナイフを持ち出せば、最悪の事態を迎える事は確実だろう。
正直、今の蜂須は一番2人きりになりたくない相手なのだが、それをストレートにぶっちゃけるのもやはり危険が伴う。
故に、当たり障りのない振る舞いを心掛けてこの場を凌ぐのが、僕にとっての最善策となるはずだ。
「あんた、さっきは蝶野生徒会長と随分お愉しみだったみたいね?」
「それは誤解だ。僕が目を閉じて抗っていたのを、綾音も見ていただろ?」
「確かに見たけど、あたしが部屋に入るまで何があったかまでは分からないわよね?」
「僕を信じてはくれないのか?」
蜂須が僕を信用できないと言うのなら、もう僕にはどうしようもない。
完全にお手上げだ。
これ以上、5分間のアピールタイムとやらを続ける意味は皆無だろう。
しかし、蜂須にも当然その程度の事は分かっているはず。
果たして、彼女は如何なる手を繰り出すのか。
蜂須の言葉を待つ間、室内の空気が徐々に重さを増し、僕の全身に容赦なく圧し掛かってくる。
高まっていく緊張感の果てに、蜂須が発した言葉は――。
「言葉よりも、目に見える形で約束を取り交わした方が確実でしょ。だから、これ書いてもらえるかしら?」
蜂須が懐から婚姻届と誓約書を取り出し、それらを僕に見せつける。
言葉ではなく、法的な拘束力を有する書類によって僕を縛り付ける、というのが彼女の考えなのだろう。
一見すると、蜂須の考え方は極端なものであるように思える。
しかし、蜂須に告白しておきながら、僕が他の女子と仲睦まじく文化祭を回っていた事実が存在する以上、蜂須がこのような考えに至るのも止む無しだろう。
だからってカッターナイフまで持ち出すのはやり過ぎだけどな。
「綾音の言い分は分かった。だけど、現時点でその書類に署名するのはちょっとな。まずは恋人として付き合って、お互いに『この人となら結婚しても良い』と思えるようになったら署名するべきなんじゃないか?」
「あたしは、あんたと結婚しても良いと思っているからこれを持っているの。義弘は、あたしの事がそんなに好きじゃないの?」
「少なくとも、現時点では結婚までは考えていないな。」
キャンプの時に告白してから、僕の考えは特に変わっていない。
実際に恋人として付き合っていく中で、思いもよらない相手の一面を目の当たりにし、関係が拗れたり、別れてしまう可能性は充分にあり得る。
現に、蜂須の此度の凶行は、これまでの彼女の言動や性格からは予想だにしないものだったからな。
事あるごとに刃物を振り回す奴と真っ当な結婚生活が送れるか、と問われたら、正直厳しいと言わざるを得ないだろう。
「そう……。あんたは、結局どうしたいの? 成り行きで『3人の中から誰かを選ぶ』なんて話になったけど、あんたの結論は最初から決まってるでしょ?」
「どうだろうな。」
蜂須が凶行に走る前の段階で同じ質問を受けていたら、僕は迷わず「ああ」と答えただろう。
しかし、今となってはどう答えるべきか悩むな。
もちろん、蜂須の事を好きな気持ちは依然として僕の中に残っているんだが……。
「煮え切らない返事ね。言っておくけど、あたしはあんたを逃すつもりはないわよ? もしあんたが他の子を選んだりしたら……その時は、分かっているわよね?」
蜂須の顔から表情が消え、仄暗い光を宿した双眸が僕を捉える。
だ、だからそういうところが怖いんだよなぁ。
もちろん、今回の一件は僕にも多少の非はあるから、彼女を責めるつもりはないけど。
「あたしには、もう義弘しかいないの。家庭は滅茶苦茶だし、友達はあんた達以外いなくなっちゃったし。あたしは……ただ、幸せになりたいだけなのよ。」
「……。」
蜂須にどんな事情があるのか、僕にはよく分かっていない事も多い。
だが、彼女の声には、確かな感情が込められていた。
さっきの凶行には驚かされたけれど、蜂須は真面目で優しい性格の少女だ。
金髪ギャルの外見に似合わず、繊細で華奢な女の子なのだ。
そんな彼女にどう応えれば良いのか分からず、僕が口を噤んでいると、彼女はそっと僕の両肩に手を置いた。
そして、ゆっくりと僕の眼前まで顔を近付けてくる。
「ねぇ、義弘。あたしは、あんたの事、好きよ。」
「綾音……。」
少し切なさの滲んだ表情を浮かべた後、蜂須はそっと目を閉じた。
僕の肩を掴む彼女の手は、少しだけ震えている。
赤いリップが塗られた彼女の唇は、艶やかな光沢を放ちながら、今か今かと僕を待っているようであった。
「……っ。」
蜂須のこの行動は、要するに、「そういう事」なんだろう。
ここで僕が返す答え次第で、恐らく彼女と僕の未来は決まる。
一度選んでしまったら、きっと引き返す事は出来ないであろう、最初で最後の選択。
初志貫徹して、僕は蜂須を選ぶのか。
はたまた、他の2人のどちらかを選ぶのか。
つい先程の、蟻塚や蝶野会長とのやり取りがふと脳裏を過る。
僕に対して真っ直ぐに愛情を示し、悲し気な表情を見せた蟻塚。
自身の持てる武器を使って、愛の言葉と共に僕に迫ってきた蝶野会長。
今、目の前で震えながら僕を待っている、蜂須。
ああ、難しいな。
彼女達3人のいずれもが、それぞれ異なる魅力に溢れた少女達だった。
地味で平凡な僕が彼女達以上の女性と結ばれるチャンスなど、今この時を逃せば二度と巡っては来ないだろう。
蜂須と蟻塚と蝶野会長。
僕が最後に選ぶのは――。
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