第147話 病み狂った毒針
屋上へと続く階段を、僕はゆっくりと上っていく。
ここに来るまで暫く走りっ放しだったため、階段を上るだけでも正直しんどいのだが、弱音を吐いている暇はない。
蜂須と一刻も早く合流しなければ、僕と彼女の関係に決定的な亀裂が入ってしまう。
「もしかしたら、とっくに手遅れなのかもしれないけどな……。」
それでも、蜂須に会って話をするまでは、諦める訳にはいかないのだ。
疲れた体を無理やりに動かして階段を上り切った僕は、屋上の扉をそっと押し開ける。
扉を開けた瞬間、赤らんだ空の眩しさが一瞬だけ僕の視界を照らし、同時に少し冷えた空気が僕を包み込む。
昼間は暑かったけど、もう10月に入っているため、日が沈み始める時間辺りから気温がグッと下がってくるんだよな。
忙しく動き回ったせいで火照った体に、この冷たさはとても心地良く、思わずここで座り込んで休みたくなってしまう。
しかし、そんな衝動が本格的に襲ってくるよりも早く、僕の目に予想外の人影が飛び込んできた。
「あ……!」
フェンスに寄り掛かり、屋上の扉に背中を向けている、1人の女子生徒。
夕陽に照らされた金色の髪は眩く煌めいていて、丈をやや短めに詰めたスカートと一緒にヒラヒラと風に揺れている。
夕焼け空と少女のコントラストはあまりにも美しく、僕は思わずその場から動けないでいた。
だが、僕が屋上の扉を開いた音が聞こえていたのだろう、フェンスに寄り掛かっていたその少女が、ゆっくりとこちらへ振り返る。
「……何?」
刺々しさを含んだ、ともすれば喧騒に掻き消されてしまいそうなくらいに小さな声。
こちらを真っ直ぐに見据える彼女の目は、夕陽のせいなのか、まるで泣き腫らした後であるかのように少し赤くなっていた。
彼女の威圧感に圧されながらも、僕は一歩だけ足を前に出して、何とか自分の声を引っ張り出す。
「あ、綾音。ここにいたんだな?」
「見れば分かるでしょ。で、あたしに何の用なワケ?」
僕を強く睨み付ける、蜂須の表情。
彼女との距離が開いてしまった事は、その顔を見れば一目瞭然だ。
だから、僕は――もう一度、蜂須との距離を詰めるために、一歩ずつ、前へ歩く。
僕が蜂須に近付くにつれ、彼女の表情は次第に強張り、背中をフェンスにぶつけてガタンと音を鳴らす。
蜂須は僕から逃げようとしたのかもしれないが、この屋上の出入り口はたった1つだけ。
彼女に逃げ場はないのだ。
僕が蜂須の両肩を掴むと、彼女は僅かに肩をピクンと震わせた。
しかしながら、逃げたり抵抗しようとする気配はない。
話を切り出すなら、今だ!
「綾音! すまなかった! 僕が迂闊だった!」
蜂須と本気で関係を進展させるつもりであるのなら、蟻塚や蝶野会長と文化祭を回るべきじゃなかった。
その上、蜂須が当番の仕事に就いている時にお化け屋敷に足を運ぶだなんて、半ば嫌がらせのような行いだ。
蟻塚はあの時間に蜂須が当番に入っていた事を知らなかったからこそ、僕に「お化け屋敷に行きたい」と提案してきたんだろうし、僕がもっと気を付けて断るべきだったよな。
「信じてもらえないかもしれないけど、僕の気持ちはこの前のキャンプの時から変わっていない。僕は、綾音が好きだ! 付き合ってくれ!」
勢いのままに、僕は一気に突っ走る。
迂遠な言葉遊びを悠長に続けてどうにかなる程、今の状況は甘くない。
しかし、僕の告白を受けても、蜂須の表情は依然として険しいままだ。
彼女が僕に対して抱いた不信感は、そう簡単には消えてくれないか。
それでも、粘り強く自分の想いを伝え続ける事だけが、この状況を好転させる唯一の解決策だと僕は信じていた。
だが――。
「ふぅん。だったら、この写真はどういう事なのか、説明してもらえる?」
「写真?」
蜂須の台詞の意味を理解できず、僕は首を傾げる。
写真なんて、彼女に送った覚えはないんだが。
蜂須は一体何が言いたいんだ?
「ほら、この写真よ!」
「え……?」
蜂須のスマホの画面に表示された、1枚の写真。
そこには、目を閉じている僕の顔と、その顔に重なって写っている、黒髪の少女の顔が――って、はぁぁぁぁっ!?
「蟻塚さんからこんな写真があたし宛てに送られてきたんだけど、これ、どう見てもキスしてるようにしか見えないわよねぇ?」
「ど、どういう事だ……!?」
蟻塚と僕が、目を閉じて互いの唇を重ねている。
蜂須のスマホに表示された写真には、まさにその決定的な瞬間が収められていたのだ。
しかし、僕は蟻塚とキスなどした覚えがない。
こんな写真が存在する事自体が、明らかに異常なのだ。
まさか、この写真は合成だろうか。
だが、合成するにしても、素材となる画像がなければどうにもならないはずだが……。
「ん? 写真の背景に写っているのって、教室の床か?」
僕の頭の後ろに、教室の床があるように見えるな……。
って事は、ああ、そうか、そういう事か!
僕がさっき空き教室で昼寝している間に、蟻塚がこっそり僕の所まで来ていたのだとしたら。
眠っている僕にそっとキスをして、その決定的な瞬間をスマホのカメラで撮影すれば、まさにこんな写真が撮れるのでは?
「綾音、この写真は誤解だ!」
くそっ、蟻塚の奴!
最近やけに大人しいな、とか、殊勝な態度が目立つな、とか思っていた矢先にこれだよ!
今回はさすがに冗談じゃ済まないぞ!
合成写真ではないのだとしても、これが僕の意に添わぬキスである事は事実だ。
蜂須の理解を得られなければ、僕の希望は木っ端微塵に砕け散るだろう。
そんな最悪の事態だけは、断じて阻止せねばならない。
「誤解、ね。でも、少なくとも蟻塚さんと一緒に文化祭を回っていた事は、紛れもない事実でしょ?」
「それはそうだけど、でも他意はないんだ。」
あれだけの事をしておいて、安易に「分かってくれ」とはさすがに言えない。
僕に思いつく限りの精一杯の言葉で、とにかく誠意を伝えようと試みるが、蜂須の表情は未だに固いままだ。
それどころか、彼女の目からは、キラリと輝く一粒の――え?
「あたしは、今日、あんたに気持ちを伝えるつもりだったの……。あたしも、義弘の事が好きだって、言いたかったの。」
蜂須は瞳を潤ませ、震える声で告白してくれた。
しかし、嬉しいはずの言葉は、僕の胸の奥深くへと突き刺さり、息苦しくなる程の激痛をもたらす。
かねてより予想していた通り、蜂須も僕の事を憎からず思ってくれていた。
だが、僕はそんな彼女の気持ちを台無しにしてしまったのだ。
だったら、蜂須にどんな審判を下されたとしても、それを受け入れるのがせめてもの誠意の見せ方ではなかろうか。
この期に及んで、自分にとって都合の良い展開を望むのは、あまりにも自分勝手だ。
僕は頭を深々と下げ、蜂須の審判を待つ。
彼女から何を言われたとしても、それがどれ程辛い言葉であったとしても、僕は受け止めなくてはならない。
そんな覚悟を抱いていた僕に、果たして蜂須は如何なる審判を下すのか。
――その答えは、あまりにも予想外な物であった。
「義弘のこれまでの告白が嘘じゃないのなら、想いを今ここで示してもらえる? はい、これ。」
「僕に出来る事なら、もちろん何でもする……ん?」
頭を上げた僕の目に飛び込んできたのは、蜂須が何処からともなく取り出した、2枚の紙。
その2枚の紙には、それぞれ「誓約書」「婚姻届」の文字が……おい、ちょっと待て!
どっ、どどどういう事だよ!?
「綾音、これは一体何なんだ?」
「見れば分かるでしょ。あたし達の未来を約束するための書類よ。両想いであるのなら、何も問題はないでしょ? さっき、何でもするって言ったわよね?」
「確かに言ったけど、これは……」
「何? あんたの気持ちとやらは、やっぱり嘘だったの?」
蜂須の瞳は潤んでいるのに、瞳孔は開いていて虚ろな輝きを放っている。
今の彼女がまともな精神状態でない事は明白だ。
「お、落ち着いてくれ、綾音。」
「あたしは落ち着いているわよ。ねぇ、義弘。あんたのさっきの言葉は嘘だったの? 教えてよ。ねぇ、教えなさいよ。」
「だから、落ち着け……」
「あたしは落ち着いてる、って言ってるでしょう! いい加減にしなさいよ! さっさとあたしの質問に答えなさいよっ!」
「っ……!」
蜂須がいきなり声を張り上げ、鼓膜が破れんばかりの大音声が僕の脳天を突き抜ける。
その声に僕が怯んだ隙に、蜂須は更にとんでもない代物を懐から取り出した。
彼女は「それ」をカチカチと鳴らしながら、僕に迫ってくる。
「あんた、印鑑なんて今持ってないでしょ? だから、代わりにこれで指を切って、書類に拇印を押してもらいたいの。あたしの事が好きだとか、何でもするとか言ったんだから、当然、出来るわよね?」
「ちょ、さすがにそれは洒落にならないぞ!?」
蜂須の手に握られた、「それ」がカチカチと音を鳴らす度に、その先端から銀色の刃が少しずつ顔を覗かせてくる。
この特徴でもうお分かりだろうが、彼女が今構えている「それ」の正体は、学生なら誰もが持っているようなありふれた代物――そう、カッターナイフだ。
蜂須は、刃を出したカッターナイフを僕に突き付け、語気を更に強める。
「あたしはね、もう自分の大切な人を失いたくないの。後悔するくらいなら、自分の思うがままに、やれるだけの事をやり切りたい。それが例え痛みを伴うものであったとしても、ね。」
「僕にも、痛みを受けろ、と?」
「ほら、結婚式とかでよく言うじゃない? 幸せも悲しみも2人で全部乗り越えていこう、みたいな言葉。あれと同じよ。あたしとあんたは両想いなんだから、2人で痛みを分け合うのは当然でしょ?」
「一応聞いておくけど、冗談で言ってる訳じゃないよな?」
「は? そんなの、本気に決まってるでしょ。この期に及んで、分かり切った事をいちいち尋ねないでもらえるかしら?」
「……っ!」
ヤバい。
まさか、蜂須がここまでヤバい一面を秘めていたなんて、予想外だった。
蜂須が掲げている書類をよく見ると、既に彼女の署名と、血で押したと思われる拇印がある。
更に、蜂須が書類を携えている手の人差し指には、絆創膏が貼られていた。
蜂須は、自らの指をカッターナイフの刃で切り付けて、拇印を押したのだろう。
「なぁ、さすがにそれはやり過ぎじゃないか? もっと他に方法があるだろ?」
「ないわよ、そんな物。そもそも、元はと言えば、あんたが蟻塚さんと浮気していたのが悪いんでしょう? だから、もう二度とそういう真似が出来ないように契約を交わそう、って言ってるのよ。あんたが自分でやる勇気がない、って言うなら、あたしがあんたの指を代わりに切って、拇印を押させてあげるわ。」
「な、ちょっ……!」
駄目だ、最早どうにもならない。
僕が必死に説得しても、彼女は僕の説得に応じるどころか、本気の表情で僕に迫ってきている。
刃物を携え、今まさにそれを僕に向かって振るおうとしている蜂須に、まともな言葉が通じるとは思えない。
「悪いけど、それだけは出来ない。ごめんっ!」
僕は慌てて踵を返し、校内へと続く扉に向けて走り出した。
扉を潜り抜け、僕がすぐ目の前の階段を降り始めた矢先、後ろから「ダダダダダッ!」と激しい足音が近付いてくる。
「待ちなさい、義弘! 許さないわよ!」
「ひっ!」
どうやら、蜂須は僕を逃がしてくれるつもりはないらしい。
もし今の彼女に捕まったらどんな目に遭わされるかは、容易に想像がつく。
いや、もしかしたら、「逃げた罰」と称して更にとんでもない事をやりかねない。
そんな想像が出来てしまうくらいに、今の蜂須は狂気に溢れている。
「くそっ……!」
後日、冷静な状態で話し合いをする以外に解決策はない。
今はとにかく逃げるのが先決だ。
蜂須をここまで追い詰めてしまった自分のこれまでの行いを反省しつつも、僕は息を切らしながら階段を駆け下りた。
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