第145話 少女の覚悟
お化け屋敷を出た後も、僕と蟻塚は色々な場所を回った。
幸い特に何か問題が起こるような事もなく、僕達が文化祭を満喫しているうちに、時間はあっという間に過ぎていく。
そして、遂に正午を迎えた頃。
僕と蟻塚は、中庭のベンチで焼きそばを食べながら、眩しい太陽の日差しを浴びていた。
「もう秋に入るってのに、昼はやっぱり暑いな……。」
午前中からあちこちを歩きっ放しだった上に、熱々の焼きそばを食べているせいで、額から汗が噴き出してくる。
何度も額を拭うも、汗はなかなか止まってくれない。
ああ、全く、鬱陶しいなぁ。
「先輩、少し動かないでくださいね。汗を拭いて差し上げますから。」
「え、ちょっ……っと?」
蟻塚が水色のハンカチを取り出し、僕の額に押し付けるようにして汗を拭っていく。
綺麗なハンカチに汗が染み込み、見る間に汚れていくが、蟻塚はそれを気にしていないみたいだ。
何度もハンカチで汗を拭っているうちに、やがて汗が止まり、蟻塚はニッコリと笑みを浮かべた。
「もう大丈夫そうですね。あ、私、今からそこの売店で冷たい飲み物を買ってきます。」
「あ、ああ。」
いつもの蟻塚らしくない、殊勝な行動だな……。
いや、最近のこいつは、割と後輩然とした言動もそれなりに目立っていたか。
こうして気を遣ってくれるのは嬉しいんだが、何だか調子が狂う。
蟻塚の外見は僕のタイプそのものだから、その上で中身まで真っ当になってしまうと、正直ドキッとするんだよな。
蜂須との仲が進展する見込みがなかったら、僕が蟻塚と付き合う事になる未来もあり得たかもしれない。
今更過ぎる妄想だけどな。
「先輩、冷たい麦茶を買ってきたので、どうぞ。」
「ありがとう。立て替えてくれた代金は払うよ。」
「いえ、気にしないでください。私からの差し入れですから。」
「気持ちは有り難いけど、そういう訳にはいかないだろ。ハンカチだって汗で汚しちゃったんだし。」
「ふふ、本当に大丈夫ですよ。これでも、私は先輩よりお金に余裕がありますから。さあ、遠慮せずに飲んでください。」
「わ、分かった。じゃあ、頂くよ。」
蟻塚らしい煽りを受けながらも、僕は甘んじてそれを受け入れ、彼女が購入してきたペットボトルの麦茶を喉奥に流し込んだ。
熱で火照った体の芯が急速に冷やされ、中庭を吹き抜ける微風が心地良い。
「ふぅ……。」
「どうですか? 少しは涼しくなりましたか?」
「ああ、お陰様でな。」
「それなら良かったです。あ、それと先輩。今日の文化祭が終わった後で良いので、時間を少し作ってもらえませんか?」
「文化祭の後で?」
今日の夕方は、蜂須と会う予定が入っている。
彼女に告白して、無事に成功すればその流れで一緒に帰るつもりだったのだ。
ここで蟻塚と会う約束を交わす場合、蜂須と一緒に帰る事は諦めなければならない。
そもそも、蜂須に告白する予定があるのに、その後で別の女子と会う約束を入れるのは完全に駄目だろ。
「悪いけど、今日は他に予定があるんだ。」
「なるほど。やっぱり先輩は、今日……」
「何だ?」
「いえ、何でもありませんよ。私も覚悟が決まった、というだけの話です。」
「覚悟って、どういう意味だ?」
「それは乙女の秘密です♪」
僕の質問をはぐらかすように、蟻塚は華奢な白い人差し指を僕の口元にそっと押し当て、微笑みを向けてきた。
風にさらさらと揺れる彼女の黒髪からは、爽やかな花の香りが漂っていて、至近距離にいる僕の鼻腔をそっと擽ってくる。
蟻塚の笑顔と香りに思わずドキッとしてしまった僕は、せっかく拭った汗が再びじわじわと額から滲む感触を覚えていた。
元が凄まじく美人なだけに、一挙手一投足が全て絵になるんだよな、こいつ。
先ほどの献身的な言動も相俟って、かなりグッときてしまった事は否定できない。
だが、それでも僕の本命は蜂須だ、蜂須だぞ。
清楚な色香に惑わされてちゃ駄目だ!
「先輩、1つ質問しても良いですか?」
「今度は何だよ……。」
「そんなに警戒しないでください。大した質問ではありません。先輩が、蜂須先輩と上手くいかなかったらどうするつもりなのか気になっていましたので、それを確認したかったんです。」
「不吉な質問だな……。」
現状の手応えからして、蜂須への二度目の告白が失敗するとは思えない。
とはいえ、前回の「結婚を前提に」のような、こちらの予想外の条件などを提示される可能性は残されている。
蜂須が理不尽な条件を出してくるとは考えたくないが、万が一、今回も上手くいかなかったら――。
「まあ、もし駄目そうだったら、さすがに諦めるしかないだろうな。あまりしつこくしても好感度を余計に下げるだけだし、逆転できるビジョンが見えない。」
「そうですか。答えてくださってありがとうございます。とても参考になりました。」
「参考って……。まあ、いいけどな。」
僕の勘違いでなければ、恐らく蟻塚はまだ僕を諦めていない。
だから、僕が蜂須と付き合う事を断念した際に、勝負を仕掛けてくるつもりなのかもな。
正直、さっきのこいつに心が多少なりとも揺れてしまったのは事実だし、もし蟻塚が次に本気の告白を仕掛けてきたら、きっと僕は断れないだろう。
もちろん、蜂須にフラれた場合の保険、みたいな扱いはしたくないが……。
「先輩、少し手を握ってもいいですか?」
「え? 急にどうしたんだよ、一体。」
「特に理由はないのですが、強いて言えば、何となく、ですね。駄目ですか?」
「うーん……まあ、そのくらいなら、な。」
「ふふ、ありがとうございます。失礼しますね。」
僕の隣に座る蟻塚が、そっと僕の手に指を絡めてくる。
それだけでなく、彼女は僕の肩に体重を預けるように、頭を乗せてきた。
先ほどにも増して、彼女の黒髪から発せられている爽やかな香りが僕を緊張させ、せっかく収まっていた汗がまたしても噴き出してくる。
「あのー、蟻塚さん?」
「あと少しだけでいいですから、暫くこのままでいさせてください。先輩が蜂須先輩と上手くいったら、もうこんな事は出来なくなると思いますから。」
「……。」
蟻塚がさっき口走っていた「覚悟を決めた」って台詞は、もしかしてそういう意味のものだったのか?
だとしたら、こいつは――いや、今はこれ以上考えるのは止めておこう。
僕はもうすぐ、蜂須と合流する。
彼女への告白の先に、果たしてどんな展開が待ち受けているかは分からないが、僕も覚悟を決めよう。
それが、今僕に出来る唯一の事だと思いながら、隣で瞼を閉じている蟻塚の頭をそっと撫でてやった。
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