第143話 運命の日の朝
「あー、ちょっと寒いな……。」
文化祭2日目の朝は、朝から少々冷え込んでいて、この季節の割にはやや肌寒かった。
10月に入り、季節が秋に差し掛かっている事も相俟って、朝夕の気温は目に見えて下がってきている。
とはいえ、昼間になるとグングン暑くなってくるので、あまり厚着をするときっと汗だくになるだろうな。
自転車を漕ぎながら、ぼんやりとそんな事を考える僕の目と鼻の先には、飾り付けられた校門が既に見えてきている。
今日は文化祭の最終日であり、そして――蜂須との関係が、友人よりも更に一歩進むかもしれない日だ。
昨夜は緊張と興奮で昂ってしまったため、少々寝不足気味だったから、午前中は静かに休みたいところだな。
空き教室で適当に寝転がる事が出来れば最高なんだが、生憎、今日の午前中は蟻塚と文化祭を回る約束が入っている。
もし休みたいのなら、蟻塚に相談する必要があるけど、あいつが僕の要望を受け入れてくれるかと言われるとなぁ……。
毒舌を交えながらバッサリ切り捨てられる未来しか見えないし、午前中は堪えるしかないかもな。
「さて、あとはチャイムが鳴るまで待つだけか。」
始業のチャイムが鳴るまでの間、何処かで時間を潰す必要がある訳だが、自分の教室はお化け屋敷に改装されているため待機できるだけのスペースはない。
駐輪場に自転車を停めた後、考え事をしながら校舎に入り、靴を履き替えたところで――見慣れた黒髪の女子生徒が、こちらに近付いてきた。
「おはようございます、先輩。」
「ああ、おはよう、蟻塚さん。」
サラサラと流れる黒髪を風に揺らして、蟻塚は微笑みを讃えている。
今日は、普段にも増して機嫌が良さそうだな。
「先輩、もし良ければ今から一緒に中庭にでも行きませんか? 文化祭が始まるまで暇ですよね?」
「まあ、確かに暇だけど、蟻塚さんはどうなんだ? 教室には行かなくて良いのか?」
「はい、問題ありません。私も教室には用事がないので。」
「そうか。なら、適当に時間を潰すか。」
「決まりですね。では、早速行きましょう!」
そう言って、蟻塚は何故か更に僕に接近し、そっと僕の腕を――って!
いきなり腕を掴んだかと思えば、思い切り体を密着させてきやがった!
てか、腕に当たってるから!
そこそこボリューミーで柔らかな膨らみが、僕の腕に当たってちょっと潰れてるから!
「あのー、蟻塚さん?」
「私、昨日見ていましたよ? 蜂須先輩とこうして密着して歩いていましたよね?」
「見られてたのか……。」
「もちろんですよ。ずっと密着して歩いていたんですから、先輩のクラスの方々にもほぼ知れ渡っているんじゃないですか?」
「さあ、どうなんだろうな。」
そういえば、お化け屋敷の当番を抜けた後、蜂須以外のクラスメイトとは一切話していないんだよなぁ。
クラスメイトに会った時の反応、特に後藤辺りが何と言ってくるかは少々気になるが、蜂須とカップルになるにあたっての必要経費だと割り切る他ないだろう。
だが、僕と蜂須が公然のカップルになるという事は、同時に今の状況は――。
「蟻塚さん、少し離れてくれないか? 歩き辛いんだが。」
「蜂須先輩とは密着して歩いていたのに、私の時だけ歩き辛いなんて妙な話ですね?」
「身長差とか、諸々違う部分があるんだから、密着した時の感覚が綾音と違うのは当たり前の事だろ。」
「むしろ身長が近い方が、歩くペースなどを合わせやすいと思いますよ? それとも……もしかして、蜂須先輩にはない『これ』の感触に緊張しているんですか?」
ニヤッと口角を吊り上げて、蟻塚が僕の腕に更に体重を乗せてくる。
その拍子に、さっきよりも更に強く胸が押し付けられ、柔らかな感触が煩悩を煽ってきた。
蝶野会長には及ばないとはいえ、蟻塚もそこそこあるので、恋愛的な意味で好きかどうかは別にしてドキドキしてくるのは仕方ない。
うん、仕方ないんだ。
それに、こいつ、見た目は一番僕のタイプに近いしな。
ただ、それはそれとして。
僕と蜂須が公然のカップル扱いになっている状況で、僕が別の女子と密着して歩いていたら、その光景は周囲の人間からどう見えるだろうか。
その答えは、考えるまでもない。
蟻塚に密着されたままの姿を多くの生徒に目撃されれば、僕が「二股を掛けている最低男」だと誤解を受けるのは時間の問題だ。
そんな最悪の展開だけは、何としても避けねばならない。
「蟻塚さん、あまりくっ付かれるのは本当に不味いんだって! 頼むから、これ以上は勘弁してくれ!」
「はぁ、仕方ありませんね。大方、先輩は二股疑惑が流れるのを気にしているんでしょうけど、確かに先輩の悪い噂が広まるのは私にとっても少々不都合ですね。今後、学校での立ち回りが多少面倒になってしまいますし、今日はこのくらいで勘弁して差し上げましょう。」
「た、助かった……。」
蟻塚が、意外とすんなり僕から離れてくれた。
これで一安心……と言いたいところだが、そうは問屋が、いや蟻塚が卸さない。
蟻塚は僕から離れた代わりとばかりに、追い打ちの一言を放ってきたのだ。
「先輩、分かっているとは思いますけど、今日の午前中は私と一緒に文化祭を回るんですよ? 例え密着していなくとも、女子と2人きりで回っている時点である程度悪評が出回るのは覚悟してくださいね?」
「う……。」
そうなんだよなぁ、結局そこがどうしてもネックになるんだ。
とはいえ、蟻塚と一緒に回る約束を今から反故にする訳にもいかない。
まあ、蟻塚と僕が「付き合っていない」という事は後藤達にも再三主張しているし、蟻塚と普通に歩き回るだけなら、それが妙な噂に発展する心配はいらないだろう、多分。
「最悪の場合は女友達だ、って事でやり過ごすから大丈夫だ。」
「むぅ、女友達止まりですか……。これは、予定に少し手を加える必要がありそうですね。」
「予定? 今日何処を回るか、考えてきてくれていたのか?」
「はい。先輩は恐らくそこまで考えてくれていない、と予想していましたので。」
「わ、悪い……。」
蟻塚から図星を突かれ、僕は頭を下げる事しか出来なかった。
昨日も今日も、蜂須と一緒に回る時のプランを考えるのに夢中で、蟻塚と回る際のプランについては殆ど考えていなかったんだよなぁ。
約束を交わした以上、蟻塚と回る時のプランも多少は真剣に考えておくべきだった。
さすがにこれは申し訳ない気持ちになってくるな……。
「お詫びと言ってはなんだけど、何か食べ物や飲み物でも奢るよ。」
「先輩にしては珍しい提案ですね。有難いですけれど、先輩はそこまで財布に余裕がないんじゃないですか? 昨日も色々と回ってお金を使ったでしょうし。」
「まあ、あまり余裕がないのは事実だ。でも、少しくらいは僕も身を切らないとな。」
午後の蜂須とのデートに備えて、少しは蓄えを温存しておきたいところだが、ちょっとした物を奢る程度なら何とかなる。
そもそも、文化祭でやたらと単価の高い物品が販売されるような事はないからな。
材料費は掛かるけど、人件費が不要であるため、一般的なお店に比べれば値段は低めに抑えられている。
1つや2つ奢る程度なら、財布への影響も微々たるもので済むだろう。
「ふふ、では先輩のお言葉に甘えさせてもらいますね。」
「ああ、任せてくれ。」
まずは、今日の午前中、蟻塚と過ごす時間を目一杯楽しむ。
午後の事ばかりに囚われていては、彼女に申し訳ないからな。
――さあ、文化祭2日目の始まりだ!
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