第138話 蝶に誘われて

 文化祭1日目の午前中、クラスの出し物であるお化け屋敷の当番に割り当てられていた僕は、自分の職務を全うしていた。

 しかし、蝶野会長によって連れ出され、新たに「文化祭の見回り」という役割を与えられた上で、彼女と行動を共にする事になった……はずだったんだけどなぁ。


「ん~! 蜜井くんっ、これ美味しいよ! ほら、食べてみて!」

「は、はぁ。」


 生徒会の腕章を着けた蝶野会長が、ニコニコと微笑みながらタコ焼きの串をこちらに向けてくる。

 このタコ焼きは、グラウンドの一角に並んでいる露店の1つで購入したばかりの物だ。

 僕と会長は、その露店のすぐ傍にある飲食スペース用のベンチに座りながら、今のやり取りを交わしていた。


 ……うん、皆まで言わなくても分かってる。

 これ、ただの文化祭デートだよな?

 僕達は、学内の見回りのために一緒に行動していたはずだろ?

 この状況、どう考えてもおかしいよなぁ?


「あのー、会長。見回りの方は良いんですか?」

「ちゃんと見回りしてるよ? 例えば、こうして実際に食べ物を購入して食べる事で、衛生面とかを確認できるよね?」

「その言い訳、凄く無理があるような気がするんですけど……。」

「ふふ、今だ! えいっ!」

「ふぉむっ!? 熱っ!」


 僕の開いた口に、蝶野会長が持っていたタコ焼きの串が突っ込まれる。

 最初に強烈な熱さが口の中に広がったが、それも一瞬だけだった。

 熱さが退いていくにつれて、徐々にタコ焼きの本来の味が口内を占めていく。

 ソースと青のり、ふかふかの生地とタコがバランス良く織り交ぜられたこの味は、なかなか美味い……じゃなくて!

 あったかいタコ焼きをしっかり噛んで飲み込むと、僕はすぐに会長に抗議した。


「そういう誤魔化しは無しです。あと、今僕の口に突っ込んだ串の一番上のタコ焼きは、さっき会長が食べてましたよね?」

「うん、私が食べたよ。で、今蜜井くんが食べたこれの残りを、ふぉおばれぇば、かんしぇつきしゅ、だよ。」


 タコ焼きを頬張りながら喋っているため、蝶野会長が何と言っているのかはいまいち不明瞭だが、会話の流れからして、間接キスが成立したとでも言いたいんだろう。

 いや、僕も別に不満がある訳じゃないんだけどな?

 会長みたいに可愛い女の子からこんなにアピールされたら、正直グッとくるのは男として当然だろう。

 ただ、本命の蜂須からデートのお誘いを受けた今、こうしてアプローチを受けても正直困るというのも本音だ。


「とにかく、さっさと次の見回りに行きましょう。生徒会長が呑気にサボっているところをこれ以上他の生徒に晒したら、問題になりかねないですよ?」


 蝶野会長は、生徒会の仕事があるという理由で自分のクラスの出し物の仕事を免除されているはずだ。

 よって、生徒会の他のメンバーはもちろん、会長のクラスの生徒にも今の光景を見られる訳にはいかない。

 まあ、人の多いグラウンドに出てきてしまった時点で、既に手遅れだろうけどな……。


「蜜井くんが心配するのも分かるけど、大丈夫だよ。私、この文化祭が終わったら生徒会を引退するからね。それに、私は大学も受験しないから、内申点に響く事も考慮する必要はないしね。」

「なかなかひどい発言ですね……。」


 後の心配が必要ないからって、さすがに無責任すぎるんじゃないか?

 蝶野会長の考えは、確実に他の生徒達から反感を買うだろう。

 成績などへの悪影響はないとしても、怒った生徒達から悪意を向けられ、傷付けられるリスクは存在するはず。

 その可能性を踏まえれば、人前でこんな言動は避けるべきだろう。

 僕ですら容易に想像がつく最悪の展開が、会長には想像できなかったのか?

 文化祭に参加した事でテンションが上がり、冷静さを失っているだけなのかもしれないが……。

 そうであるなら、猶更このままサボりを黙認する訳にはいかないな。


「とにかく、これ以上サボるのは無しです。見回りを再開しましょう。すぐに移動を開始すれば、他の人に今の場面を見られていても、『休憩中だった』と言い訳できます。」

「でも、まだタコ焼きは残ってるよ? 早く食べないと冷めて不味くなっちゃうし、まずは人目につかない場所に移動して、残りを食べてから見回りに戻ろうよ。」


 蝶野会長が持っているタコ焼きのパックには、まだ串が数本残っている。

 これらを冷めた状態で全部食べるのは、確かにちょっと辛いかもしれないな。

 仕方ない、とりあえず今は会長の言う通りにしよう。

 これ以上、僕達が休憩している場面を人に見られないようにする事が、今は一番大切だ。


 僕は会長の意見に従い、彼女と共に人気のない場所を求めて移動を開始した。

 文化祭の真っ最中であるため、学校の至る所に人がたくさんいるが、それでも無人の場所がない訳ではない。

 文化祭の運営に携わり、責任者の立場にある会長は、当然のようにそういった場所を把握していた。


「この空き教室は、何処の出し物でも使用されていないの。校舎の3階、しかも端っこの教室だから、集客があまり見込めなくて不人気だったんだよ。」

「なるほど。確かに、この教室前の廊下も殆ど人がいませんでしたね。」


 わざわざ言うまでもないだろうが、より出入口に近い場所に店を出す方が人を集めやすいのは自明だ。

 文化祭実行委員会の会議にて各クラス・部活の出店場所を取り決める際も、やはりと言うべきか下の階の教室から順番に埋まっていった。

 この結果、1階と2階の教室は全て出店場所として使用される事になったが、3階の教室には所々に空きが出来たのだ。

 その空き教室の1つに、僕と蝶野会長は足を踏み入れた。


「ふふ……♪ 狙い通り、2人きりになれたっ♡」

「え?」


 教室に入った直後、蝶野会長が何かを呟いた。

 しかし、声が小さかった上、会長がガラガラと音を立てて教室の扉を閉めたため、何を言っていたのかはよく聞き取れなかった。


「ほら、そこの席に座って。さっきの続きをしよ?」

「は、はぁ。」


 ニッコリと細められた蝶野会長の目に、一瞬だけギラギラとした光が走ったような。

 僕の見間違いだろうか?

 とりあえず、手近な椅子を引いてそこに座ると、机を挟んで僕の向かい側にある椅子に会長が腰を下ろしたのだが――。


「あ、あの、会長。もう少し体を後ろに引いてもらえますか?」

「どうして?」

「いや、その……」


 机の向かい側に座る会長が、やや前のめりな姿勢になっているせいで、机の端に胸元の豊かな膨らみが乗っかっているというかですね……。

 胸が大きくて顔が可愛い女の子にそれをやられると、不可抗力で視線が持っていかれるので止めて欲しいんだが。

 とはいえ、こんな事を直接口に出すのは憚られるよなぁ。

 僕がどうしたものかと悩んでいる間に、会長はタコ焼きのパックから串を取り出し、それをこちらに向けて差し出してきた。


「はい、口開けて?」

「えっと、これってもしかして……」

「隙ありっ!」

「んぐっ!?」


 だから、僕が口を開けたタイミングでここぞとばかりに串を突っ込むのを止めてくれ!

 口の中に入ってしまったタコ焼きについてはどうにもならないので、一旦それを咀嚼してから、僕は改めて会長に抗議する事にした。


「会長。あーんされても、正直困ります。僕は一度会長をフっているんですよ?」


 あまり踏み込んだ発言は、相手の傷を抉るだけだと分かっている。

 それでも、今回ばかりはキッパリ言わなければ伝わらない、と僕は判断した。

 しかし、僕が古傷を抉ったにも拘わらず、蝶野会長の態度は崩れない。

 以前フった時のように、表面上だけ取り繕っている、という感じでもなさそうだな。

 僕が首を傾げていると、会長は自分のシャツの胸元を指で摘まんで、挑発的な笑みを浮かべた。


「私、知ってるよ。今日と明日の午後、蜂須さんと一緒に回る予定があるんでしょ?」

「何で知ってるんですか……。」


 蟻塚といいこの人といい、僕が伝えた覚えのない予定をどうして当たり前のように把握しているんだよ、おかしいだろ。

 こいつらは独自の情報網でも持っているのか?


「今はそんな事はどうでもいいよね? それより、私が蜜井くんに伝えたかった事は……こ・れ♪」


 蝶野会長が摘まんでいたシャツのボタンが、上から1つ外され、2つ外され。

 女子高生離れした深い谷間の一部が露になり、僕の視線を吸い寄せる。


「ちょ、何考えてるんですか!?」

「蜜井くんは、きっとこの文化祭で蜂須さんに勝負を仕掛ける事を考えていると思うの。だけど、それで本当に良いのかな、って思ってね。私を選んでくれたら、『これ』を好きに出来るんだよ?」

「……っ」


 この大きくて柔らかそうなメロンを……って、誘惑されちゃ駄目だ!

 大体、今の挑発は全くもって蝶野会長らしくないものだった。

 以前から色仕掛けを狙っているような仕草はたまにあったが、ここまでダイレクトにアピールするような言葉まで添えてきたのはこれが初めてだ。

 僕が訝しんでいると、会長の顔はみるみる赤みを帯び、呼吸までもが荒くなり始めた。


「ふー、はぁ、えへへ……♡ 私ね、キャンプの時に『経験』してから、ますます抑えが効かなくなってきちゃってるんだ。でも、今は我慢しておくね。無理に強行したところで、し。」

「は、はぁ。」


 蝶野会長が何を言っているのかは分からないが、とにかくヤバそうなのは伝わってくる。

 上気した顔と、虚ろな光を宿した双眸、恍惚とした表情。

 これ以上彼女と同じ空間にいれば、底なしの沼に引き摺り込まれてしまいそうな、そんな予感が僕にはあった。

 僕は己の直感に従い、椅子からすぐに立ち上がる。


「すみません、急用を思い出したので、これで失礼します。」

「ふふ。蜂須さんが駄目だったら、いつでも声を掛けていいからねー?」


 僕は蝶野会長の言葉に応えず、軽く会釈してから速やかに教室を離れた。

 廊下に出て、暫く小走りで移動してから後ろを振り返っても、会長が追ってくる気配はない。

 とりあえずは一安心といったところだが、さっきの会長は、一体何だったんだ?

 少し考えてみたけど、やっぱりよく分からないな。


 だったら、これ以上会長について考えるのはもう止めにすべきだろう。

 僕には、この後で蜂須とデートの予定が入っているんだ。

 頭を切り替えて、彼女とのデートに臨むとしよう。

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