第9章 真夏の深淵
第96話 闇の片鱗
蝶野会長と別れた後も、僕の胸の内に立ち込めたモヤモヤはなかなか消えてくれなかった。
いや、そう簡単に消えるような物であってはならないんだろう。
何せ、人から向けられた真剣な想いを無碍にしてしまったのだから。
少なくとも、こんな状況でヘラヘラと平気で笑えるような奴になりたい、と僕は思わない。
無理をして笑顔を作ったりはせず、今はただ、ありのままの僕でいるのが一番だろう。
当分の間、このモヤモヤを抱えながら過ごす事になったとしても、だ。
とはいえ、それはそれとして。
「はぁ、気が重いな。」
未だに心臓がバクバクしているし、本音を言えば今すぐ自宅に帰ってベッドで休みたい。
だけど、生憎ながらこの後更に別の予定が入っているのだ。
気は進まないが、行くしかない。
溜息をつきながら、僕はショッピングモール内の喫茶店を目指す。
店の前では、既に私服姿の蜂須が腕を組んで待っていた。
彼女は僕の存在に気付くと、険しい顔でこちらに近付いて来る。
「ちょっと! 遅れるなら遅れるって連絡しなさいよ!」
「う、ごめん……。そ、そんなに遅れたっけ?」
「もう20分以上も遅れてるわよ! あたしがさっきから何度もメッセージ飛ばしたり電話かけたりしてるのに、全然既読もつかないし!」
蜂須に指摘されて、僕が慌ててスマホを取り出してみると、彼女の言う通り待ち合わせ時刻はとうに過ぎてしまっていた。
それに、メッセージや電話の着信が何件も入っている。
蜂須が怒り心頭といった表情で詰め寄ってくるのも、致し方ない話だろう。
「重ね重ね悪かった。今度からはちゃんと気を付けるようにするよ。」
「全く……。で、今日はあたしに相談があるって事だったけど、とりあえず場所を移動しましょ。」
「目の前の喫茶店には入らないのか?」
「あのねぇ、さっきまであたしがバイトしてた店にもう一回入れって言うの?」
「う、確かに入り辛いか……。」
店内で雑談に興じているところに、バイト仲間や店長が来て話を一部聞かれる可能性がある訳だもんな。
込み入った話をするだけに、知り合いに聞かれるのはよろしくない展開だ。
ううむ、僕も最初から気付くべき事だったな……。
「じゃあ、何処へ移動するんだ? もう夕方だし、あまり遠い所に行って遅くなるのは望ましくないだろ?」
「あたし、夕方からバイトのシフトに入っている日は、いつも22時過ぎくらいに家に着くのよ。だから別に時間なら気にしなくて良いわ。」
「だとしても、今日のバイトは朝から夕方までのシフトだったんだろ? 親御さんとか心配するんじゃないのか?」
ただでさえ、娘が金髪ギャルになった事に頭を悩ませているかもしれないっていうのに。
蜂須の家の話を今まで大っぴらに聞いた事がないから、僕の勝手な推測に過ぎないけどな。
「いいえ、心配なんかしてないと思うわよ。大体、もう何年も口を聞いていな……っと、ごめん。今のは聞かなかった事にしてくれる?」
「いや、そういう訳にはいかないだろ。」
蜂須の家庭環境は、一体どうなっているんだろうか。
何やら深刻な問題を抱えていそうな雰囲気があるから、これまでは敢えて聞くのを避けてきたけど、僕で力になれる事があれば相談に乗るべきだ。
事なかれ主義からは逸れてしまうけど、散々お世話になっている恩返しにも繋がるしな。
「なぁ、綾音の家に今度遊びに行っても良いか?」
「は? どうしたのよ、急に。」
「蟻塚さんや蝶野会長の家には遊びに行った事があったけど、綾音の家には行った事がなかったなぁ、と思ってな。偽とはいえ一応付き合っている事になっているんだから、家に行くくらいは有りじゃないか?」
もちろん、若干の下心もないとは言わない。
決して手を出したりするつもりはないけど、それでも気になる異性の家に行ってみたいと思うのはごく当然の事だろう。
ただ、今回僕がこんな要求を口にした最大の目的は、蜂須の家庭の事情について手掛かりを得るためだ。
家に一度行ってみれば、根掘り葉掘り話を聞かずとも、多少は事情を知る事が出来るんじゃないだろうか。
そんな考えを抱いていた僕に、蜂須は眉間に皺を寄せた顔を向ける。
「あたしの家は駄目よ。どうしてもって言うなら、あんたの家にあたしが行くけど?」
「え? ぼ、僕の家にか!?」
うおおおお!
そ、それは……うん、想像しただけで堪らないな!
気になる女子を自分の部屋に連れ込む機会を得るだなんて、僕はいつからリア充の仲間入りを果たしたんだ!?
「綾音さえ良けれ……あっ。」
いや、待て、落ち着け。
僕の家に女子を招くという事は、必然的にうちの母と鉢合わせる可能性が出てきてしまう。
あの母親の事だ、僕が女子を連れ込んだなんて知ったら、喜色満面で大騒ぎするに違いない。
その光景を想像するだけで、頭が痛くなってくる。
無論、いずれ彼女を作るつもりであるなら、これは避けて通れない展開だ。
しかし、正式なカップルでもないのに囃し立てられると、蜂須にも迷惑を掛ける事になる。
そんな展開は、僕も望んでいない。
「ごめん、今の話はやっぱり無しにしてくれ。さすがに家に来られるのはちょっと気まずい。」
「でしょ? 急に家に行きたいなんて言われても、普通は困るものよ。」
「すみませんでした……。」
我ながら、無神経が過ぎたようだ。
猛省しつつ頭を下げ、僕は蜂須に謝罪した。
蜂須も本気で怒っている訳ではないのか、呆れたように嘆息し、再び歩き始める。
「とりあえず、さっさと移動しちゃいましょ。あんた、夕食は家で食べる予定なの?」
「まあな。多分、母さんが今頃夕食を作ってくれていると思し。」
「そう。だったら、あまり遅くならないうちに解散した方が良さそうね。エントランスのベンチにでも座って喋りましょうか。」
「分かった。」
蜂須の提案に従い、僕達はショッピングモールの1階にあるエントランスまでやって来た。
もう夕方という事もあり、昼間にここへ入った時と比べると明らかに人気は少なくなっている。
お陰で空いているベンチを労せず見つける事ができ、僕達はそこへ並んで座った。
「で、相談って何なの?」
「ああ、実は――夏休みに、キャンプに行くと言っていた件なんだが、正式に綾音にも来てもらいたいんだ。」
「それは、生徒会長から許可を貰った、っていう事でいいのよね?」
「もちろん。発起人の会長にはちゃんと説明して許可を貰ったぞ。」
「だったら決まりね。で、あんた達は今日はキャンプ用品を見繕うためにここへ来たんだっけ? レンタルの方が安いと思うんだけど、結局何か買ったの?」
「いや、全く。色々見て回りはしたけど、結局レンタルで済ませる事になった。」
「ふぅん。まあ、妥当なところね。」
蜂須はうんうんと頷き、ここまでの話に納得してくれた様子だ。
彼女もあまり懐が暖かい訳ではないと思うが、それでも参加すると返事をくれた事には感謝だな。
「あたしに相談したい話っていうのは、それだけ?」
「え?」
不意に、蜂須の目がキュッと細められ、射貫くような眼差しに切り替わる。
これは……鎌をかけている感じじゃなさそうだな。
明らかに疑念を含んだ眼をこちらに向けてきている気がする。
だが、どうしてだ?
僕はまだ、先ほど蝶野会長との間に起きた出来事について蜂須には何も説明していない。
それどころか、何かを匂わせるような言動を見せた覚えすらない。
僕自身が無意識のうちに、変なサインでも出してしまっていたのだろうか。
はたまた――。
「ねぇ、どうなの? ちゃんと話してくれないと分からないわよ?」
「あ、ああ。ちゃんと話すよ……。」
圧を感じる物言いに屈した僕は、未だ胸の内で燻る疑問を声に出す事が出来ないままに、頷きを返した。
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